手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』 大仏建立を背景に描く、輪廻する命と人の生の意味
『火の鳥』の中でも、時代順でいえば過去から三番目に当たる物語であります。奈良時代、仏教が政治と結びついていく中で対照的な人生を歩む二人の仏師。彼らの前に現れる火の鳥は何を語るのか――大仏開眼をクライマックスに、数奇な生命の物語が描かれます。
生まれてすぐに事故に遭い、片目と片腕、そして父親を失った我王。人を殺し、物を奪うことを何とも思わぬ男に育った我王は、ある時出会った仏師の茜丸の利き腕を些細な理由で傷つけ、仏師としての生命の危機に追い込むのでした。
やがて速魚という美しい娘を強奪同然に自分のものとし、盗賊団の頭目として荒んだ暮らしを送る我王。そんな中、鼻の出来物に苦しむようになった我王は、それが速魚の仕業と思い込んで彼女を斬るのですが――後で真実を知り絶望することに。そして捕らえられ、死罪を宣告された我王は、高僧・良弁に命を救われ、その弟子として諸国を巡る中、仏師としての才能を開花させるのでした。
一方、利き腕が使えなくなりながらも、もう片方の腕でさらに優れた作品を作るようになった茜丸は、橘諸兄から三年以内に鳳凰の像を造るように命じられ、できなければ殺されることになります。クマソの伝承から火の鳥が棲むという九州に向かうも、ついに出会うことはできず、処刑されることになった茜丸ですが――吉備真備に救われ、その手引きで訪れた正倉院で不思議な夢を見た末に火の鳥と対面することになります。
ついに火の鳥を像にすることに成功し、真備の後ろ盾で大仏建立の責任者を任せられた茜丸。一方、政治の道具となった仏教に絶望して即身仏となった良弁との別れを経験した我王は、悲しみの中で生命の意味を悟るのでした。
そして真備から諸兄に庇護者を替えた茜丸は、大仏殿の鬼瓦作りで、我王と勝負することになります。諸国を巡って見た人の世の理不尽への怒りを背負う我王と、権力者の下で栄達を極めた茜丸、二人の対決の行方は……
放佚無慙に生きる異形の男と、ひたむきに芸術に打ち込む青年という、全く対照的な、しかし共に優れた仏師の才能を持つ二人を主人公として展開するこの鳳凰編。それぞれに過酷な人生を送った末に己の仏像を作ることに目覚め、それを極めんとする二人の姿を描く本作は、政治と仏教が結びついた一つの象徴というべき大仏建立を背景に、一種の芸道もの、仏教ものといった趣すらあります。
そんな中で、火の鳥は、これまでの(過去を舞台とした)物語とは異なる立ち位置を見せることになります。これまでの物語では、様々な形で火の鳥に不老不死を求める者が登場しましたが、本作における火の鳥は、不老不死というよりも、死んだ後も復活して新たな生を得る、いわば輪廻転生の象徴として描かれるのです。
これまでも、一度死んで炎の中から甦る姿が描かれた火の鳥。そして輪廻転生という概念自体も、我王の前世や来世であるキャラクターたちを通じて描かれてきたわけですが――それがここで大きなウェイトを持って感じられるのは、やはり本作が仏教というものを、物語の中心に据えているからなのでしょう。
ある意味、仏教の根本ともいえる輪廻の思想に立てば、ほとんど全ての生き物は、火の鳥同様に死んだ後も新たな生を受け、生き続けることになります。本作において茜丸と我王は、それぞれの立場から火の鳥に触れ、そしてこの事実を悟るのですが――しかしその果てに知らされる運命の残酷さには、思わず言葉を失うものがあります。
(特に茜丸の運命を見た時にはさすがにこの××鳥! という想いが……)
それでもなお人は生きるべきなのか、その中で何を為すべきなのか――その答えの一端は、業を一身に背負ってもなお生き続ける我王の姿にあるのでしょう。
世の不条理に怒りを燃やし続け、あまりに悲劇的な生の現実を見届けた上で、なお「だがおれは死にませんぞ」と言い切る我王。その姿はあまりに苛烈ではありますが、そこには輪廻してなおも生き続ける火の鳥とはまた異なる、限られた人間としての生を生きる者ならではの輝きがあると感じられるのですから……
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