岡田屋鉄蔵『MUJIN 無尽』第10巻 日常的で非日常的な状況の中で
単行本も二桁に達した『MUJIN 無尽』ですが、この巻で描かれる物語は嵐の前の静けさ――というより、表面では見えなくても、その下で激しく荒れ狂っている印象があります。再度の長州征討に向けた三度目の将軍上洛に従い、大坂に向かった伊庭家の男たちを待つものは……
いよいよ幕末の嵐が訪れる――などという実感はないまま、縁談を押し付けてくる親戚連に辟易として家を飛び出すなど、それなりに青春を謳歌していた八郎。しかし長州再征に向けた将軍家茂の三度目の上洛に従い、奥詰衆として彼も大坂に向かうことになります。
いや八郎だけでなく、九代目軍兵衛や、八郎の弟である武司と義蔵も上洛することとなった伊庭家。江戸に残された礼子はもちろんのこと、鎌吉も気を揉むことになります。
しかもそれ以降、江戸にはほとんど音沙汰なし。はたしてその頃、京・大坂では何が、と思えば――表面上は何も起きていない状態ながら、水面下では激しく「政治」が行われていたのであります。
何しろ、その頃に京・大坂で行われていたのは、長州への出陣どころか、消極的な西国諸藩を動かすために勅許を得るという調整と、その最中に、開港を目的に帝と将軍と直接交渉すべく大坂に向かってくる四国連合艦隊への対応という非常事態。そんな状況が、いやそんな状況だからこそ、下々に伝わってくるはずもありません。
そしてその間近にいても動きようがないのが、上洛に加わった幕府の軍兵たち。伊庭家の人間は気の緩みとは無縁ですが、先の見えない長期滞在に夏の暑さ、疫病の流行で、幕府側は士気が低下していくことに……
そんな状況を、京・大坂の八郎たち、京・大坂の上つ方の人々、そして江戸の人々の三つの立場から描くこの巻。派手な剣戟が描かれるわけでもなく、戦闘が起きるわけでもない、その意味では静かな巻なのですが――しかし、そんな中、八郎と伊庭家の人々に思いもよらぬ悲劇が降りかかることになります。
ある意味平和だった日常の中で突然起きた非日常的な出来事であると同時に、国を二分する戦争が起きかねないという非日常的な状況に比べれば日常的と言えるかもしれない悲劇。
あまりに突然で、八郎たちはもちろんのこと、読んでいるこちらもどう受け止めればよいのかわからなくなる――そんな出来事が、ここで描かれることになります。
しかしその一方で、この悲劇に対して不思議なリアリティを感じるのは、我々もまた、身近な人をいつ突然に失うかわからないという、そんな日常的で非日常的な状況を生きているからかもしれない――そう感じます。
しかし、そんな八郎たちの状況とは無関係に、歴史は動き続けます。家茂の健康状態に不安が残る中、ただ一人、家茂以外にこの状況が如何に危機的な状況であるかを知る男――一橋慶喜が動いたことによって最悪の状況は避けられたものの、幕府と朝廷、そして諸藩の予断を許さない状況は続くのです。
いよいよ物語が結末に向けて少しずつ動き始めた感もある中、八郎だけでなく、上つ方の人々の動きも、これまで以上に気になるところであります。
ちなみにこの巻の冒頭とラストで極めて印象的な姿を見せる慶喜は、柔和で自分よりもまず周囲の者のことを気遣う家茂とはあまりにも対称的な、頭の回転が早すぎ、周囲に気を遣わずわが道を行くという人物として描かれます。
なるほど、その後の歴史を見れば大いに頷ける人物像なのですが――しかし冒頭で受けた、あまり好もしくない慶喜の印象が、ラストに至り大きく変わるという構成は実に巧みで、この先の彼のドラマにも、期待したいと思います。
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