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2022.12.06

上田朔也『ヴェネツィアの陰の末裔』(その二) 自律した個人としての魔術師の道

 16世紀中頃のヴェネツィアの陰で活躍する魔術師たちの姿を描く『ヴェネツィアの陰の末裔』の紹介の後編であります。当時のヨーロッパの政治情勢を背景とした伝奇もの、伝説のウェルギリウスの呪文書を巡る魔術師同士の戦いを二つの軸としつつ、本作にはもう一つの軸があるのですが……

 そう、本作にはもう一つ、その両者を結び――そしてある意味ミクロな意味で展開するするもう一つの軸があります。それは主人公・ベネデットの秘められた記憶――いや彼自身の生を巡る物語であります。
 父と思しき男の死体と、瀕死の母が自分に何かを語り掛ける――そんなショッキングな光景しか、幼い頃の記憶を持たないベネデット。さらにその時に受けたと思しい、頬の醜い傷跡、この時代では排除され狩り立てるられる対象である魔術の素質――それらはいずれも彼にとっては忌まわしきものであり、そしてそれは、今の彼自身の生もまた、はたして価値あるものなのかどうか、という鬱屈した想いに繋がっているのです。

 しかし本作で起きる先に述べた事件の数々は、同時にそんな彼の過去に密接に結びつき、それをきっかけに彼自身の生を見つめ直すことになります。いわば本作は、歴史のマクロな動きと同時に、一人の多感な青年の魂の軌跡を描く物語でもあるのです。


 そしてそんな物語構造を考えた時、魔術師という存在も、その直接的な意味とはまた異なる意味を持ちます。

 本作に登場する魔術師たちは、いずれも超常的な力を持つ存在であります。しかしそれはあくまでも人知によって操られるもの――どれほどこの世の則を超えたように見えても、それ独自の理を持ち、そしてそれを用いる者の才能に左右されるのです。
 その意味では本作で描かれる魔術は一種の技術であり、そしてそれを操る魔術師は、技術者――この時代の様々な工業や美術を生み出した者たち同様、自分自身の手で何かを生み出す術を持つ者といえるのです。

 とはいえベネデットたち魔術師は、他の技術者に比べて、遙かに寄る辺なき立場であるといえます。
 作中で様々な形で語られるように、この時代は、皇帝や王であっても神に、教会に依って立つことが求められた(ある意味最後の)時代でありました。そんな中にあって、魔術師はまさに神に背を向けた(向けられた)存在であり、依って立つところがない身であります。

 しかしそれは同時に、彼ら魔術師が、この時代を支配する神の論理に縛られず、自立した、自律する個人として生きていることを――たとえそれが自ら望んだものではなかったとしても――意味しているともいえます。
 その意味では、本作の魔術師たちは、人間解放の一つの象徴であり――そしてベネデットが繰り広げる、己が何者であるかを知るための苦闘は、その解放のための道程なのです。
(その意味では、終盤で明かされる敵の正体は、そんなベネデットとはまさに対照的な存在であると納得できます)


 スケールの大きな歴史伝奇であるとともに、一人の青年が自己を確立する過程を描く物語でもあるという、様々な魅力を持つ本作。

 そんな物語の中で活躍するベネデットとリザベッタのコンビのほか、ベネデットの周囲の人々――敵か味方か底を見せぬセラフィーニ、同僚で名門貴族の出身にして変人発明家のイルデブランド、かつての師で今は貴族相手の幻影師として働くバルダードといった面々も面白く、キャラクター小説としても楽しませていただきました。

 願わくば、ベネデットたちのこの先の物語を――歴史の陰で己自身の生を力強く生きた魔術師の物語を読みたいものです。


『ヴェネツィアの陰の末裔』(上田朔也 創元推理文庫) Amazon

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