木下昌輝『孤剣の涯て』(その二) 呪われた怪物たちと呪いからの解放の希望
「五霊鬼の呪い」を追い、宮本武蔵が繰り広げる苦闘を描く物語の紹介の続きであります。本作の中心人物である武蔵と鬼左京、二人に共通する要素とは、そして真の恐るべき呪いとは……
さて、ここからはかなりの部分が私見となりますが、武蔵が登場する『敵の名は、宮本武蔵』(以下『敵の名は』)と、左京が登場する『宇喜多の楽土』いやその源流たる『宇喜多の捨て嫁』(以下『捨て嫁』)には、共通項がある――さらにいえば、『敵の名は』と『捨て嫁』は、ある意味表裏一体の物語であると私は考えてきました。
時代背景も物語の方向性もそれぞれ異なるように思われる『捨て嫁』と『敵の名は』。しかしこの両者には呪いの物語――呪われた人々の物語、呪いによって怪物に作り変えられた者を描く物語という共通点があると感じられるのです。
『捨て嫁』の主人公・宇喜多直家は主君たる浦上宗景によって、『敵の名は』の武蔵は父・宮本無二斎によって――それぞれ呪いをかけられ、人ならざる「怪物」に作り変えられていく――作品上のウェイトは異なるもののそんな過程が、この両作品には描かれていました。
とはいえ、直家が踏みとどまることができなかったある一点を、武蔵が踏みとどまったことで、彼は人間として蘇ることができたことが示されるのですが――いずれにせよ、武蔵の半生は呪われたものであったといえます。
そして鬼左京が、直家によって間接的に呪いをかけられ、「怪物」と化した存在である(そして本作において、もう一つの呪いをかけられていたことがわかるのですが)ことを考えれば――本作は呪いをかけられた(そして一方はその呪いから逃れ、一方は呪われたままであった)者たちが、さらなる呪いに翻弄される物語という構図にあると言えるのではないでしょうか。
しかし本作における呪いは、一つではありません。武蔵が追い、左京がその関与を疑われる「五霊鬼の呪い」――ある意味極めて直接的な呪いであるこの呪いだけではなく、もう一つの呪いが、大坂の陣には仕掛けられていることが、やがて明らかになります。
その呪いとは何か? それは物語の核心となるだけにここでは伏せますが、これまで挙げてきた作品における呪いに通底するものを持ちつつも、対象・効果ともに比べ物にならないほどに強大で、恐るべきものであるとだけは、申し上げたいと思います。
さて、この記事では、これまで数え切れないほど「呪い」という言葉を使ってきましたが、ここでいう呪いとは、ホラーに登場するような、超自然的な力の作用などとは異なるものであります。
それは言うなれば、人の意志の「支配」――言葉や行動によって他者の意思を支配し、その行動を(かけられた者にとって悪い方向に)規定してしまうことを指します。
そうだとすれば、本作で描かれるもう一つの呪いが、決してこの物語に、この舞台となる時代に特有のものではないことがよくわかります。そう、我々もまた、呪われた存在であるということが。
それでは、『敵の名は』一度は呪いから逃れた武蔵をも苦しめた、そして『捨て嫁』から『宇喜多の楽土』に至るまで呪われ続けた左京をさらに縛った、この呪いから逃れる術はないのでしょうか。我々も呪いをかけられたまま、望まぬ怪物となっていくしかないのでしょうか?
その答えの一端を、本作の結末は示します。それはあくまでも第一歩にすぎないのかもしれません。そしてややもすれば抽象的なものに感じられるかもしれません。しかし、呪いの正体が意志の支配であるとすれば――それに抗する道は、希望は確かにあると、そう信じることができます。
様々な呪いの存在と、呪われた者の姿を描きつつ、その呪いからの解放の希望を描く。そんな本作は、これまで作者が描いてきた呪われた者たちの物語の集大成として読むことができるのではないか――そう感じられるのです。
そしてこれは完全に蛇足ですが――本作に登場した三木之助のその後を考える時、そこにも一種の呪いの存在を感じます。この点も含めて、その後も呪いと戦い続けるであろう武蔵の物語が、いつか描かれることを期待している次第です。
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