エリザベス・コーツワース『極楽にいった猫』 涅槃図と猫と優しい奇跡と
今から100年近く前の1931年に米国人作家が発表し、米国で最も重要な児童文学賞の一つであるニューベリー賞を受賞した作品――むかしむかしの日本を舞台に、涅槃図を描くことになった貧乏な絵師と飼い猫の交流が思わぬ奇跡を呼ぶ、猫好き必読の美しい物語であります。
むかしむかしの日本に、全く仕事が入らず、貧乏に苦しむ絵師がいました。身の回りの世話をするばあやと二人、かつかつ暮らしを送っていた絵師ですが、ある日ばあやは、一匹の三毛猫をもらってくるのでした。
その猫に「福」と名付けて飼い始めた絵師ですが、ある日不思議な巡り合わせで、近所の寺の住職から、涅槃図を描くよう依頼されることになります。寺に飾る涅槃図を描けば、名が上がり、生活も楽になる――絵師もばあやも大喜びです。
涅槃図を描く前に、王子時代から出家、悟りを経て、入滅に至るお釈迦様の生涯を思い描き、まさに精魂込めて絵を描き始めた絵師。お釈迦様を、弟子たちを描いた絵師は、いよいよ動物たちに着手することになります。
かたつむり、象、馬、白鳥、水牛、犬、猿、虎――お釈迦様の逸話に登場し、入滅の時に駆けつけた動物たちを次々と描いていく絵師。しかし絵師が画を描くのをずっと傍らで見ていた福は、何やら悲しげです。
そう、涅槃図には猫はいない――気位が高かったせいで、お釈迦様の入滅に立ち会わず、極楽に迎え入れてもらえなかったという猫。いくら福が可愛くても、涅槃図に猫を描くわけにはいかないのです。
しかし段々と弱っていく福を前に、絵師は覚悟を固めます。そして涅槃図を完成させた絵師を待つものは……
お釈迦様が入滅する際、菩薩や弟子、そして様々な動物たちが集まり、嘆き悲しむ様を描いた涅槃図。その中に猫がいないというのは、日本人でもご存じない方は少なくないかもしれません(もちろん、猫が描かれた涅槃図もあるのですが)。
一番よく知られた理由は、お釈迦様に母親が薬を届けようとしたところ、木の枝にひっかかってしまい、それを取ろうとした鼠が猫に追いかけられたために、結局薬が間に合わなかったから――というものですが、その他にもいくつか理由は語られており、いささかすっきりしないところではあります。
何はともあれ本作は、そんな涅槃図と猫にまつわるある種トリビアルな知識を柱として展開する物語であります。100年近く前の米国人作家がこの涅槃図を題材として選んだことにまず驚かされますが、作中で語られるむかしむかしの日本の姿にも大きな違和感はなく、また、「しっぺい太郎」の逸話なども取り込まれているのにも感心させられます。
(ちなみに本作では、しっぺい太郎に討たれるのは狒々ではなく化け猫となっているのですが――どうもこれは、これは明治時代にしっぺい太郎の物語が海外に紹介された際、猿から猫にリライトされたのに影響を受けているようです)
しかし何よりも心動かされるのは、作中における猫の、猫と人間の関わりの細やかな描写であります。
絵師の前に初めて現れた福の姿(それまでは何だかんだで飼うのを渋っていたのに、手のひらを返す絵師が微笑ましい)、そして絵師との日常での穏やかな姿――ふとした拍子に絵師に触れてくる猫、絵師が一心不乱に画を描く横で静かに過ごす猫等々、猫好きであればすぐにその情景が頭に浮かぶことは間違いありません。
その一方で、猫好きほど、物語が進むに連れて心かき乱されるのもまた事実。どれだけ福が愛らしくとも、絵師が福を愛そうとも、絵師は自分の入魂の作品に、福の姿を描けないのですから。
そんな悲しみとやるせなさを、本作は容赦ないといってよいような筆致で語ります。
「生き物のなかで、猫だけが、お釈迦さまの御心にかなわなかったんだよ。」
「とても優しく可愛らしいのに、永遠に呪われた生き物なのです」
「ほかの動物は釈迦に受け入れられ、慈悲を受け、極楽にいくことができたのに、猫のまえで極楽へと通じる扉は閉まってしまったのです」と……
その果てに絵師が下した決断は、いくつもの悲劇を彼にもたらします。しかし――しかしその果てに彼を待っていたものがなんであったか。ラスト五行に示された優しい奇跡は、絵師への、福への、いや全ての猫への救いとして感じられるのです。
日本語訳も上質で、猫好きであればぜひ一度手に取っていただきたい、優しい童話であります。
(ただ一つだけ贅沢をいえば、本作はぜひ日本人の手になる絵本で読んでみたかった、という気もいたしますが……)
『極楽にいった猫』(エリザベス・コーツワース 清流出版) Amazon
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