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2021.08.19

川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第20巻 一冊丸々撤退戦! 敗北が約束された戦場のゆくえ

 記念すべき第20巻――なのですが、そのことも目に入らないほど緊迫した情勢の項羽の追撃が続く『龍帥の翼』。范増の死をパワー源として迫る項羽に、成皋に篭もる劉邦たちも、もはや打つ手なし――勝算が既になくなった今も、しかし張良の戦いは続きます。

 これまで滎陽に篭って項羽の軍を迎え撃ってきた劉邦軍。しかし圧倒的な戦力の違いの前についに滎陽を脱出した劉邦軍は、幾多の犠牲を払い、宛、成皋と点々としながら、なおも項羽の追撃を受け続けることになります。
 彭越の後方撹乱で体制を立て直す機会を得たものの、しかし張良と陳平の策によって仲を割かれた范増の死を知った項羽は悲憤慷慨――怒りと悲しみをパワーに変え、一気に劉邦を追い詰めにかかって……

 という、本気で怒った項羽が大軍を率いて突撃してくるという絶望的な状況から始まるこの第20巻。もはや最後の希望は張良の詭計のみですが――そこで張良がまず訪れたのは、酈食其のもとであります。
 酈食其といえば、史記ではあまりよい印象のない儒者。本作でも(当然)触れられているように、劉邦に一度は認められた献策を張良に箇条書きでダメ出しされ、食事中の劉邦が食べ物吐き出しながら取り消したという、ちょっと可哀想な人物であります。

 その、自分から見ればある意味仇敵である張良の策を――それも自分の死が確実である策を――聞かされながらも、これを諒として劉邦のもとに向い、平然と「死を賭して行く」と斉を説得に向かう酈食其。
 「行くぞ孺子(こぞう)」と張良を引き連れて飄然と劉邦の前に現れる姿が、実に格好良いのですが――彼の真骨頂はこの巻ではなく、次巻以降であります。


 そう、この巻のメインとなるのは、劉邦軍の成皋からの脱出。古来、撤退戦は一番難しいといいますが、しかも相手が怒り狂った項羽と、その狂気にヤられた軍勢とくれば、ほとんど不可能ミッションとすらいえるでしょう。

 この不可能事を成し遂げるに、まずは劉邦と夏侯嬰をただ二人で脱出させるという奇計をとった張良。当然その他の武将たちは取り残されるわけですが、これはある意味体を張った囮であります。
 しかし彼らとて生きて落ち延び、再び劉邦の下に参じなければいけません。ここで張良が取った策は籠城ではなく野戦。確かに籠城しても持ちこたえられる時間はたかが知れている上に、逃げても逃げても項羽は追ってくる。だとすれば、少しでも有利な地形を利用して戦うに如くはなしかもしれません。

 しかしだからといって今の項羽の軍と戦って勝てると思う者は誰一人ありません。そしてそのあらかじめ敗北が約束された戦場において、善戦むなしく漢軍は敗れ、潰走することになったのですが……

 と、ここで語られる張良の策の真実が、圧巻なのであります。軍略だけでなく、人間心理の裏の裏まで読んだ上での策――その策によって張良は「完勝」を収めるのですが、その代償は決して小さいものではありません。
 兵士たちの犠牲もさることながら、張良自身も囮となってのこの策。もちろん張良の傍らには黄石と窮奇がいるとはいえ、しかし彼ら自身も無事に撤退することはできるのか……


 と、ほぼ一冊丸々撤退戦というわけで、一歩間違えると何とも悲惨な展開になりかねないこの巻でしたが、策だけでなく自分の身体も張った張良たちによって、敗戦よりも奮戦というイメージが強い内容となりました。
(そしてまさにそれは、張良の策がまさに的中したというべきでしょう)

 もちろん、酈食其の件も含めて、全てが張良の策とされるのも、それはそれでどうかと思いますが、本作の場合はやむを得ないというべきでしょうか。
 何はともあれ、この先で気になるのは張良たちと別れて修武に陣を構える韓信のもとに駆け込んだ劉邦の行動。予告では何やらとんでもないことをしでかすようですが、さて……


『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第20巻(川原正敏 講談社月刊少年マガジンコミックス) Amazon

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