戸部新十郎『秘剣龍牙』(その二)
名手・戸部新十郎の短編剣豪小説集『秘剣龍牙』の紹介の後編であります。今回は表題作を含む後半三編をご紹介いたします。
『足譚』
新将軍家光たっての希望で開催されることとなった兵法上覧を機に、兵法使いの牢人を見出し、不穏分子として抹殺せんと企む柳生宗矩。しかしその対象の一人・松林左馬之助は、足譚なる秘剣で柳生の刺客を返り討ちにすることに……
『燕飛』『陽炎』に続き、柳生新陰流・小野一刀流と他流派の剣豪との対決を描く本作。ここで題材となっているのはいわゆる寛永御前試合ですが――その巷説の原型となる兵法試合を、宗矩が裏の目的を込めてプロデュース(しかも形だけ小野忠常も連名というのが実に「らしい」)していた、というのも、実に興味深い設定であります。
そして本作で登場する剣豪が、松林左馬之助――本作には登場しませんが(というより本作後の名乗りですが)、またの名を蝙也斎として知られる人物。この左馬之助、松山主水ほどではないかもしれませんが、やはり通常の剣法の域を超えた技という点で共通する人物であります。
その秘剣――足譚に挑むことになる小野次郎右衛門忠常は、これまでの作品同様、剛直過ぎて老獪な宗矩に文字通り煙に巻かれる役回りなのですが、しかし……
本作の冒頭では、屋敷の廊下をツルツルに磨き、客がスッ転ぶのを見て喜ぶという宗矩の宗矩っぷりが描かれるのですが――それに対する忠常のリアクションが意外な形で生きるのに感心いたしました。
『龍牙』
一刀流中西門の名剣士・白井亨の道場に通ってくる美少年・富樫栄。鋭い面打ちの技を持ちながら剣に対してどこか冷淡な栄に興味を持った亨は、栄の父が何者かに斬殺された過去があることを知ることになります。そしてその魔手は栄にも迫り……
本書の表題作である本作は、ぐっと時代が下って江戸時代後期の物語。江戸の剣法道場の黄金時代とも言うべき時期の名剣士・白井亨の視点から物語は描かれます。
体格に恵まれない中で人に数倍する練習と修行を積み、ついに江戸剣法界にその人ありと知られるようになった亨。しかしその前に現れた栄は、そんな亨の過去も知らぬ気に、むしろ武士というものを白眼視するような言動を見せるという、ある意味好対照の存在であります。
そんな栄が体得していたのが、加賀の地方流派・義経神明流に伝わる秘剣龍牙。その技の概要自体は作中幾度か言及されるため、いざ披露された時に意外性はないようにも思えるのですが――しかし! 何故「龍牙」なのか、という理由が明かされた時の、感動さえ覚えるインパクトたるや……
そしてある意味ミステリ的な秘剣の謎解きの興趣もさることながら、今回再読してみると、同時に上で述べたようなキャラクターの栄がこの技を――という点においても感動があります。表題作となっているのも宜なるかな、と言うべき作品です。
『芥子』
同郷の大先輩である神道無念流斎藤弥九郎の練兵館道場の男衆となった弥助。天才的な剣才を持ち、練兵館の主のような存在となった弥助だが、幕末の動乱の中で己を見失い……
時代はさらに下り、巻末の本作の舞台となるのは幕末。綺羅星のような剣士たちが活躍した中で、知る人ぞ知る存在である仏生寺弥助を描いた作品であります。
同郷の出世頭である斎藤弥九郎に憧れ、江戸に出た弥助。男衆(雑用係)の身で、見様見真似から剣を会得し、頭角を現した弥助ですが――哀しいかな彼の存在は、時流から浮き上がったものとなっていくことになります。
剣術と学問を共に重んじ、ある種インテリ育成の場であった練兵館において、ついに主流になることはなかった弥助。周囲の武士たちが国事に奔走し、剣はそのための手段でしかなかったのに対し、剣しかなかった弥助にどのような結末が待つか――幕末という時代を考えれば想像がつきます。
シリーズに幾度か登場する、自らの不運と不徳で挫折し、転落していく物悲しい剣士譚の一つと言うべきでしょうか。
(しかし桂小五郎は、どの作品でもこんなキャラクター……)
というわけで、光文社文庫収録を機に久々に読み返しましたが、剣戟描写、秘剣のアイディアだけでなく、簡明にして味わい深い人物描写の妙を改めて再確認できました。
秘剣シリーズはあと三冊刊行されていますが、こちらも是非再刊していただきたいものです。
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