冲方丁『剣樹抄 インヘルノの章』(その二) 敵の「正体」 そして心の地獄を乗り越えるために
『剣樹抄』シリーズ第三作にして完結篇の紹介の後編であります。江戸で、関東で、極楽組を追ってきた了介と光圀が知った、敵の陰謀の目的と、その先にある彼らの「正体」。それははたして……
了介や光圀の戦いを通じて、徐々に明らかになっていく、極大師と極楽組の陰謀。二人をはじめとする人々のの苦闘にもかかわらず、輪王寺宮や八王子千人同心、「向崎甚内」といった、様々な人々を巻き込んでその陰謀が進行していく中、敵の背後にある目的、いや敵が掲げ依って立つものの存在――いいかえれば彼らの「正体」が明らかになります。
その詳細ははここでは伏せますが、なるほど、舞台となる明暦年間で過去のものとするにはまだ新しい記憶に関わる存在(それでいて現代の我々からは一区切りついた過去の存在と見えていた存在)であるのに、唸らされます。
そしてここで登場するある人物の名は、ちょっとやりすぎ感はあるものの、その象徴としてはこれ以上はないものでしょう。
そしてそれと同時に明らかになるのは、この世を混沌に包み込もうとしていた敵の心の中にもまた、一つの地獄が存在していたという事実です。
地獄の一つである「剣樹」を題名に冠する本作において、地獄は一つのキーワードであり、その地獄をどう受け止めるかが、一つのテーマであるとといえます。
極楽組との闘争の中で了介が見た修羅の世界、そして何よりも、父の死の真実を知って彼が覗き込んだ心の地獄――特に物語の後半は、この心の地獄をいかに克服するかが、了介の旅の一つの目的として描かれてきました。
了介は、義仙という得難い師の存在によって(実は彼もまた地獄を覗き込んだ者であったことが、本作では語られます)、そしてこれまで出会った人々との触れ合いによって成長し、地獄と対峙してきました。
しかしその彼に地獄を見せた極楽組もまた、それぞれの地獄に苦しんでいた――冷静に考えればそれは第一作で錦氷ノ介が登場した時点でその一端が描かれていたのですが、しかし了介の地獄の方に気を取られていられたところで、ある意味虚をつかれた思いがあります。
しかし、了介にも極楽組にも、心の中に地獄がある――それは言い換えれば、誰の心にも地獄があるということでしょう――のだとすれば、はたしてそれと向き合い、乗り越えることはできるのか? できるとすれば、どうすればよいのか?
極楽組は、それをある方法で(ある概念というべきか)乗り越えようとしたことが、本作では語られます。
しかし了介が、それとは全く異なる道を歩んできたこと、そしてその彼が辿り着いた一つの答えは、シリーズの掉尾を飾るに相応しいクライマックスの先に、その了介を通じて示されます。
そしてそれを可能にしたものが何であるかは、シリーズの読者には、説明する必要もなく理解できるはずです。
(同時に、それを乗り越える道が一つではないことは、本作で大変な扱いを受ける光圀の姿からも明らかですが――まだそれは彼の場合は先のようではあります)
心の地獄に直面した少年の成長小説として、様々な人物と事件を巧みに織り込んだ時代伝奇小説として、江戸幕府が完成する過程での暗闘を描いた謀略小説として――様々な顔を持ち、そのいずれもが高いレベルで結びついて迎えた本作のクライマックス。
正直なところ、物語が始まった当初は、このような結末を迎えることは予想しておらず、嬉しい驚きでした。まさに大団円というべきでしょう。
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