橋本純『百鬼夢幻 河鍋暁斎妖怪日誌』 鬼眼の絵師が見た失われていく時代と妖怪
つい先日、続編にあたる『妖幽夢幻 河鍋暁斎妖霊日誌』が刊行された、副題通り河鍋暁斎を主人公とした伝奇小説を、1995年の初刊以来久々に手に取りました。幕末から明治にかけて、この世ならざるものを見る眼を持った暁斎と妖怪たちの交流を描く連作であります。
何かと江戸に騒然とした空気が漂う元治元年(1864)、そんな世の中の動きとは無関係に、毎日のように山積みの仕事を放り出しては町中をほっつき歩く河鍋狂斎(暁斎)。
今日は日頃世話になっている大店の輿入れの祝いに、自分の絵を持って向かった狂斎ですが、そこで突然庭の写生を始めた狂斎の絵には、河童が描かれていたのでした。
その帰りに絵に話しかけた狂斎と、それに応えた絵の中の河童。実は幼い頃から妖怪などこの世ならざるものを見る力・鬼眼を持っていた狂斎は、子供の頃に弟子入りした狩野派の師の下で、描いたものの魂を絵に封じる魂抜きの術を学んでいたのです。
絵から出してやった河童と意気投合し、妖怪たちの「生態」を知ることとなった狂斎は、最近自分の目に見える物の怪たちの数がめっきり減ってしまった理由を、河童に問うのですが……
反骨精神、そしてユーモアに富んだ狂画や風刺画をはじめとして、数多くの作品を残した河鍋暁斎。時にユーモラスに、時に写実的に描かれたその作品はまさに唯一無二のものとして今なお愛されるとともに、幼い頃に川を流れてきた生首を写生したなど、数々の奇行でも知られる人物であります。
本作は、その暁斎亡き後の彼の弟子・コンデルの姿を描く序章に続き、時を遡って描かれるこの第一章「かはたらう」から始まります。本作の暁斎像――好奇心旺盛でお節介焼きの酔狂人、しかし絵については人よりも何倍も打ち込み、そして何よりも妖怪たちと江戸の姿をこよなく愛する――は、既にこの時点で確立しているといえます。
そんな暁斎は、上で述べたように鬼眼を持ち、妖怪を封じる魂抜きの術を会得しているのですが――そ能力で悪い妖怪と戦う、などということは全くなく、己の好奇心と妖怪愛・江戸愛の赴くまま、様々な妖怪たちに出会い、騒動に巻き込まれるのであります。
北斎のパトロンだった高井鴻山から龍の絵を依頼されて悩む狂斎が、狢に頼んで江戸の地下に眠る龍を目撃する「りゆうじん」(1864)
仮名垣魯文と共に上野の山に登った狂斎が、上野戦争で命を落とした敵味方の亡霊たちと出会い危機に陥る「ばうれい」(1868)
友人たちと陸蒸気見物に出かけた暁斎が、そこで目撃した、陸蒸気にしがみついた見たこともない妖怪の正体を追う「をかじょうき」(1872)
弟子のコンデルが自分と同じ眼を持つことを知った暁斎が、二人で出かけた川越で、妖怪たちが旅立っていく姿を目の当たりにする「おにび」(1881)
病床の暁斎に妖怪たちが別れを告げに訪れるエピローグ「たびだち」(1889)
サブタイトルの後に、カッコ書きで作中年代を書きましたが、本作の舞台となるのは、江戸という町が存在した頃から、その名が東京に変わって文明開化の波が押し寄せ――それすらも落ち着いて日本が近代国家として歩み始めた時代。まさに江戸から明治、近世から近代へと移り変わった時代であります。
本作は暁斎の後半生と妖怪たちの交流を描く物語ですが、しかしその背景で、いや時に前面で描かれるのは、この時代の移り変わりと、その中で失われていく古きもの――江戸や妖怪たちに象徴されるものたちへの哀惜の念にほかなりません。
もちろん後世の我々にとって、暁斎が抱くその想いはあくまでも想像するしかないものではあるのですが――しかし、本作のような作品を愛する人間としては、ただただ共感するのみなのです。
ユニークな妖怪時代小説(の先駆け)であり、実は今なお数少ない暁斎を中心とした時代小説、そして何よりも失われていく時代への哀悼の物語として、再読してもなお、その魅力を失わない作品であります。
ちなみに今回手にした電子書籍版では、書き下ろし短編「まなざし(百鬼夢幻 余話)」が収録されています。
明治のある日に暁斎が出会った、社を失った奇妙な神狐・桶次郎との終生に渡る交流を描く本作は、桶次郎のその奇妙なキャラクターと生態(?)が印象に残りますが、何よりも暁斎の語られざる物語が随所で仄めかされているのが気になります。
どうやら本作は『妖幽夢幻』やさらに続く物語に繋がっていく内容とのことで、今後の更なる暁斎の物語に、期待は高まるのです。
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