とみ新蔵『神風連の乱』 武士の時代のエピローグに
とみ新蔵の剣術歴史漫画『剣術抄』の第五弾『剣術抄 彦斎と象山』からの派生作品、であり後日譚――『士乱 彦斎と象山』のタイトルで雑誌連載された作品が単行本化されました。タイトルの通り、熊本の神風連の乱を描く歴史劇画であります。
『彦斎と象山』のラストシーン、斬首された河上彦斎の遺品が熊本新開大神宮に届けられた場面から、そのまま始まる本作。彦斎を敬愛し、行動を共にしてきた敬神党の面々は、大神宮の宮司である太田黒伴雄を中心に結束し、彦斎の遺志を継ぐことを誓うのですが――しかし彼らに襲いかかるのは、新政府の急速な近代化・欧化政策の荒波でした。
幕末では攘夷を掲げてきた者たちが、いざ自分たちが功成り名を遂げた後には、西欧列強に追いつき追い越せと欧化に血道を上げる。そして富国強兵の名のもとに徴兵令が、それとは表裏の形で断髪令・廃刀令が進められる――こうして様々な形で武士という存在が抹消され、敬神党の面々も、時代錯誤な連中として周囲から嘲弄を受けることになります。
さらに、自分たちの奉じる古神道とは似て非なる、天皇を祀り上げる国家神道を創り上げ、ついには台湾に出兵を行う明治政府に対して高まる敬神党の不満。それは太田黒に宇気比(神託)が下ったことでついに爆発し、太田黒らを中心とした170余名は、熊本鎮台、県令宅等を襲撃するのですが……
歴史の教科書においては、「不平士族の乱の一つ」の一言で済まされがちな神風連の乱。(まことに申し訳ない言い方ですが)首謀者が下野した閣僚というわけでもなく、またほぼ即日に鎮圧されたことから、この時期に集中した不平士族の乱の中では、正直なところ、名前だけが知られている印象があります。
恥ずかしながら私もこの乱については知識をほとんど持っていなかったのですが、本作はその他の不平士族の乱とは異なる特徴を、丹念に描いています。
もともと乱を起こした敬神党(「神風連」は周囲の戯称)は、前作登場した宮部鼎蔵や彦斎の所属した肥後勤皇党のいわば分派――その名からわかるように神道を中心とした集団であります。
尊王攘夷の旗印の下、日本古来の神道を奉じてきた彼らにとって、明治維新は自分たちの理想実現の時かと思われたものの――その実態は、上に述べたように、欧化政策や新たな神道・国家神道による統制と、自分たちの想いとはかけ離れたもの。
そこに、「武士」という存在を形づくる髷や帯刀を否定する政策が重なり――と、本作の描写のみで全て理解した気になるのは早計ですが、この点だけでも、他の乱とは異なるものがあることは明らかかと思います。
そんな本作のクライマックスは、言うまでもなく敬神党の決起ですが――鎧兜に身を固めた太田黒以下、在りし日の「武士」の姿で彼らが討ち入る先が、平民たちから組織された「兵隊」という点は、非常に象徴的と感じたところです。(その兵隊たちが、太田黒の姿に「戦国時代の、亡霊が出た!」「呪いだ――ッ!」と逃げ惑うのも含めて)
そして彼らの乱は史実通りの結末を迎えます。正直なところ彼らの主張には、現代の我々が心から頷けるわけではありません。しかし彼らが何を考えていたのか、そして何故決起したのか、決起せざるを得なかったのかということは、記憶に留めておく必要がある――そう感じます。
さて、そんなある意味武士の時代のエピローグというべき本作ですが、そのまたエピローグにおいて、前作の主人公である彦斎と象山が顔を見せることになります。といっても二人は言うまでもなく故人なのですが――涅槃で雲の上から地上を見下ろしているという、何とも唐突で人を食った描写は、実に作者らしいといえるでしょう。
特に象山は、結末で簡単に触れられる秋月の乱と私学校党の乱(西南戦争)に対して「ハァ~~西郷くんもしつこく戦いおった……」「敬神党も私学校も、時代の潮流へ逆らった阿呆な連中と言えよう」と、身も蓋もない発言を連発。
その果てに、彼らのことはもう知らんとばかりに、この先のサイエンスの進歩を無条件に喜び、人類の叡智に無制限な希望を象山が抱く姿が描かれます。
それはそれで象山らしいとして、それでは自分の想いを受け継いだものたちが命を落とすのを目の当たりにした彦斎の態度は――大いに意外とも、あるいはこれはこれでらしいというべきものを見せることになります。
思えば前作の結末において、ある種達観した姿を見せていた彦斎。涅槃でも俗っ気の抜けない象山と、全てから解き放たれた感のある彦斎――はからずも神風連の乱を挟んで、ここでも二人の対照的な在り方が示された感があります。
『神風連の乱』(とみ新蔵 リイド社SPコミックス) Amazon
関連記事
とみ新蔵『彦斎と象山 剣術抄』第1巻 人斬りと大学者が見た幕末
とみ新蔵『彦斎と象山 剣術抄』第2巻 残された者が貫いた己
![]() |
Tweet |
|
| 固定リンク