宝塚歌劇『宝塚剣豪秘録 柳生忍法帖』(後編) 十兵衛とおゆらの関係、おゆらの変化の意味
宝塚歌劇団によって舞台化された山田風太郎『柳生忍法帖』の(ライブビューイング)の紹介の後編であります。限られた時間の中で、原作のエッセンスを活かしつつ見事に舞台化してみせた本作。その中で最も印象に残るのは……
本作において最も印象に残るのは、そして物語の中心にあったのは、礼真琴演じる柳生十兵衛と、舞空瞳演じるおゆらであったことは間違いないでしょう。
柳生十兵衛は、豪快にして稚気溢れる、そしてどこか紳士的な心意気を忘れない剣侠児を見事に再現――登場時はちょっと若いかなという印象でしたが、鶴ヶ城でのあの大啖呵を気持ちよく見せてくれました。
そしておゆら――ある意味作中で最も変貌を遂げる彼女を、この舞台では台詞はもちろんのこと、しかし何よりも特に目に現れる微妙な表情で示してみせたのが素晴らしい。(この演技を観ることができたのは、ライブビューイングならではの利点といえたかもしれません)
そもそも本作のおゆらは、原作の彼女とは異なる点も多いキャラクターであります。その立ち位置こそ、銅伯の娘で明成の愛妾の妖艶な美女、と変わりませんが――前回紹介したあらすじで述べたように、江戸の時点で一種の銅伯の名代として登場するという変更点もありますが――むしろその内面において大きく異なると感じます。
本作においては実は虹七郎と慕い合い、父によって明成の側に遣られる際に、連れて逃げてくれと願いながらも彼に裏切られていたおゆら。この点を踏まえれば、本作での彼女は、父と恋人に裏切られ、芦名家復興の道具として使われた存在なのであります
(おゆらを挟んで、十兵衛と虹七郎の対称性が強まっているのもなかなか面白い。そこまで強調はされませんでしたが……)
それが奔放不羈な十兵衛と出会って、彼女がどう変わったか――それは悪女の深情けというものに留まらず、道具であった彼女が、十兵衛の自由な魂に触れて自分自身を取り戻した、自分自身を解放したというべきものだったのではないでしょうか(この辺りは本作オリジナルの末期の台詞に明確であります)。
原作では自ら魔香に酔ってという描写もありましたが、本作においては彼女には魔香は効かないという設定であり、あくまで己の意思のみでもって十兵衛に恋した点に注目すべきでしょう。
そんな原作とは少々、しかし明確に異なる彼女の設定と物語の中に、本作をいま、そして女性のみで構成された劇団で演じる意味がある――というのは、これはさすがに深読みが過ぎるかもしれません。
しかし天海との対面のくだりで、これも原作にはない、千姫に自分がお家の道具として使われた過去を語らせる点も鑑みれば、これはこれで当たらずとも遠からずなのではないでしょうか。
実は本作のラストの十兵衛の台詞は、原作のそれとほとんど同じであるようで――こちらの聞き間違えでなければ――微妙に異なるものであります。
そして原作での台詞の根底にあるのが一種の義務感であったとすれば、本作のそれの根底にあったのは共感ではないでしょうか。
実は十兵衛もまた、かつては縛られた境遇にあった者(本作においていかにも堅物そうな父の描写からわかるように、十兵衛は将軍家指南役という、ある意味非常にお固い役目につく宿命にあった人物であります)
そんな彼だからこそ、おゆらの境遇を理解し、共感できたのではないか――そう感じた次第です。
などとあれこれ妄想混じりに申し上げましたが、本作が一時間半強という時間内で、長大な原作を巧みに換骨奪胎し、豪華な衣装と歌と踊りで再生してみせた、ストレートに楽しい作品であったことは間違いありません。
十兵衛と虹七郎の決着は原作の方がよかったな、とか、十兵衛のラス台詞前の実に格好良い台詞は残して欲しかったな、などと、厭な原作ファンとしては細かいところで色々と思う点はありますが、このような形で舞台化してくれただけでもう感謝感激というほかありません。
ありがたいことにソフト化もされており、ぜひ原作読者はその内容を確かめていただきたいと思いますし、また舞台をご覧になった方には、ぜひ原作の方も手に取っていただきたい――そう強く願うところであります。
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