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2024.09.27

劇団四季『ゴースト&レディ』(その二) もう一人のフロー「たち」と、生きている人間の凄み

 藤田和日郎の『黒博物館 ゴーストアンドレディ』をミュージカル化した、劇団四季『ゴースト&レディ』の、主に原作ファンの視点からの感想の後編です。原作の怪奇と熱血という要素が薄められたこの舞台には、しかし本作ならではの解釈がありました。それは――

 その一つが、デオンのキャラクターです。劇中でフローとグレイに立ちはだかる強敵であるデオンは、実在の人物――作中でも軽く触れられていましたが、フランスの騎士であり外交官、そして異性装を好んだ人物でもありました。
 この舞台においては、それに対してデオンはっきりと女性――それも親によって女性であることを禁じられ、男性として生きることを強いられた存在として描きます。

 図らずもゴーストとなったことで今は女性であることを隠さなくなったデオンですが、しかしその心中にあるのは、女性であることの強烈な屈託――自分が女性でありながら女性という存在を呪い、蔑むという屈折した感情なのです。
 そんな彼女が、女性のまま、己の道を貫き、戦場に立つフローを見た時どう感じるか――原作では一種性的な視線だったそれは、むしろ本作では、自分自身の人生を否定する存在に対する敵意であったと感じられるのです。

 ここにおいてデオンは、グレイだけでなくフローと対置される存在として描かれているといえるでしょう。そしてもう一人、フローと対置される舞台オリジナルのキャラクターがいます。それは大臣の姪であり、クリミアの看護団に加わるエイミーです。
 フローのようになりたいと憧れを抱き、彼女と共にクリミアに向かったエイミー。しかし彼女にとって現地はあまりに過酷な環境であり、フローの励ましを受けつつも、次第に彼女は追い詰められていくことになります。

 その結果、彼女はある選択をするのですが――それはフローにはできなかったもの、フローが捨ててきた道を選ぶことだった、という構図は、極めて象徴的に感じられます。
 デオンとエイミーの二人は、フローのようには生きられなかった、自分自身の望むように生きられなかった女性。いわば「もう一人のフロー」たちを描くことで、本作はフローという人物を、原作とは別の形で掘り下げることに成功したと感じます。
 (そしてこの二人が、共に劇中でフローを殺しかけたというのは、決して偶然ではないのでしょう)


 さらに感心させられたのは、本作が舞台劇であることに極めて自覚的であったことです。そもそも原作は、前回冒頭で触れた黒博物館の学芸員とグレイの会話という形で展開していく物語なのですが、舞台ではその部分をカット。しかしその代わりに、冒頭でグレイは我々観客がゴーストを見ることができる者として語りかけてきます。

 この辺り、なるほど自分たちが学芸員さんなのか!? と感心したのはさておき、考えてみればグレイはシアター・ゴースト。舞台に登場するのにこれ以上適任はないわけですが――しかしその意味付けは、ラストに至り、こちらの想像以上に大きなものとなっていきます。
 詳しい内容には触れませんが、結末でグレイがフローに見せようとしたもの――彼が現世に留まってまで我々に見せようとしたものがなんであったか。それは誰もが知るナイチンゲールの、誰も知らない秘密の物語であり、それはグレイとフローの愛の物語でもあった――それは劇場を愛し、劇場で死に、劇場に憑いた彼にとって、これ以上はない形の告白であったといえるでしょう。


 そんなわけで、本作は原作とはまた異なる形で、己の道を貫き、互いを想いあったゴーストとレディの姿を描いてみせました。それだけでももう十分に魅力的なのですが、しかし魅力はまだ尽きません。クライマックスであるフローと軍医長官との対決において、舞台に上がるのはいつだって生きてる人間――この言葉を我々は痛感させられるのです。
 この場面では、グレイとデオンが戦っている間、フローが身一つで、武器を持った軍医長官と対峙するのですが――ここでのフロー役の谷原志音さんの歌の凄まじさときたら! まさしく全身全霊を叩きつけるようなその凄みは、生きている人間が歌い演じる姿をその場で観るという、観劇でしか味わえないものであったと断言できます。

 実は原作ではここで件の生霊要素が大きくクローズアップされるのですが、もし我々に生霊を見る力があったら、原作で描かれたようなものが見れたのではないか――というのは冗談としても、舞台では薄れていると感じた熱血要素を、全て補って余りある名場面だったというほかありません。


 厳しいことをいえば、フローが死を望む理由が弱いという印象は冒頭からつきまといました。また、ラストで見せた舞台ならではの展開のために、その前の「贈り物」の印象が薄れた感もあります。
 しかしその一方で、舞台上の演出や歌など、劇団四季ならではのレベルの高さを感じさせられる部分も多く(特に亡くなった人間の魂が抜ける場面は、遠目に見るとどうやって演じているのかさっぱりわからない凄さ)、ああいい舞台を見た、と満足できる内容であったのは間違いありません。

 原作の内容を踏まえつつも舞台としての特性を生かし、新たなミュージカルとして描いてみせた本作――終わってみれば原作ファンとしても納得の舞台でした。


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