平岩弓枝『椿説弓張月』『私家本 椿説弓張月』 抄訳とリライトと、二人の英雄像
『南総里見八犬伝』に並ぶ曲亭馬琴の代表作『椿説弓張月』を、馬琴をこよなく愛する平岩弓枝が甦らせた二つの作品であります。抄訳とリライトと、スタイルはそれぞれ異なるものの、海を超えて大活躍を繰り広げる源為朝を描いた原典の魅力を伝える名品です。
源義家の曾孫であり、強弓で知られた源為朝は、九州を平らげたことから、またの名を鎮西八郎と名乗った剛勇無双の武将。保元の乱では父とともに崇徳上皇側につくも敗れて伊豆大島に流され、そこでかの地を平らげた末に討伐を受けて逝ったという、ある意味この時代の武士を体現したような人物です。
『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』は、この源為朝の事績と伝説を踏まえ、馬琴がその奇想を縦横無尽に活かして描いた読本――前編・後編・続編・拾遺・残編と全五編二十九冊六十八回の長編であります。そのうち前編・後編は、上に述べた為朝の史実を軍記物語「保元物語」を踏まえて展開します。
信西入道に疎まれて都を離れ、九州に下った為朝は、終生の忠臣となる豪傑・八町礫紀平治や妻となる白縫姫と出会った末に、やがて彼らを残して、保元の乱に参戦。敗れた末に伊豆大島に流され、そこで佞人の讒訴で追い詰められた末、周囲の人々の犠牲で生き延びて、白縫たちと再会することになります。
一方、続編以降は琉球王国史「中山世鑑」等に見られる、生存した為朝が琉球に渡り、その子が琉球王家の始祖となったという伝説を踏まえた物語であります。
まず語られるのは、為朝が琉球に現れるまでの物語――暗愚な時の王・尚寧王が、かつて禁断の蛟塚を暴いたことで妖僧・曚雲が出現、曚雲や奸臣たちに操られた王は王位継承者である寧王女や忠臣たちを退けた末、命を落とすことになります。
一方、為朝は清盛を討つために一族郎党で船出したものの嵐で遭難、白縫の入水と魔界の崇徳上皇の加護で生き延び、琉球に漂着。そして白縫の魂が憑いた寧王女と為朝は、彼女や忠臣たちとともに反撃を開始、曚雲らを討って琉球を平定し、自らは崇徳上皇に迎えられて去る――という結末であります。
さて、江戸で大好評を博したこの『椿説弓張月』ですが、しかし『南総里見八犬伝』に比べ、現在ではなかなかアクセスしにくい作品となっています。もちろん活字本は岩波文庫等で刊行されていますが、現代語訳やリライトが非常に少ない状況にあるのです。
そんな中で数少ない、今でも容易に手が入るものが、平岩弓枝による『現代語訳・日本の古典 椿説弓張月』(その後、学研M文庫から『椿説弓張月』として刊行)と、『私家本 椿説弓張月』の二点であります。
前者は原典の抄訳本、後者はリライトというべき内容で、いずれも一巻本のためダイジェスト味は強い――特に作者が「続編」の琉球王国の御家騒動のくだりに一番愛着を持っているためか、それ以外の部分、特に終盤が慌ただしい――ものの、まず『椿説弓張月』の何たるかを知るには十分な内容と感じます。
しかしこの二作、並べて読んでみると、そのアプローチから生じる人物描写――特に為朝のキャラクター像の違いには非常に興味深いものがあります。元々読本は、現代の小説に比べると人物の内面描写については控え目であって、それは『現代語訳』においても受け継がれているといえます。それに対し、『私家本』は、作者によるキャラクターの掘り下げがはっきりと施されているのです。
そんな中での為朝の人物像の違いを表せば、前者の為朝は行く先々の強敵を打ち砕く「豪傑」、後者は流転を続ける悲運の「英雄」と呼べるかもしれません。もちろん物語の本筋は同一ながら、これだけ印象が異なるというのが面白いところですが、後者は為朝を死に場所を喪った英雄として描いている点が、その大きな理由ではないかと感じます。
元々原典では、史実における為朝の人生のハイライトというべき保元の乱の描写がかなりあっさりした扱いとなっています。『私家本』ではその印象がさらに強い(というより為朝は直前に父によって後事を託されて逃がされる)のですが、さらに敬愛する崇徳上皇に殉ずることができず苦しむ――と、こちらの為朝は、武士としての華々しい見せ場を奪われた人物として描かれるのです。
それが(これは原典でも描かれているのですが)ラストの為朝の奇妙な「殉死」に繋がっていくのには大いに納得させられるのですが――考えてみれば琉球での為朝は「神人」とも呼ばれることになります。それは妻の白縫とはまた別の形で、既にこの世から離れた存在として描かれているということなのかもしれません。
もちろんこれはこちらの深読みかもしれませんが――いずれにせよ名作を、名手の手で比較的手軽に読むことができるのは、まことに有り難いことであるのは、間違いありません。
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