伊吹亜門『雨と短銃』 幕末史の陰に生きた人々を描く「時代ミステリ」
第19回本格ミステリ大賞受賞作『刀と傘 明治京洛推理帖』の前日譚――禁門の変後の京を舞台に、薩長同盟の行方を左右する奇怪な殺人事件を描く作者の初長編であります。主人公は『刀と傘』でも主人公を務めた尾張藩士・鹿野師光――龍馬の依頼を受けて謎を追う彼が見た真実とは?
八月十八日の政変と禁門の変によって大きなダメージを負った長州の起死回生の一手として、桂小五郎と西郷隆盛に働きかけ、薩長の間に協約を結ばせようと奔走する坂本龍馬。しかしようやくそれが現実のものになろうとした時、桂の名代である長州藩士・小此木鶴羽が、薩摩藩の渉外役・菊水簾吾郎に斬られるという事件が発生します。
しかもそれを発見したのは当の龍馬だったのですが――現場となった稲荷神社で、地に伏した小此木の傍らに立っていた血まみれの菊水は、龍馬に追われるや、逃げ場のないはずの鳥居道から忽然と姿を消してしまったのであります。
長州藩士が薩摩藩士に斬られたとあらば、交渉決裂は必至。この窮地に、龍馬は知人の尾張藩公用人・鹿野師光に菊水探しを依頼するのでした。
非協力的な態度を示す西郷、龍馬を狙って近づく新撰組の土方らに翻弄されつつも、菊水の行方を追う鹿野。捜査の末、彼は小此木と菊水、それぞれが謎めいた行動を取っていたことを知るのですが……
江藤新平とその部下の鹿野を主人公に、幕末から明治にかけての特異な時代背景を踏まえたホワイダニットを描いて好評を博した連作短編集『刀と傘』。本作はその前日譚として、鹿野が出会った奇怪な事件が描かれることになります。
尾張藩の公用人(留守居役の補佐役)である鹿野は、短躯ながら剣の達人、そして優れた推理力を持った男。当然公用人であるからには顔も広く、本作の探偵役として龍馬に選ばれたのも、この点によるところが大といえます。
そして彼が探偵役を務める舞台となるのは幕末の京。前年長州が大敗を喫してなりを潜めたとはいえ、維新志士の活動は続き、それに対して新撰組が容赦ない取締りを行うという、まことに血なまぐさい世界であります。
そして本作で描かれる事件もまた、長州藩の交渉役が血溜まりに沈んだ姿で発見されるという、まことに血なまぐさいものではありますが――本作はその一方で、暗く沈んだ、ある意味静かな物語という印象があります。
その理由の一つは、登場人物の多くが――特に被害者と容疑者が、いずれも(後世から見れば)無名の人物であることでしょう。
後世に名を残すような綺羅星のような英傑――龍馬・桂・西郷あるいは土方のような人々とは異なり、歴史の表舞台に出ることはなく、しかし彼らと共に、あるいは彼らと相対して懸命に生きてきた者たち。
本作は(当人もその一人である)鹿野の目を通じて、そうした人々の姿を描くことにより、同時に幕末史の陰の部分を浮かび上がらせているのです。
もちろんこうした視点は前作でも貫かれていたところではあります。しかし本作は長編としてより丹念に時代背景を描くと同時に、そこに生きる人々の姿を先に述べた英傑たちと対比してみせることにより、この視点がより先鋭化したものとして感じられます。
そして忘れてはならないのは、ミステリとしての側面ですが――正直なところ、一種の閉鎖空間から忽然と容疑者が消えるというトリック自体は、実はそこまで凝ったものではないように感じます。(トリッキーさという点では、前作の収録作品の方が、インパクトはあるかもしれません)
しかしそのトリック以上に、犯人が犯行に至ったホワイダニットの部分こそが、本作を優れたミステリとして――いや、「時代ミステリ」として成立させていると感じます。
そう、この事件は、まさにこの時代、この場所でなければ起き得なかった、起こされ得なかったものなのであります。そしてその結末もまた……
個人的には○○○が犯人という趣向はどうしても好きになれないという点はあります。しかし時代ミステリとして、そしてあの時代に生きた人々を描く物語として、本作がやはり魅力的な作品であることは、間違いありません。
果たしてこのシリーズの新たな作品がこの先描かれるのかはわかりませんが――いずれにせよ作者の次なる作品が、今から楽しみなのです。
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