« 『君とゆきて咲く~新選組青春録~』 第5話「振り向いてほしい、君に」 | トップページ | 梶川卓郎『信長のシェフ』第37巻 未来の料理が伝える無限の可能性の世界へ »

2024.05.25

田中芳樹『月蝕島の魔物』 氷山に封じられた帆船の怪奇と現世の邪悪

 数々の名作を輩出した理論社のミステリーYA!から始まった作者の西洋伝奇もの屈指の名編、ヴィクトリア朝怪奇冒険譚三部作の開幕編であります。氷山に封じられた帆船の謎を巡り、クリミア戦争帰りの男とその姪、そしてかの文豪ディケンズとアンデルセンが、奇想天外な冒険を繰り広げます。

 クリミア戦争でも屈指の激戦地であったバラクラーヴァの戦いから帰還し、唯一の肉親である姪のメープルに迎えられたエドモンド・ニーダム。ミューザー良書倶楽部で働くことになった二人は、社長からチャールズ・ディケンズと、彼の屋敷に滞在しているハンス・クリスチァン・アンデルセンの世話を命じられるのでした。

 自分が支援する探検船の見送りでアバディーンに向かうというディケンズらに同行することになったニーダムとメープル。そこで知り合った新聞記者のマクミランから、一行は月蝕島に氷山の中に閉じ込められていた帆船が漂着したものの、島の所有者であるゴードン大佐によって島の立ち入りが禁止されていることを聞かされます。

 旧知らしいゴードンの悪行に対する強い義憤と、謎の帆船への知的好奇心から、月蝕島に向かうことを決意したディケンズに引きずられるニーダムたち。
 しかし、マクミランと共に月蝕島に近い港町「大剣の港」に向かったニーダムたちは、一帯を支配するゴードンとその次男・クリストルたちが人々に横暴の限りを尽くしている現場を、目の当たりにすることになります。

 その後何とか月蝕島に上陸したものの、すぐにゴードンに捕らえられてしまった一行。何とか脱出しようと苦闘する一行ですが、次々と予測不能な事態が発生して……


 大英帝国の絶頂期であるヴィクトリア女王の統治期間――いわゆるヴィクトリア朝。これまで様々な物語の舞台となってきたこの時代の始まりから20年後の1857年を、本作は舞台としています。
 本作は、語り手であるニーダムの人物像にも大きく関わるクリミア戦争という大きな戦いが終わった直後の時代の文化と人々、その空気感までも、ニーダムの筆を通じた細やかな描写と詳細な解説で、克明に描き出します。

 そしてこの時代の文化の一つである文学を代表するのが、ディケンズであることは言うまでもありません。この頃のディケンズはまさに絶頂期、自身の作家活動だけでなく、同業者の面倒を見たり、率先して慈善活動を行ったりと、精力的な活動を行っていた時期にありました。
 そしてイギリス人ではないものの、同時代の偉大な文学者であるアンデルセン――実際にディケンズと親交があった(そして本作に描かれるようなことになった)アンデルセンを加え、本作は二人の文豪を物語の中心に据えて展開することになります。

 実在の人物が、史実の背後で起きていた奇怪な事件の中で活躍するというのは時代伝奇小説の醍醐味。そして、その取り合わせは意外であれば意外なほど良いのですが――その点、本作は言うことなしです。

 そして本作においては、その「奇怪な事件」も見事であります。何しろ物語の冒頭から、氷山に閉じ込められた帆船なる摩訶不思議なものが出現するのですから驚かされますが――その帆船がどこから来たのか、そしてなぜ氷山に閉じ込められているのか? 誰もが疑問に思うその謎が、やがて主人公たちと交錯し、物語を大きく動かしていくのです。

 そしてクライマックスに明かされるその真実と、そこから生み出される恐怖とは――と、これは詳細は伏せますが、本作でまさかここまでやってくれるとは! と驚愕すると同時に、その手の作品が好きな人間として歓喜した次第です。
(もっと「合理的」な物語だとばかり思い込んでいたので――もちろん大歓迎であります)

 そしてその一方で、ニーダムたちが対峙する現世の邪悪――ゴードン父子の所業を憎々しく描くことにより、タイトルをダブルミーニングとしているのも巧みと感じます。
 そしてその作品を通じてゴードンのような社会悪を剔抉してきた、ディケンズが本作のメインキャラクターの一人であることにも、改めて頷けるというものです。


 さて、冒頭に三部作と述べた通り、本シリーズにはまだ『髑髏城の花嫁』『水晶宮の死神』の二作品が待ち構えています。ニーダムとメープルの次なる冒険も、近日中にご紹介いたします。


『月蝕島の魔物』(田中芳樹 創元推理文庫ほか) Amazon

|

« 『君とゆきて咲く~新選組青春録~』 第5話「振り向いてほしい、君に」 | トップページ | 梶川卓郎『信長のシェフ』第37巻 未来の料理が伝える無限の可能性の世界へ »