小林久三『真夏の妖雪』(その一) 明治・大正が舞台の社会派ミステリ!?
映画人であり、社会派を中心としたミステリ作家であった小林久三は、歴史もの・時代ものも少なからず手がけています。全六編を収録した本書は、その多くが社会派歴史ミステリというべき、ユニークな短編集です。以下、一作品ずつ内容を紹介しましょう。
「焼跡の兄妹」
関東大震災で、奉公していた亀戸駅前の店が全滅し、ただ一人生き残って町を彷徨していた志乃に声をかけてきた見知らぬ青年。自分はお前の兄だというその青年・正之の、優しくも有無を言わせぬ態度に、志乃は言われるままに彼の家に伴われることになります。
正之の母、そして姉と名乗る女性たちとともに奇妙な同居生活を始めた志乃。正之の正体とは、そしてその目的とははたして……
身寄りをなくした少女が、町で声をかけられた見知らぬ青年の妹にされてしまうという、奇妙な味の短篇のような本作。しかし物語の背景となっていた時と場所が前面に出てくるにつれて、それは非情で理不尽な、しかし現実の物語へと転じていくことになります。
登場人物たちの間に生まれかけていた、緩やかな感情の繋がりを全て断ち切るような、あまりに残酷な結末には言葉を失うのですが――しかし昨今の報道を見るにつけ、我々の生きる時代は、確かにこの延長線上にあると感じさせられるのです。
「海軍某重大事件」
大正三年二月のある日発見された若い男の水死体。上司の武見警部とともに捜査を開始した滝上巡査は、死体の身元がタクシー運転手であり、彼が数日前から客に妙な疑いをかけられたと塞ぎ込んでいたことを知ります。
馴染み客であったとある商会の重役を乗せた後、男が大金等の入った風呂敷包みを車内に忘れたと騒いだものの車の中に品物はなく、運転手が疑われることとなった――疑いを気に病んだ運転手の自殺とも思われた事件ですが、その客は昨今世間を騒がしている海軍収賄事件の関係者と知った滝上たちは……
若い巡査と定年間際のベテラン警部が、市井のささいなものと思われた事件から、一大疑獄事件に繋がる糸を見つけ、核心に迫っていく――驚くほどに昭和の社会派ミステリ的な設定と展開の本作ですが、舞台となるのはもちろん大正時代であり、題材となるのも、この時代に興味がある方であれば、すぐに気づく史実であります。
言ってみれば本作は、社会派ミステリと歴史ミステリの融合――というより前者のスタイルに後者を当てはめたものと言えますが、しかし違和感がまったくないのは、今(当時)も昔も、そして令和の今も、このような事件が絶えることがないからなのでしょう。
ミステリ的にはシンプルな内容ですが、そこにもう一人人物を絡めることで、事件の構図を複雑かつやりきれないものに変えているのも巧みであります。
それにしても、海軍の力を弱め陸軍の暴走を招く遠因となったという説もある事件を描いた作品のタイトルが、その暴走の一つの極みを指す言葉のもじりというのは、皮肉というべきか……
もう一つ、この時代のタクシー運転手が高給取りで、滝上巡査が特権階級という感慨を抱く場面は、本筋とはあまり関係ないものの、印象に残ります。
「血の絆」
明治三十四年、明治天皇の行幸の下で行われる秋季陸軍大演習を前にして、前年からの赤痢の流行を食い止めるべく奔走していた宮城県警。その検疫部の二宮警部は、県内巡回の途中に通りがかった村はずれの小屋で、駐在の巡査が何者かに殺されたのを発見するのでした。
隔離病舎として作られた粗末なものながら、小屋には内側から閂がかけられ、犯人の出入りの痕跡はない――いわば密室殺人に頭を悩ます二宮警部。誰がどうやって、そして何故巡査を殺したのか――警部がたどり着いた「真犯人」とは……
自治体を挙げての一大イベントの目前に発生した疫病の流行とそれに翻弄される人々――と、はからずも本書の中でも特にいま我々に深く刺さる作品となってしまった本作。
疫病を食い止めようと奔走する専門家と、知識と理解の不足から結果としてそれを妨げる庶民という構図は、ある意味古今東西のパンデミックものの定番かもしれませんが、本作の場合はそれが特に残酷な結果を招くことになります。
ハウダニットはかなりシンプルながら、ホワイダニットという点では極めて重く、やりきれないものを残すのは、それが現実にも容易に起こりかねないものだと、我々が実感しているからでしょう。時を越えて強烈な現実性を持ってしまった作品であります。
後半三作品は次回紹介いたします。
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