戸部新十郎『日本剣豪譚 江戸編』 剣法の隆盛期から絶頂、そして
戸部新十郎の『日本剣豪譚』、戦国編に続く江戸編です。泰平の世において兵法が「術」から「芸」へ、そして「道」へと高められていく隆盛期から、やがて停滞期に至る様が、代表的な剣豪十名を通じて描かれます。
剣豪・兵法者たちを主人公とした作品を数多く発表し、自身も無外流を修めていた作者が、戦国から明治に至るまでの剣豪たちの姿を通じて、兵法の歴史を描く本シリーズ。第一弾である『戦国編』においては、兵法が個々人の「術」から、体系化された「芸」として確立するまでが描かれました。
それに続くこの『江戸編』では、その先――天下泰平となり、戦場がなくなった時代において、兵法が「芸」からやがて一つの「道」となる過程が描かれます。
その過程を、本書は以下の十人の剣豪+αを通じて描きます。
林崎甚助――神無想林崎流
樋口又七郎定次――馬庭念流
富田越後守重政――富田流
針ケ谷夕雲――無住心剣流
松山主水――二階堂流
柳生蓮也斎――柳生新陰流
荒木又右衛門――新陰流
寛永御前試合
堀部安兵衛――堀内流
辻月丹――無外流
平山行蔵――真貫流
今回も納得の顔ぶれ、いずれも綺羅星のような面々――いずれも剣術に興味のある方、あるいは剣豪小説のファンであれば、必ずその名を耳にしたことがある大剣豪と呼ぶべき面々でしょう。そして本書においても、前作同様そんな剣豪たちの姿を小説と史伝とエッセイを織り交ぜたようなスタイルで描いていくことになります。
さて、その中で林崎甚助から柳生蓮也斎に至るまでの六人を通じて描かれるのは、戦国時代に誕生した兵法が、隆盛を極めていく姿であります。それは兵法の洗練であると同時に、多様化と言ってもよいでしょう。
先に述べたとおり、戦がなくなり、幕府がその体制を固めていく江戸時代前期。皮肉にも戦がなくなったことで術技を練る余裕を得た兵法者たちは、先人たちの生み出した兵法を受け継ぎ、それぞれに個性的な形で継承・発展していったのであります。
そしてその次に置かれたのが、本書においては異色の章である「寛永御前試合」であります。講談などでお馴染みのこの御前試合は、この時代に生きた剣豪たちが集結して技を競う、いわば夢のオールスター戦ですが――本書はその実像を丹念に検証していきます。
その結果、それが(ベースとなった史実が存在することを示しつつも)虚構に過ぎないことが示されるのですが――しかし面白いのは、その虚構が語られた、そして残された理由に、兵法が絶頂にあったことを挙げている点でしょう。いわばこの寛永御前試合は、虚構としてそんな時代を象徴化した存在である――本書はそう述べるのです。
また興味深いのは、この章の前後で語られる、荒木又右衛門と堀部安兵衛であります。実はこの二人は本書の中でも例外ともいうべき存在――一流を生み出したわけではなく、その技を修めた一人に過ぎません。
しかし二人は、この時代では貴重な「戦い」を経験した剣豪という共通点があります。鍵屋の辻の決闘、高田馬場の決闘――どちらも講談では景気の良い人数を斬ったと語られるその実像を丹念に描きつつも、同時に語るのは、実際に兵法で人を斬った、斬らざるを得なかった者たちの姿。それもまた、この時代の剣豪の一つの在り方なのでしょう。
そしてラストの辻月丹と平山行蔵は、この隆盛期を過ぎた後の時代に生きた剣豪たち――いわば停滞期の剣豪として語られることになります。
停滞というのはいささか厳しい表現のようにも思えます。しかし江戸時代中期から後期にかけて、兵法が「道」になる――儒教や仏教を取り入れることで精神面の修養に力を入れ、そしてそしてそれがいわゆる「道場剣法」に繋がっていったことを思えば、それも頷けるものでしょう。そしてそんな時代において、それぞれの理想とする兵法像を確立し、貫いた二人の姿は、やはり剣豪の名に値すると感じるのです。
剣豪それぞれの列伝でありつつも、それを通じて兵法の歴史を浮かび上がらせてみせるというユニークな試みの本シリーズ、続く武芸復興期を描く「幕末編」も、いずれ紹介したいと思います。
(ちなみに本書は小説度(?)は低めですが、作者の作品でお馴染みの「富田重政」の章で、重政が新陰流の韜(しない)を手にして「人の身をいたわりつつ、兵法修行に励む新陰流とは、そも何物であろう」「わが敵は、新陰流じゃと思え」というくだりと、この章の結末の描写は、実に作者の作品らしくシビれたところです)
『日本剣豪譚 江戸編』(戸部新十郎 光文社文庫) Amazon
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