日向真幸来『神殺しの丘』 古き神々の死と再生、そして人間たちの再生の物語
4世紀末のブリテン島を舞台に、キリスト教国となったローマ帝国から逃れてきた青年楽師・カノンを主人公に描く優れたファンタジーであります。ローマ人の残した妖神の呪いに苦しむケルトの人々のため、古の女神を甦らせることとなったカノン。冬至の夜に繰り広げられる秘祭の行方は……
テオドシウス一世により、ローマ帝国の国教がキリスト教となった392年――かつてはその美声でローマ中に知られ、女神パラース・アテナの花婿と呼ばれた美青年楽師・カノンは、人々の迫害から逃れるため、神殿の秘宝である琴を手にあてどない逃亡の旅を余儀なくされることになります。
流れ流れて辺境のブリテン島に漂着したカノン。彼は、その地に暮らすケルト人の巫女・ミネルヴァに救われ、ある頼みごとをされるのでした。
かつて島を侵略したローマ人が崇めていた女神・ポルキス。しかしヴァイキングを恐れてローマ人が島から撤退した後、土地の人々が神殿を破却し、怒ったポルキスの呪いによって、大地は荒れ果て、人々は苦しんでいたのであります。
土地の人々が崇める女神アンナを目覚めさせ、大地の活力を再生させる冬長の祭り――ミネルヴァは、そこで自分とともに巫覡を務め、神霊を起こす役割を、大巫女の予言の通りブリテン島に現れたカノンに託そうとしたのです。
その依頼を引き受け、追っ手から逃れるため、神事に向けて身を清めるために、神聖なる森に分け入ったカノンとミネルヴァ。そして環状列石の丘に残されたアンナの神殿に足を踏み入れたカノンは、土地を再生させるために、アンナの娘とも言われる女神ブリージットを新たな女神として祀ることを思いつきます。
さらに、家族全員をポルキスの呪いで失ったミネルヴァの妹分の巫女・アイラ、カノンを追ってきたローマの司政官に裏切られて置き去りにされた剣闘奴隷・ステファノも仲間に加わり、祭りの準備は着々と進んでいくのでした。
そして冬至の夜、ついに始まった冬長の祭り。しかし思わぬ事態が発生し……
かつてはローマ帝国に弾圧されたキリスト教が、紆余曲折の末に国教となった4世紀末。この時代は、ローマでそれまで崇められてきたギリシア・ローマの神々が一転邪神として弾圧の対象とされることとなり、そして辺境のブリテン島においては、ケルト人の崇める神々がローマの神々に追いやられ、さらにまたキリスト教によって弾圧された――いわば古き女神たちが、新しき父なる神に駆逐されていく時代にあったといえます。
しかし、如何に辺境に、そして歴史の陰に追いやられたとはいえ、まだ命脈を保つ古の神々は、決して形而上的な存在ではありません。時に様々な魔術的な力を、あるいは時に物理的な力を人々に振るう――本作で描かれるのはそんな神々であります。
本作はカノンという神と交感する力を持つ天才楽師の存在を通じて、その古の神々の姿を、そして神々を奉じる人間と、それを取り巻く自然の姿を描き出します。
もちろんそれがどれだけ「現実」を踏まえているものなのか、知るすべはありません。しかし読者の目には、作中に登場する神々も人間も自然も、確かにこの時代に息づいたもの、「生きている」ものとして、感じられることは間違いありません。
それは作者の巧みな描写力によるものであることは間違いありませんが――しかし本作に不思議な生命力を与えているのは、これが神だけでなく、人間たちの再生の物語でもあるからだと感じます。
カノンだけでなく、ミネルヴァもステファノもアンナも――本作のメインキャラクターたちは、皆それぞれに壮絶な過去を背負っています。そんな人々が神の再生の祭りに向けて力を尽くす中で、己を見つめ直し、そして新たな一歩を踏み出す――その向かう先はそれぞれですが、そこには確かに、神々にも負けない人間の生命力の輝きがあると感じられます。
もちろん、本作で描かれる人間の姿は、決してポジティブなものばかりではありません。それどころか、己よりも弱い者に対して躊躇うことなく力を振るう者たち――まさにカノンたちを苦しめてきたのはこうした者たちなのですが――の姿が幾度となく描かれることになります。
しかしそんな理不尽を乗り越えて生きる人々こそが、それぞれの神話を語り、受け継いできたのだと、本作は教えてくれます。
古き神々の物語であり、そして今に至るまで生き続ける人間の物語でもある――題材のユニークさと内容の豊かさが心に残る作品であります。
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