冲方丁『剣樹抄』 光圀が追う邪悪 少年が踏み込む地獄
先日、続編が文庫化された連作時代活劇の第一作であります。江戸時代前期、子供たちの隠密集団・拾人衆と共に、増加する火付け盗賊の取り締まりに奔走する水戸光圀と、彼と奇しき因縁で結ばれた無宿の少年・六維了助の戦いを、様々な歴史上の有名人を配して描く物語であります。
幼い頃、旗本奴に父を殺害され、以来、同じ無宿の人々に育てられてきた了助。しかし明暦の大火で育ての親を失い、ただ一人辛うじて生き延びた彼は、深川で芥運びなどをして命を繋ぐことになります。
一方、突然に父から火付けを働く浪人一味を追うように命じられた若き水戸光圀は、幕府が密かに育成してきた、子どもばかりの隠密組織・拾人衆の存在を知るのでした。
それぞれ特技を持つ拾人衆の力を活かし、先手組の徒頭・中山勘解由とともに、正雪絵図なる精巧な絵図面を持つ一味を追う光圀。しかし、その一人を密かに追う光圀たちの前に現れた了助は、野球のバッティングめいた異形の剣術で、浪人に襲いかかります。
我流で木剣の修行を重ね、育ての親や皆の仇として、火付け一味を狙っていた了助。その凄まじい技と執念に目を付けた光圀は、拾人衆に了助を誘います。
人の世話になることに反発と恐れを感じながらも、相次ぐ事件の中で様々な人と触れあい、成長していく了助。そんな了助と絆を育む光圀ですが、彼には絶対了助には明かせない過去が……
江戸市中はおろか江戸城天守閣までが消失し、死傷者も甚大な数に及んだ江戸時代最大の大火にして、その後の江戸の都市計画にも大きな影響を与えた明暦の大火。
出火の原因は、若くして死んだ娘の念が籠もった振袖だという怪談めいたものから、かの由井正雪の残党によるものだという説まで様々ですが、本作はその後者を踏まえつつ、物語を展開していくことになります。
江戸においては様々な理由で「効率のいい」火付け盗賊。本作ではこれを取り締まるために、まさに後の火付盗賊改である火付改加役の中山勘解由とともに、まだ藩主を継ぐ前の水戸光圀が奔走する――という時点で、作者の名前を見ればオッと思う方も多いでしょう。
言うまでもなく作者の冲方丁の歴史ものの代表作は『光圀伝』――本作はそのスピンオフと明示されているわけではありませんが、光圀・泰姫・左近・頼房といった面々が登場、そして『光圀伝』では武蔵との出会いとなったあの事件が、物語の背骨として位置付けられています。
しかし本作は、光圀の――武士の視点(もっとも光圀は、それまでの武士からは些か異なる立場にはあるのですが)からのみ描かれるわけではありません。もう一人の主人公として、無宿者として生きてきた了助を配置することで、変わりゆく江戸という街を、変わりゆく武士という存在を、重層的に描くことに成功しているといえるでしょう。
そしてまた本作で魅力的なのは、次々と登場する実在の人物たちであります。先に挙げた中山勘解由のほか、勝山、水野十郎左衛門、幡随院長兵衛、明石志賀之助、鎌田又八、龍造寺伯庵等々――これら同時代の人々が、短編連作スタイルの物語の中で、様々な形で火付け盗賊を巡る騒動に絡んでいく姿には、伝奇時代劇ならではの楽しさが溢れています。
(その中でも旗本奴と町奴の争いが意外な方向に展開していく「丹前風呂」は出色)
そしてその一方で、架空の人物もまた、実在の人物に負けないほどの重みを持ちます。その中でも特に強烈な印象を残すのは、作品通しての光圀と了助の宿敵となる、錦氷ノ介であります。
総髪の美形で、隻腕に鎌を取り付けた剣鬼、いや剣狂というべき氷ノ介。作品の随所で火付け盗賊の一味として邪悪な姿を見せる彼の誕生の陰には、実在の大名・稲葉紀通が起こした稲葉騒動がありました。そのある意味作者らしい凄まじい地獄の描写は、憎むべき邪悪でありながらも、彼もまた犠牲者の一人という、何ともやりきれないものを感じさせるのです。
そして人間が生み出した地獄は、一人、氷ノ介のみが見るものではありません。名前も顔もわからぬ仇を討つために、ひたすら剣を練る了助もまた、その心の中に一つの地獄を持っている、いや、持っているといわぬまでも地獄に近づいているのですから。
本作のタイトルにある「剣樹」――それは了助が身を置く東海寺で見た、刃の枝葉を持つ樹に貫かれる地獄絵図に由来します。
了助が父の仇を知った時に、恐れつつも魅せられたその地獄に彼は踏み込んでしまうのか? 本作の中では描かれなかったその時に、了助は、そして光圀は何を想い、どのような道を行くのか――それが描かれる続編も、近日中にご紹介いたします。
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