千葉ともこ『戴天』(その二) 権力と人の関係性が生む恐怖 それでも叫ぶ人々
松本清張賞を受賞のデビュー作『震雷の人』に続く、千葉ともこの第二作の紹介の後編であります。唐の玄宗皇帝の時代を舞台に、絶対的な権力者に挑む者たちの戦いを描く波瀾万丈の物語である本作。しかし描かれるのは、彼らの姿だけではないのです。
本作は同時に、作中における最強・最凶の敵である辺令誠の内面をも克明に描き出します。本作の中盤で描かれる辺令誠の過去――彼もまた、かつて権力に虐げられ、大切なものを奪われたことを示す、あまりに無惨なその内容は、実は彼もまた彼なりのやり方で、この世に、この世の上にあるものに抗う者であったことを、浮かび上がらせるのです。
その意味では、その抜きん出た存在感も含めて、辺令誠も本作の主人公の一人に相応しい人物というべきかもしれません。しかしあくまでも、彼は崔子龍や真智たちとは対極に位置する者として――先に述べたように、権力を他者に対して振るい、支配することを躊躇わない怪物として存在し続けます。
実に本作は辺令誠の存在を通じて、ほぼ全編に渡り、権力が人に及ぼす影響を――権力が人からその自由意思を奪っていく様を描き出します。権力が人を従える、動かす――言葉にすれば簡単ですが、その作用が、突き詰めれば人の精神を破壊していく過程であることを、本作は克明に語るのです。
もちろん、作中で描かれたそれは極端な――ある種、独裁国家の収容所で行われていたという手法を彷彿とさせる――ものであるかもしれません。しかしそれが程度の差こそあれ、我々の暮らす社会でもごく普通に存在していることに気付いた時――そしてそれ以上に、自分が同様の立場に置かれれば、まず抗うことはできないだろうと気付いた時、大きな恐怖が生まれることになります。
そう、本作は胸躍る歴史ロマンであると同時に、いつの世にも存在する権力と人の関係性を、そしてそこから我々読者も自由ではないことを描き出す、極めて恐ろしい物語でもあるのです。
しかし、本作で描かれるのは、権力の前に己の意思をすり潰され、ひれ伏す人の姿だけではありません。どれほど権力が強大に見えても、己が無力に見えても、人は権力に屈しない道を選べるのだと、声なき叫びを上げる人々を――たとえ己一人では無理であったとしても、同じ志を持つ人々がそれぞれに小さな勇気を振り絞った時、必ず道は開けるのだと信じる人々を、本作は同時に描くのです。
本作のタイトルである「戴天」は、物語の冒頭で高仙芝が崔子龍に語る「英雄とは、戴いた天に臆せず胸を張って生きる者だ」という言葉から取られたものでしょう。
そしてまた、この天こそは、人の上に立つものの象徴でもあります。それは本作で描かれた権力や権力者だけでなく、それ以上に人の身では抗いがたい宿命、まさしく「天然」すら含む――そんな意味を持つのです。
(そして、だからこそ辺令誠は「英雄」を憎むのだと理解できます)
しかしそれでも、人は人として、自立した一個人として己の意思を持ち、生きることが
できます。そしてそれは決して、いかにも英雄に相応しい高仙芝のみに当てはまるものではありません。
苦闘の中で心身に幾多の傷を負いながらも屈しない崔子龍、養父の遺志に触れる中で人の真の尊さに気付いた真智、そして己の体を擲ってまでも人が人として生きることを示した夏蝶――彼ら一人一人が英雄なのです。
(そしてそんな真智の言葉と照らし合わせれば、辺令誠の過去の最も痛ましい部分こそが、辺令誠という人間の在り方を、彼がその道を歩む理由を示す、一つの象徴と感じられます)
そしてそれは、物語の登場人物のみのことではありません。我々一人一人もそうである、そうであろうとすることが出来ると、本作は正面から謳い上げるのです
波乱に満ちた歴史活劇の中で、権力と人の関係性の恐ろしさを描くと同時に、その恐ろしさにも負けない人の強さと、あるべき人の姿を描いたこの『戴天』という物語。
『震雷の人』と重なりつつも、そちらで描かれなかったものをさらに掘り下げた印象もある、まさに姉妹編というべき作品であり――そして同様に、今を生きる我々に、勇気と希望を与えてくれる作品であります。
(にしてもアイツ、あれでも丸くなってたんだなあ……)
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