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2022.07.02

加部鈴子『本能寺の敵 キリサク手裏剣』 少女忍者の手裏剣が本当に切り裂いたもの

 今に至るまで無数の歴史・時代小説の題材となってきた本能寺の変。本作は、明智家に仕える少女忍者の視点から、本能寺の変の真相を描く、ユニークな児童文学であります。はたして本能寺の変の真実とは、そしてそれを起こした本当の敵とは……

 幼い頃に戦乱で親を失い、「オヤジさま」に忍びとして育てられた涼音。今はオヤジさまともども明智家に仕える彼女は、温厚な光秀だけでなく、彼を一心に慕う後妻の淑子や光秀の孫の於長に、安らぎと親しみを感じるのでした。
 そんな彼女の前に現れたのは、子供の頃一緒に修行した忍び仲間の少年・風斗。仲間たちのほとんどが織田軍に殺され、今は家康に仕えているという風斗は、家康が光秀と渡りをつけたがっていると告げるのでした。

 その言葉を踏まえて、接近を始める光秀と家康。しかし涼音は、伊賀の里を滅ぼした信長に恨みを抱き、その首を狙うという風斗の存在に、不安と不信感を抱くことになります。
 そして安土城で家康を接待することになった光秀に同行し、周囲に目を光らせる涼音。彼女の機転で何者かが仕掛けた罠を回避したものの、しかしそれが原因で光秀は信長により、家臣の面前で打擲されるのでした。

 その直後、信長が光秀を呼びつけた場に忍ぶ涼音。そこで彼女が耳にしたのは、信長の思いもよらぬ言葉で……


 冒頭に述べたように、これまで無数に描かれてきた本能寺の変。ということは、その理由もまた、無数に描かれてきたということでもあります。

 その中にはもちろん、光秀が天下取りの野心を抱いたというものもありますが――本作の光秀はそんな野心とは無縁の、温厚で家族と、そして平和を愛する常識人として描かれることになります。
 そんな光秀の姿を、本作は主人公の涼音の目を通じて丹念に描くのですが――では何故そんな光秀が信長を討ったのか。その謎が本作の中心にあることは言うまでもありません。

 しかし本作が描くのはそれだけではありません。その謎をより深め、そして涼音の心を悩ませる存在として、ある意味忍びらしい忍びである風斗が設定されていることが、本作の見事な点と感じます。
 涼音とは幼馴染でありながら、冷笑的な言動を絶やさず、それどころか涼音の周囲で幾度も不審な行動を見せる風斗。はたして彼は敵なのか味方なのか――涼音が正統派の(?)主人公である一方で、出番は比較的限られているものの、どこかダークヒーローめいた彼の存在感が際立ちます。

 そしてまた、光秀と風斗は、涼音を挟んで、ある意味対照的な存在であるとも感じられます。武将と忍び、表と裏、平和と戦争――その両者が交錯するところに、本能寺の変の真実があり、そしてだからこそ、その真実に気付くことができるのは、涼音なのです。


 正直なところ、本作で描かれる本能寺の変の理由自体は、(特に色々な作品を見ている方にとっては)あまり意外ではないかもしれません。そしてその理由と密接に結びつく光秀の存在も、多分に理想的に描かれていると感じるかもしれません。
 しかしそれはすべてそうでなけれなならなかったことが、本作の最終章で明かされる本能寺の敵――いや本当の敵の正体を知った時に理解できます。風斗ではなく、涼音が本作の主人公であった理由もまた。

 本作のサブタイトルは「キリサク手裏剣」であります。これは最終章の一つ前の章題でもありますが、はたして何を切り裂くというのでしょうか。
 その直接の答えは、その最終章の一つ前で描かれるのですが、しかしそれだけではないことに、この最終章で気付かされます。

 手裏剣が本当に切り裂いたものは何だったのか――確かにそれは、涼音が持ってきた絆への、訣別の一撃だったかもしれません。しかしそれは同時に、たとえ小さくとも、彼女が己の強い意思を持って報いた一矢ではなかったのかと感じられます。彼女が知った本当の敵に対しての……
 そしてそれは悲しくも、人間の生というものへの、一つの希望として感じられるのです。


 起伏に富んだ歴史時代小説であると同時に、そこから一歩踏み出した、あるいは一歩距離をおいた視点から、歴史というものを描いてみせた――それは児童文学であるからこそできたアプローチであるかもしれません――本作。
 静かに心に残る佳品であります。


『本能寺の敵 キリサク手裏剣』(加部鈴子 くもん出版) Amazon

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