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2020.12.03

千葉ともこ『震雷の人』(その2) 巨大な「敵」の姿と人が往くべき道

 第27回松本清張賞受賞作にして作者のデビュー作、安史の乱を背景に大事な者を奪われた兄妹の戦いを描く物語の紹介の後編であります。その作中で語られる、世を動かす志の向けられる先とは……

 本作の背景となる安史の乱における人的被害は、二次的なものも含めて一説によれば3600万人、世界有数の死者を出した乱とも言われます。その大半は、本書でも随所に描かれる長安や洛陽をはじめ、燕軍が攻め込んだ先での蛮行によるものであることは間違いありませんが――しかしそのそもそもの乱を生み出した理由の一つは、唐という国、唐の政の腐敗にあるのです。

 本作において、それは唐と戦況を追う張永、そして安禄山を追って旅する采春の視点から、様々な形で描かれることになります。安禄山を迎え撃つべく出陣した将軍を些細なことから更迭し、罰する。街に迫る安禄山の軍に立ち向かうこともなく、民を見捨てて逃げ出す――そんな唐という国の乱れこそが、安史の乱の背景にはあります。
 そしてまたそれは、上に述べたように、乱が起きようと起きまいと、季明が、そして張永が(直接的に)挑もうとしていたものでもあります。

 そう考えれば、本作における「敵」が、単に安禄山や安慶緒といった燕軍だけではないことは明らかでしょう。敢えて本作の「敵」を挙げるとすれば、その一つは、こうした乱を招き、人々を苦しめる国の政の乱れであるとも言えるでしょう。


 しかし、人を苦しめるのは、そうした国のみではありません。そうした巨大な人々の集団でなくとも、もっと小さな人々の集団――例えば街、例えば隣人、例えば家族すら、人を苦しめる源と成り得ます。

 物語の中で描かれる、軍人になる前の張永――下級役人として大雨への対策に当たり、誰よりも避難の必要性を訴えながらも無視された彼は、いざ実際に被害が出てみれば全ての責任を押し付けられ、周囲からも憎しみの目で見られたという過去がありました。
 そして采春もまた、武術を好み、自ら戦場に出ることを厭わないその生き方が、母から疎まれ、悩ませることになります(これはむしろ苦しむのは母や張永の方ですが……)

 本作における最大の「敵」は、こうした人が生きる上で出会う様々な苦しみを生み出すもの――人が自分の信念に基づいて生きることをことを妨げる世の在り方といえるかもしれません。しかもそれは、時に「忠」や「孝」という、生きる上で当然守るべきとされるものの姿で現れることすらあるのです。

 そしてその苦しみとそれを生み出すものの存在は、張永や采春だけでなく周囲の様々な人々――二人の母や、采春が潜り込む旅芸人の一座の長・福娘、そして物語後半で采春の運命に意外な影響を与える人物に至るまで、様々な視点から描かれることになります。
 この物語のテーマと結びついた丹念な人間描写が、本作を大活劇だけで終わらない、深みのある物語として成立させていることは間違いありません。(特に福娘の半生は、この安史の乱に大きく影響を与えた、しかし本作には直接登場しないある人物のそれを仮託しているようにも見えるのですが……)


 しかし、このような巨大な「敵」を相手に、人に為すすべはあるのでしょうか。相手が個人であれば、采春がそうしようとしたように、武によって除くことができるかもしれません。ところがこの敵には武は通じない――いや、そうしようとすれば、まさに安禄山や安慶緒と同様の存在になりかねないのです。

 そんな極めて難しい問いかけに対して、本作は、我々の前に一つの答えを提示してみせます。しかしそれは、極めて険しい道のりであります。仮に行く手に希望の光が見えたと思っても――本作でも描かれたように――すぐにかき消されてしまうかもしれません。非力な一庶民には、踏み出すことすら覚悟が必要でしょう。
 それでも、それでも人は、一人の人は、決して無力ではない。人は、その言葉で以て世を動かすことができる――いや、そうでなくてはならない。本作はそう静かに、そして力強く語りかけるのです。


 そしてその問いと答えは、決して過去の、異国の、架空の物語においてのみ存在するものではありません。それは現在の、この国の、我々が生きる現実においても通底するものであり――だからこそ、先に述べた季明の言葉は、いよいよますます、我々の心に強く響くのです。まさしく震雷の如く。

 波乱万丈の歴史活劇であると同時に、今ここで読まれるべき人の生きるべき道を描いた物語――私にとって今年ベストの作品と呼びたい、そんな作品であります。


『震雷の人』(千葉ともこ 文藝春秋) Amazon

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