谷津矢車ほか『どうした、家康』(その二)
家康の生涯を超短編で綴ったアンソロジーの紹介の後編であります。
「鯉」(谷津矢車)
岡崎城で飼われていた、信長下賜の鯉を食べた咎で捕らえられた鈴木久三郎。どうやら諫言のためらしいと気付いた家康ですが、許された久三郎は不遜な言葉を残すのでした。
数年後、三方原の戦いで絶体絶命の窮地に陥った家康の前に現れた久三郎が取った行動は……
三河武士といえば、家康への忠誠で団結していた印象がありますが、しかしそれが必ずしも事実ではないのは、一向一揆の際の状況を見ればわかります。本作はそんな家康の難しい立ち位置を、一人の三河武士との関係性から浮き彫りにするという視点の妙に唸らされます。
そしてクライマックス、家康の生涯でも最大の危機といえる三方原で彼を救ったのは――単純に感動的な、と表現して終わらせるわけにはいかないその真実を、しかし家康の成長を以て昇華させた上にに、「鯉」の意味が絡み合う結末もまた、巧みと評するしかありません。
「親なりし」(上田秀人)
大坂冬の陣でついに豊臣家を滅ぼした家康。大坂城を包む炎を目の当たりにして、「愚か者が」と呟いた家康の真意は……
大坂の陣終結直後に、家康が徳川頼宣に語って聞かせるという趣向の本作は、老練な年長者が未熟な後進に説明してやる(説教する)という、作者の作品ではお馴染みのスタイルで描かれます。
豊臣家だけでなく、秀吉を、さらには信長を愚か者と言い切る家康の真意は奈辺にあるのか。そこで描かれるのは、作者の作品に通底する「継承」という概念なのですが――そこに含まれる家康の悔恨を知った上でタイトルを見れば、なるほどと感じさせられます。
舞台となる時系列順に作品が配置された本書の中では中頃に収録されているにもかかわらず、大坂の陣が描かれているのを不思議に思いましたが、この家康の想いが何に対するものであったかを知れば納得です。
「賭けの行方 神君伊賀越え」(永井紗耶子)
茶屋四郎次郎に本能寺の変の発生を知らされ、一時は死を考えた家康。しかし四郎次郎の言葉に思いとどまった家康は、決死の帰還を試みるのですが……
本能寺の変の直後、堺にいた家康が領国に帰還するために必死の思いで敢行した伊賀越え。家康の生涯でも有数の危機を、その立役者の一人である茶屋四郎次郎を通じて描いた作品です。
内容的にはシンプルではありますが、面白いのは、ここであっさりと切腹しようかと考え、そしてそれを思いとどまる家康の心の動きでしょう。家康がここで死のうとして周囲に諫められたのは史実のようですが、本作の視点はユニークかつ納得させられるものがあります。
もう一人の立役者である服部半蔵が語る、伊賀が危険な理由もまた納得の視点で、人間心理に向ける視線が印象に残る作品です。
「燃える城」(稲田幸久)
大坂冬の陣で豊臣家を追いつめ、勝利を目前とした家康。大久保彦左衛門と共に本陣で悠然と構えていた家康ですが、そこに真田幸村が迫ります。追い詰められた家康がそこで見たものは……
戦国最後の戦いというべき大坂の陣も終結目前となり、ある種の余裕ある家康を描く本作。戦国の世の出来事を物語にまとめたいという彦左衛門が、「三方原には参戦していないので、馬印を倒すほど慌てふためいて逃げ帰ったのは見ていない」と語るというフラグ以外の何ものでもないものを立てておいての幸村襲来はちょっと笑ってしまいましたが、物語はそこからが本番であります。
そこで幸村を通じて家康が見たものは、対峙したものはなんだったのか。ちょっと格好良すぎる気もしますが、本書の掉尾を飾るに相応しい結末であります。
というわけで、超短編で家康の生涯を描いた本書ですが、一作品毎の分量の少なさから、作品によって色々と差が出ていたのは仕方のないところでしょうか。
何はともあれ、個性的な歴史時代小説アンソロジーを手掛けさせたら右に出るものがいない、講談社ならではの一冊であることは間違いありません。
『どうした、家康』(講談社文庫) Amazon
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