上田早夕里『播磨国妖奇譚』 人ならざる者の「人の情」を受け止め、解きほぐす物語
上田早夕里といえばオーシャンクロニクルシリーズをはじめとするSF作家としての印象が強くありますが、本作は室町時代中期の播磨を舞台とした一種の陰陽師もの――『オール讀物』に掲載された六話を収録した連作集であります。
播磨国で暮らす薬師の律秀と僧侶の呂秀。かの蘆屋道満の子孫である彼らのもう一つの顔は、民間にあって人々を助ける法師陰陽師――人ならざる者を見る力を持つ呂秀と、そうした力はないものの理詰めで物事に当たる律秀は、それぞれの力を合わせて様々な出来事に対処する毎日であります。
そんなある日、兄弟に持ち込まれた奇妙な噂。二人も世話になっている燈泉寺の井戸に顔を映して、映らなかった者は三年以内に死ぬというのであります。そんな話は初耳の二人でしたが、実際に顔が映らず、体調を崩した者たちがいると聞けば、放ってもおけません。調べ始めた二人ですが、その晩、呂秀のもとに、不思議な声が訪れます。
どうやらこの声が今回の件を引き起こしていると悟り、単身声の主と対峙する呂秀。赤い巨躯、二つの目の上にもう二つの目が縦に並んだ恐ろしげな姿をしたその主は、かつて蘆屋道満が京に向かう時、地元の井戸に残された式神だと語ります。
この式神を野放しにしてもおけず、呂秀は「あきつ鬼」と名付けて、己の式神とすることに……
そんな第一話「井戸と、一つ火」に始まる本作は、この法師陰陽師兄弟と式神のあきつ鬼を中心に展開する連作シリーズであります。この設定を見ると、トリオが様々な怪異と対決し、打ち祓っていく物語のように思えるかもしれませんが――本作はそこから微妙に異なる物語を紡いでいくことになります。
なんとなれば、兄弟の前に現れるのは、必ずしも人を害するような妖ではなく――というよりそちらのパターンは非常に少なく――むしろ、こうした人ならざる者たちと人が共存する世界で、人(やそれ以外)の悩みに寄り添い、それを和らげていこうとする二人の姿が描かれていくのですから。
(それゆえか、あきつ鬼も毎回登場するというわけではありません)
先達の厳しい指導がもとで体を痛めた猿楽師の治療に訪れた兄弟が、猿楽師たちにまとわりつくように現れる亡霊の存在を知り、その出現の理由を探る「二人静」
都の天文寮からやってきた生真面目で融通の効かない天文生・有傅を案内することになった兄弟が、地元の星観の地である大撫山に彼を誘う「都人」
人間の妻と暮らしているという犬面人身の山の神の来訪を受けた兄弟が、山中異界で彼や妻の身の上を聞き、二人からあることを託される「白狗山彦」
海に現れる物の怪の退散を頼まれた兄弟が、武者の亡霊が都人を探していると知り、有傅を引っ張り出して向かった海上で、亡霊の意外な正体と望みを知る「八島の亡霊」
畠仕事の最中に、薬草園の梨の樹の傍らで舞う不思議な存在を目撃した呂秀がその望みを叶える「光るもの」
これらの物語の特徴は、基調となる空気がどこまでも柔らかく、優しく、ホッとさせられるものがある点であります。
それが特に印象に残るのは、「二人静」と「白狗山彦」でしょうか。どちらもこの世ならざる者が絡む出来事ではありますが、そこにあるのは、そんな彼らが持つ「人の情」というべきもの。そしてそれを兄弟が術任せではなく、それをやはり人の情で受け止め、解きほぐすことによって、暖かい物語が生まれているのです。
そしてそんな「人の情」は、見るからに恐ろしく、そしてしばしば力任せに振る舞っているように見えるあきつ鬼にもあります。
蘆屋道満によってこの地に残されたことを悲しみ、荒れていたこの式神は、裏を返せばそれだけ主である道満を慕っていたといえます。新たな主である呂秀に対しては、気儘に振る舞うようにも見えますが、しかしそれもまた、彼なりの思慮によるものなのです。
(そしてその道満も、作中では陰陽師ものでしばしば描かれるような悪役やトリックスターではなく、一人の人間として受け止められているのが印象に残ります)
このように、人と人ならざるものへの独自のアプローチが、他の陰陽師ものとは一風異なる味わいを生み出すことに成功している本作。そしてそれは、播磨という舞台にある、都とは異なる豊かな自然と、どこか長閑な空気とも無縁ではないでしょう。
この空気がいつまで続くのかはわかりませんが――作中で仄めかされるように、物語の翌年には播磨と都を結ぶ大事件が起きることになります――しかしこの暖かさに、この先も触れていたいと思わされる物語であります。
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