『首ざむらい 世にも快奇な江戸物語』(その一) 迷える青年と迷える生首の珍道中!?
オール讀物新人賞受賞作である表題作をはじめとして、人間とこの世に有り得べからざる者たちとの奇妙な交流を題材とした短編集であります。故あって徳川と豊臣の決戦目前の大坂に向かう青年が出会った首だけの侍。奇妙な道連れとなった二人が大坂で見たものとは……
本書は上に触れた通り、オール讀物新人賞受賞の「首ざむらい」(初出時は「首侍」)をはじめとして、「よもぎの心」「胡蝶の夢」「ねこまた」の四作品を収録した短編集であります。
各話に内容上の繋がりはありませんが、いずれももののけめいた存在と人間の関わりを描きつつ、ユニークで、同時に苦く重い、それでいてひどく優しい物語であります。
どれも味わい深い作品だけに、以下に一篇ずつ紹介していくとしましょう。
「首ざむらい」
とある理由で伊勢に旅する江戸の湯屋の隠居・池山洞春。その途中、ふとしたことから膳所藩の若君と出会った道春は、若君やその付人らの前で、三十三年前に出会った奇妙な「首」にまつわる物語を語ることになります。
慶長二十年(1615年)の春――江戸の湯屋で湯女である母と暮らす青年・小弥太は、豊臣方に仕えるといって姿を消した叔父の左太夫を連れ戻して欲しいと母から頼まれることになります。
早くに父をなくし、女で一つで育てられた小弥太は、左太夫にもずいぶん可愛がってもらったものの、大坂は決して容易く行ける場所ではありません。躊躇う小弥太に、母はとんでもないことを語ります。実は左太夫は小弥太の叔父ではなく、父親なのだと。
それ以上は左太夫に聞けという母の言葉に背を押されて旅立った小弥太。しかしその途中で同行することとなった行商人に騙されて父の形見の刀を奪われてしまった彼は、そこに突如現れた空飛ぶ生首に出くわすのでした。
もちろん驚いた小弥太ですが、しかし口は利けないものの、どうやら相手は自分と同年代の武士の子、しかも何だか妙にお調子者(の首)。この首に妙にまとわりつかれた小弥太は、彼と旅することになります。
四苦八苦の末に首――斎之助と意思疎通できるようになり、彼が化け狐を退治しようとしているうちに意識を失い、気がつけばこんな姿になっていたと聞かされる小弥太。そんなこんなしているうちに大坂に辿り着く二人ですが、そこは既に徳川と豊臣の最後の戦いを目前に、騒然たる状況で……
というわけで、思わぬ出生の秘密に戸惑う青年と、やんちゃが過ぎた末に体がどこかへ行ってしまった生首という、何とも奇妙な二人によるロードノベルという趣向の本作。
どちらも十分以上に深刻な状況ですが、それを茶化さずに落ち着いた文章で綴るところに、かえって面白味が生まれています。(特に酒好きの斎之助が酒を飲む――というより吸収するシーンの妙なおかしさよ)
しかし、人間と生首の珍道中の面白さ以上に――正直なところ、同様のシチュエーションの作品がすでにあるわけで――本作の真骨頂は、大坂に到着してからにあると感じます。
ついに父であるという叔父と出会った小弥太と、武士として夢見ていた戦場に立つ(?)ことになった斎之助。それぞれが大坂で直面することとなった現実は、決して甘くはない、苦いものでありました。しかしそれと向き合うことによって、二人がそれぞれに成長する姿を本作は描きます。
それはいわばモラトリアムの終わりというべきもの。そしてそれは形の違いこそあれ、いつの時代にも存在する普遍的な青春の姿であると同時に、武士の時代の一つの終わりの姿であり――そしてそれが本作が時代小説として描かれる意味があると感じます。
しかしそこにあるのは、決して変わっていくことのもの悲しさではありません。一つの時代は終わっても、武士は形を変えて存在していく――そんな新しい時代を生きてきた武士たちの生き様を優しく肯定してみせる結末には、静かな感動があるのです。
その他の三篇は、次回ご紹介いたします。
『首ざむらい 世にも快奇な江戸物語』(由原かのん 文藝春秋) Amazon
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