井上祐美子『乱紅の琵琶 長安異神伝』 武神の抱えた屈託と弱さ
唐の都・長安を舞台に、地上で暮らす半人半神の武神・顕聖楊二郎真君の活躍を描く『長安異神伝』のシリーズ第二弾であります。かつての悪夢に悩まされる二郎の前に現れたのは、天界から糾問にやって来た将軍と、謎めいた琵琶占いの女芸人。それぞれの運命が交錯する時に起きるものは……
長安に出没する悪霊たちを滅ぼすという名目で、二郎が諌議大夫の魏徴の屋敷に居候して半年――二郎は先の事件で出会った天界の宝珠の生まれ変わりの美少女・翠心と惹かれ合いながらも仲は進展しないのに悩む一方で、自分の過去にまつわる悪夢に苦しむ日々を送っていました。
そんなある日、市でごろつきに絡まれていた、琵琶を抱えた美女・崔巧雲を助けた二郎。演奏だけでなく、琵琶で人の心を占うことで評判の崔巧雲は二郎に気のあるそぶりを見せます。
しかし彼女の正体に気付いた二郎は、東方朔に彼女の住処を調べさせると同時に、彼女と同じくかつて琵琶占いを得意とした芸人の行方探しを魏徴に依頼するのでした。
そんな中で天界からやって来たのは、長らく地上に滞在する二郎の糾問のためにやってきた韋護将軍。謀反の疑いがあるというのを相手にせず、軽くあしらう二郎ですが、頭が固く神としてのプライドが高い韋護は収まりがつきません。
一方、崔巧雲に自分のことを占わせた二郎と東方朔たちは、悪夢の源である二郎の過去の戦いの様を見せられることに……
玉皇大帝の甥で天界随一の実力を持つ武神であり、地上では颯爽たる好男子として、長安の花街でもモテモテの二郎。いかにも非の打ち所がないヒーローぶりですが、しかし初登場の前巻においても、彼は時折屈託めいたものを見せることがありました。
本作ではそんな二郎の内面が、そしてそんな二郎の過去――天界の武神として活躍していた頃の出来事が、大きくクローズアップされることとなります。
そしてその神としての二郎の過去に大きく関わってくるのが、本作のゲストキャラクターの一人・韋護であります。仏教における韋駄天であり、『封神演義』においては降魔杵を振るい、二郎神君に当たる楊センと共に太公望の下で活躍した韋護。しかし本作の韋護は、極めて頭が固く地上のことを見下す、二郎の後輩キャラとして登場することになります。
そんな彼が二郎はもちろんのこと、口から先に生まれたような東方朔にいじられる姿が実に可笑しいのですが、しかし二郎の糾問のためにやってきた――つまり今なお存在する二郎と天界との繋がりを象徴する彼の存在は、本作の台風の目の一つとなります。
さらにもう一人、本作に波乱を巻き起こすのが、謎めいた琵琶芸人の美女・崔巧雲であります。冒頭から二郎に対して意味深な態度を示す彼女は、人が心に秘めたものを読み取る力を持つ人物であり――そして二郎とは敵対する立場にある存在であります。
作中では二郎そして韋護と、想像を遙かに上回る実力で大立ち回りを演じる崔巧雲。しかし本作における彼女の存在は、むしろそれとは別の関わりで波乱を起こすことになります。二郎の中の人間的な部分――「心」に関わる部分において。
こうしたゲストキャラたちがかき回す物語は、二郎の痛快な冒険譚を期待していれば意外にも思えるかもしれません。
しかし、こと「武」においてはほとんど無敵の力を持つ武神である二郎が、「心」においては決して無敵ではない――それどころか、人間と変わらぬ屈託と弱さを見せる姿は、彼のキャラクターを弱めるどころか、むしろ深める形となっていると感じられます。
天界から来た最強の武神も我々人間と変わらぬ心を持ち、そして見かけの明るさだけでない屈託を抱える――その事実は、彼もまた我々と変わらぬ涙の味を知る者であり、我々の世界に共に暮らす隣人であることを示しているのですから。
そしてもう一人、ヒロインとしては受け身の印象が強かった翠心のキャラクターも、本作を通じて大きく肉付けされた印象があります。
二郎・韋護・崔巧雲そして翠心の四人の心の交錯を中心にして描かれる、シリーズものの第二作としては異色作とも感じられる内容の本作。しかしここで描かれるドラマの豊かさは、本シリーズが、題材の面白さや派手さのみに頼るものでないことを、明確に示すものといえるでしょう。
その点でも、シリーズの中で大きな意味を持つ作品であります。
『乱紅の琵琶 長安異神伝』(井上祐美子 中公文庫) Amazon
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