« 峰守ひろかず『少年泉鏡花の明治奇談録』 | トップページ | 滝沢志郎『エクアドール』 海を越える同胞愛と明日に踏み出す人びとの物語 »

2023.09.06

松井優征『逃げ上手の若君』第12巻

 何とアニメ化も決定した『逃げ上手の若君』ですが、単行本最新巻の方では、一つの節目、大きなクライマックスを迎えることになります。足利直義を打ち破り、ついに鎌倉に帰還した時行と仲間たち。しかしそこに足利尊氏の軍が迫ります。もちろん、万全の体勢で迎え撃つ北条勢ですが……

 女影原に続き、小手指ヶ原でも関東庇番衆を打ち破り、鎌倉を押さえていた足利直義と激突した北条時行と仲間たち。一度は直義の仕掛けてきた言葉による戦に押されながらも、それを純粋な想いで押し返した時行は、ついに直義を撃破し、鎌倉に入ることになります。

 父祖代々の地である鎌倉に帰還し、喜びを露わにする時行と、彼と共に一時の平和を楽しむ逃者党と諏訪頼重たち。時行が鎌倉を奪取して北条政権を復興し、めでたしめでたし――となりそうなこの巻の前半までの展開ですが、ここで終わっていたら、後世にこの辺りの戦いが「中先代の乱」と呼ばれることにはならないでしょう。

 この事態に手をこまねいて見ているはずもなく、(征夷大将軍任命こそ後醍醐天皇によって拒否されたものの)佐々木道誉や高師直らと共に出陣した尊氏。当然この事態を北条方も予想していたにも関わらず、瞬く間に尊氏は鎌倉に迫り――と、この巻の前半と後半は急転直下というも生ぬるい、まさに天国と地獄というべき強烈な状況の変化が描かれることになります。


 正直なところこの辺りの歴史は、教科書ではわずか数行で済まされてしまう印象があります。しかしもちろん、その時代に実際に生きていた人々にとっては、そんな程度の分量で済まされるものでも、また結果論で語れるものでもありません。
 それはこの巻でいえば北条家の帰還を喜ぶ人々の姿に表れておりますし、そして何よりも本作そのものが、歴史上の出来事とその中で生きた人々をわずか数行で描くことへのアンチテーゼともいえるでしょう。しかしだからといって、歴史に記された結末を変えることはもちろんできません。

 そしてその歴史に記された内容が、冷静に考えればとんでもないものなのですから、さあ大変。出陣を目前に控えた北条方を襲った大風、そして尊氏と対陣した際の北条方の反応――身も蓋もないことを言ってしまえば、ほとんどインチキ、これが通るならば何でもあり、常人にはもうどうしようもない展開の連続であります。

 負けイベントにしてももう少し理屈が通りそうな展開ですが、しかしこれが史実だから仕方がない――というのは歴史ものとしてはアウトギリギリな気もしますが、しかしこの理不尽さこそが、むしろこの物語の巧みさなのでしょう。
 神ならぬ人の身で、どれだけ巨大な歴史の流れに抗うことができるか――そこには当然、戦うだけでなく、逃げることも含むのですが――それを本作は描いているのですから。
(そしてこの構造が、頼重が語る尊氏を倒さなければならない本当の理由に重なるのも、また納得)


 しかしそれにしても、もう少し救いがあってもよいのではないか――という勢いで盛大に敗北した北条方。いや、単に敗れるならまだしも、えっ、お前一体何やってるの的な展開まであり(しかもほぼ反則な形で逃げ道を封じる鬼っぷり)、希望を徹底的に奪ってきます。

 この絶望の中で、時行をさらに容赦のない展開が待つのですが――さて、前半に新キャラが登場したことも完璧に忘れさせるような勢いで、上げてそこから叩き落とすこの流れの中から、時行と仲間たちは立ち上がることができるのか。ある意味勝負の次巻に続きます。


 しかし今川家は、あれは個人の暴走ではなかったんだな……


『逃げ上手の若君』第12巻(松井優征 集英社ジャンプコミックス) Amazon

関連記事
松井優征『逃げ上手の若君』第1巻 変化球にして「らしさ」溢れる南北朝絵巻始まる
松井優征『逃げ上手の若君』第2巻 犬追物勝負! 「この時代ならでは」を少年漫画に
松井優征『逃げ上手の若君』第3巻 炸裂、ひどく残酷で慈悲深い秘太刀!?
松井優征『逃げ上手の若君』第4巻 時行の将器 死にたがりから生きたがりへ!
松井優征『逃げ上手の若君』第5巻 三大将参上! 決戦北信濃
松井優征『逃げ上手の若君』第6巻 新展開、逃者党西へ
松井優征『逃げ上手の若君』第7巻 京での出会い 逃げ上手の軍神!?
松井優征『逃げ上手の若君』第8巻 時行初陣、信濃決戦!
松井優征『逃げ上手の若君』第9巻 強襲庇番衆! 鎌倉への道遠し?
松井優征『逃げ上手の若君』第10巻 小手指ヶ原に馬頭の変態と人造武士を見た!?
松井優征『逃げ上手の若君』第11巻 鎌倉目前 大将同士が語るもの

|

« 峰守ひろかず『少年泉鏡花の明治奇談録』 | トップページ | 滝沢志郎『エクアドール』 海を越える同胞愛と明日に踏み出す人びとの物語 »