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2021.12.09

岡田屋鉄蔵『MUJIN 無尽』第9巻 幕末最後の青春と巨大な歴史の流れと

 伊庭の小天狗こと伊庭八郎の生涯を描くこの漫画も、早いものでもう第9巻。前巻でついに奥詰衆として江戸城に出仕することになり、忙しくも充実した暮らしを送る八郎の前に、意外な脅威が迫ることになります。そして平和な日々もつかの間、新たな戦火の機運が高まり……

 将軍上洛の警護として京に往復し、これまでの江戸での暮らしとはまた違う世界を垣間見た八郎。そして若くして奥詰衆――将軍の親衛隊となった八郎は、江戸城と講武所、自宅を往復する、忙しくも充実した日々を送ることになります。
 そんな中、八郎のもとにやって来た風変わりな絵師。国芳の弟子と名乗るその男は熱心に八郎を描きたがるのですが、絵には嫌な思い出のある八郎としてはちょっと――と言いつつも根負けした八郎は、自分が奥詰衆として功績を挙げた後であれば、描いてもよいと条件を出すのですが……

 と、この絵師が誰であるか、八郎のことをご存知の方であればすぐわかるかと思いますが、ここではまだその名は伏せられているため触れないでおきましょう。
 しかしある意味メタな視線ではありますが、彼とその絵のことが触れられたということは、いよいよこの物語の終わりも近づいてきたという気持ちもいたします。


 と、そんなことは置いておくとして、ここで思わぬ強敵が八郎の前に立ちふさがることになります。それは、縁談を手に押しかけてくる親戚連――なるほど、既に出仕しているとくれば一人前も一人前、次は嫁取りというのは、この時代当然の流れではあります。
 とはいえ、練武館といえば名門中の名門、それだけに親戚連もうるさ方揃いで、若き八郎がそれを煙たく――というか圧倒されるのも無理はありません。そして、これに対して八郎は――逃げた。

 まさかの家を飛び出しての逃走、しかも初日は品川(つまり遊郭)に泊まり込みという彼の行動は――もちろん初日以降は菩提寺に身を寄せ、そこから出仕していたのですが――それ自体、この時代の幕府のある種の呑気さの象徴といえるかもしれません。
 とはいえ、本作が伊庭八郎というこの時代に生きた等身大の青年の青春記であるとすれば、この展開ももちろん大いに楽しいものであります。もちろんこの嫁取り騒動も、この先を知る人間としてみれば、いささか切ない展開なのですが……


 しかし、八郎が江戸で最後の青春を送っている間も、巨大な歴史の流れは動き続けます。
 それまでの展開からすれば腰砕けとしかいいようのない長州征伐の結末、そしてそれと対象的に凄惨な幕切れとなった天狗党の乱――どちらも江戸の八郎たちにとっては伝聞のみで語られる出来事ではありますが、八郎の日常と並行して描かれることにより、それは奇妙な迫力を持って感じられることとなります。

 当たり前のことですが、後世の我々が歴史として眺める時の流れは、大所高所の一部の人々の動きのみで構成されているわけではありません。特に幕末のようなその流れが早く激しい時代には、それを忘れがちですが――しかし決してそうではないことを、本作は、特にこの巻は教えてくれるように思います。
(同時に、大所高所にいるのもあくまでも人間であることを、この巻の冒頭の家茂の菓子のくだりは教えてくれるのですが)

 そしてこの巻の結末では、その大所高所の歴史と、八郎個人の歴史が再び接点を持つことになります。三度目の将軍上洛に再び付き従うことになった八郎。いよいよ歴史の流れがその勢いを強め、八郎もその流れに足を踏み込んでいくことになるのか――この巻のラストは静かであるだけに、その先が気になります。(そしてまた吉原で花魁と名残を惜しむ八郎)


 ちなみにこの巻の巻末では、伊庭家の歴代の墓石の文言が掲載されているのですが、これが貴重かつ圧巻の内容。「史実はネタバレ」の極地ではありますが、物言わぬ文字の連なりがこれほどの重みを持つとは――と、感心させられるのです。


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