田中芳樹『バルト海の復讐』 ハンザ同盟を舞台に繰り広げる青年の復讐譚
田中芳樹のヨーロッパものではおそらく数少ない、中世ヨーロッパを舞台とした冒険物語であります。船長としての初航海で友人たちから裏切られ海に投げ込まれた青年が、魔女を名乗る奇妙な老婆に救われたことから、復讐の幕が開くことになります。
時は1492年の冬、22歳にしてリューベックの豪商・グスマンから一本柱帆船を任され、初仕事でリトアニアで琥珀を買い付ける航海に出たエリック。しかしその帰路、彼は友人だと信じていたブルーノら三人の船員の裏切りに遭い、縛られて海に投げ込まれる羽目になるのでした。
しかし一味の一人・メテラーが手首の縄に切れ目を入れてくれたおかげで辛うじて岸に泳ぎ着いたエリックは、断崖の上の小屋に住み魔女と噂されるホゲ婆さんに助けられて命拾いすることになります。
ホゲ婆さんの援助を受け、黒猫の「白」をお供に密かにリューベックに戻るエリックですが、そこで知ったのは自分が積荷を持ち逃げした罪を着せられていたこと。いや、それどころか真犯人のブルーノたちの背後で糸を引いていたのはグスマンだったのです。
口封じの襲撃を受けたところを思わぬ助けで逃れ、辛うじてリューベックを脱出したエリック。グスマンたちの企みを知った彼は、復讐を望むのですが……
本作は、15世紀のヨーロッパ、それもハンザ同盟を舞台とした、日本の小説としてはかなり珍しい作品であります。ハンザ同盟とは、簡単にいえば北ドイツの諸都市を中心に結成され、北海・バルト海を中心とする貿易を独占した自由都市の連合体――その中心であったリューベックを中心に、物語は展開します。
本作の舞台となった15世紀末は、周辺の諸勢力が力を持ち始めて既に最盛期は過ぎていたものの、しかし艦隊まで擁して国家とやりあってきたハンザ同盟の威光は健在であります。
その中でも一番の、つまりヨーロッパで最も豊かだった町を舞台に繰り広げられるのは、ある意味それに相応しい醜い欲と嫉妬に駆られた悪人たちの陰謀――そこに餌食として巻き込まれた世間知らずの主人公の冒険が本作では描かれることになります。
周囲の裏切りによりどん底に落とされた主人公が、ある種の幸運を掴んで再起、自分を陥れた者たちに復讐を企てる――というのは、エンターテイメントの王道の一つであることはいうまでもありません。
こうした作品には、必然的に殺伐とした空気が流れるものですが、しかし本作の場合どこか暢気な味わいがあるのは、主人公を助ける周囲のキャラクターの存在感ゆえでしょう。正体不明ながら大物感漂うホゲ婆さんや、彼女に頼まれてエリックを助ける胡散臭い騎士ギュンターといった面々の造形は、作者ならではの味わいがあります。
もっともその一方で、仇の面々は、それぞれタイプの異なる悪人であり、救いようのない連中ばかりであります。特に名前は伏せますが、その中でもあるキャラなど、むしろ愚者というべき存在なのですが――これを最後まで容赦なく、本当にどうしようもない存在として描くのには、ちょっと驚かされました。
このように脇役たちはなかなかに味があるのですが、いささか残念なのは、主人公がある意味幸運だけで助かっている印象が強く、そのために彼自身の力で復讐を果たしたというカタルシスが薄いことでしょうか。
もっとも本作は復讐ものであると同時にビルドゥングスロマン――主人公が何もできないのは、むしろ当然なのかもしれませんが……
題材やキャラクターは面白く、最後まで肩の凝らない活劇として楽しめるものの、それ以上の深掘りが欲しかった――そんな気持ちが残るのも正直なところではあります。
それにしても作中に登場した慈善好きなアウクスブルクの豪商とは、やはり当時のフッガー家の当主でしょうか。だとしたらあの人物の「強さ」も納得です。
『バルト海の復讐』(田中芳樹 らいとすたっふ文庫) Amazon
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