上田朔也『ヴェネツィアの陰の末裔』(その一) ヴェネツィアの史実を巡る魔術師たちの戦い
周囲の様々な勢力の思惑の中でしたたかに生き残りを模索する16世紀中頃のヴェネツィアで、巨大な陰謀に巻き込まれた「魔術師」たちの姿を描く、伝奇ものにして極めてユニークなスパイものというべき物語――第5回創元ファンタジイ新人賞佳作作品であります。
様々な勢力の思惑が複雑に絡み合うイタリア半島で、独自の勢力を維持すべく様々な権謀術数を巡らせるヴェネツィア――その中で、己の持つ魔力を武器に諜報活動を行う魔術師たち。
その一人であるベネデットは、両親が自分の目の前で命を落としたという以外の幼い頃の記憶を失い、孤児院で暮らした過去を持つ青年。そこで魔力を発現し、魔術師を育成する〈学院〉に拾われた彼は、孤児院での幼馴染で護衛剣士となったリザベッタとともにヴェネツィアの繁栄の陰で、人知れず裏の仕事を担ってきたのであります。
そんなある日情報が入ってきた、異国の魔術師による元首暗殺計画。魔術師たちの束ねであり、外道錬金術師の異名を取るセラフィーニの命の下、密かに警護に入るベネデットたちですが――しかし彼が陽動にかかった隙に仲間の魔術師の一人が敵に捕らわれ、無残な最期を遂げることになるのでした。
次々と挑発と襲撃を繰り返す敵の正体が、フランス王の使節を隠れ蓑に、ヴェネツィアに潜入した謎の女魔術師であると突き止めたベネデットとリザベッタ。しかもその魔術師が、かつてリザベッタの故郷の村を焼いた張本人であったことから、二人は敵の本拠となっている屋敷への潜入を志願します。
しかしその屋敷でベネデットが見たものは、彼の数少ない記憶に残った風景と重なるもの。混乱する彼をあざ笑うように仕掛けられた罠にかかったベネデットは、上層部からの尋問を逃れ、敵の企みを阻むため、セラフィーニの指示で危険な任務に挑むことに……
魔術師が活躍するファンタジー小説はそれこそ無数に存在します。しかし本作はファンタジー世界ではなく、16世紀のヨーロッパを舞台に、かつてローマ帝国やキリスト教勢力によって弾圧された魔術師が密かにその知識を伝え、美と混沌の都・ヴェネツィアで後継者たちが生きていた――という、非常に魅力的な設定で繰り広げられる物語であります。
それも、ヴェネツィアで彼らが担う役目は、いわば裏仕事、陰の役目――決して表に出ない、それだからこそ重要なミッションに挑むという、いわばスパイものとしての側面が強いのですから驚かされます。
魔術師の素養のある者を密かに育成する〈学院〉、魔術師とは文字通り死命を共にする契約者・護衛剣士、そして魔術師と護衛剣士が持つ魔力が込められた腕輪(一人六つまで、様々な魔力を事前に込めておくことで呪文の詠唱なしで魔力の使用が可能)――そんなどこかキャッチーな設定も相俟って、本作はいわゆる魔術師ものの中でも、異彩を放つ作品となっています。
もちろん、本作の魅力はそれだけに留まりません。本作ならではの魅力の一つは、魔術師たちのスパイ戦の背景となる、複雑怪奇な欧州情勢にあります。神聖ローマ帝国、フランス、ヴァチカン、そしてオスマン・トルコ――当時の欧州は、様々な勢力の合従連衡によって成り立っていた、ある意味戦国時代のような状態にあったことはご存知でしょう。
表向き様々な勢力と均衡状態にあるヴェネツィアにおいて――いやそんなヴェネツィアだからこそ――その水面下で激しく繰り広げられる暗闘の数々を描く本作の物語は、そのそのまま縮図いうべきものなのです。
(正直なところ、西洋史をある程度把握していないと厳しい部分もありますが、本作はそれだけ史実を踏まえて展開しているということでもあるでしょう)
そう、本作はファンタジーというよりもむしろ伝奇的な側面の強い物語。ヴェネツィアを巡る史実の陰で戦う古の魔術師の末裔たち――本作はその姿を描く歴史伝奇というべき作品なのです。
しかし本作は同時に、「表の」マクロな歴史だけでなく、「裏の」マクロな歴史を描くものでもあります。かつてガリアが古代ローマに滅ぼされた時、偉大な詩人ウェルギリウスによって記された呪文書――本作は、絶大な魔力を秘めるというその呪文書を巡る暗闘の物語でもあります。
はたしてそのウェルギリウスの呪文書には何が記されているのか。そしてそれはどこに、誰が隠し持ち――そして何故この時代に至るまで秘匿されてきたのか? 本作の表の軸が欧州諸国の政治的暗闘であるとすれば、裏の軸はこの呪文書を巡る魔術的暗闘――そういってよいかもしれません。
いや、その二つだけではありません。本作にはもう一つの軸があるのですが――長くなりましたので次回に続きます。
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