奈々巻かなこ『声音師 幕末維新 ないしょの草紙』 幕末と明治の因縁をほどく百と八つの声
このブログ的は『神域のシャラソウジュ』の奈々巻かなこの初期作品であり、単行本化されていなかった短編連作であります。明治初期、誰の声音でも自在に真似する声音師にして元公儀隠密の主人公が、幕末から続く因縁の糸をほぐします。
百と八つの声を使いわけると言われ、人気役者の声音はおろか、観客の声まで自在に真似してみせる声音師・扇屋俊介。今日も相棒の少女・乃江の音曲に合わせて、その喉を披露していた俊介ですが、その前に現れた黒眼鏡の男はとんでもない依頼をしてくるのでした。
ある女の声をまねて、そしてその声でおれに抱かれてほしいと……
ところがその女の名に聞き覚えがあった俊介は、密かに女の元に忍び込むと、件の男の声で語りかけます。そしてその声に女が思わず口走った名前もまた、俊介の記憶に残るものだったのです。
江戸開城後、彰義隊と官軍の無用の衝突を避けるため、公儀隠密として密かに動いていた俊介。そんな中である事件が起きて……
この「声音師」に始まる本シリーズは、明治の今は声色の芸人、幕末の昔は公儀隠密という俊介を主人公とした連作であります。明治の世に俊介が巻き込まれた奇妙な事件が、幕末に彼が経験した出来事と不思議な繋がりを見せ、その因縁を解きほぐすために、俊介が得意の喉を活かす――というのが基本的な展開となります。
続く第二話の「狐宿」は、今は海軍参謀局の諜報少尉だったかつての同僚・片岡と新橋の妓楼で飲んでいた俊介が、そこで井上聞多が執心する芸妓・琴松が狐憑きになった、という噂を聞くことから始まる物語。
「狐憑き」になった琴松が、密かに井上を包丁で刺そうとしていたのを巧みに抑えた俊介ですが、井上は幕末に彼の監視対象だった長州藩士の一人。その頃は青春真っ只中だった彼らにどこか心惹かれていた俊介は、今の権柄ずくの井上の姿に驚くことになります。
そしてある出来事が原因で、琴松が井上を深く恨んでいることを知った俊介は、井上のよく知る人物の声音で井上の前に現れ……
と、その人物が誰であるかはすぐに予想はつくのですが、しかしその人物が(そしてそれは俊介自身のものでもあるのですが)井上に問いかける言葉と、それに対する井上の言葉が胸を打ちます。
本作は完全な悪人というものが登場せず、誰もが心の中に哀しい部分を抱えているのですが、それを声音が暴き、そして癒やすという点では、このエピソードが最も印象に残るかもしれません。
そしてラストの「呼返し地蔵」は、裏手の淵に入水しようとする者に「返せや返せや」と呼びかける地蔵の伝説が残る麻布の寺を舞台に、俊介自身の過去が描かれることになります。
淵にさる政府高官の令嬢が浮かんだ事件の調査を、片岡から半ば望んで引き受けた俊介。実は幕末に、その寺に身を寄せていたある人物の警護を務めていた俊介は、その淵で死にかけて地蔵の声を聞いたというのですが――さてそれは誰の声であったのか。
普段は飄々と暮らしている彼が何を背負っているのか、そして何に救われたのか。幕末秘史(史実から考えるとまずない話なのですが、しかし内容としては実に面白い)と絡めつつ、彼の魂の彷徨を描く本作は、シリーズのひとまずの結末に相応しいものといえるように思います。
冒頭に述べたように、作者の初期の作品――四半世紀近く前の作品ではあるのですが、しかし今読んでみてもそのキャラクターの独自性やそれを活かした物語展開、そして歴史ものとしてのひねりなど、実に魅力的な本作。
さすがに新作を、というのは無理だとは思いますが、いまこうして電子書籍の形で読むことが出来たのは、何よりの僥倖であります。
(と、調べていたら、本シリーズにはまだ作品があるようなのですが――ぜひそちらも読みたいものです)
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