白虎隊の少年、西部で生きる意味を知る 吉川永青『虎と兎』
時代劇と西部劇は琴線が響き合うのか、数は多くないものの、サムライがガンマンと共演する作品は途切れません。本作はその中でも、白虎隊の生き残りの少年が西部に渡り、原住民の少女を助けて、カスター中佐やピンカートン探偵社と対決する活劇です。
白虎隊の一員として会津戦争を戦い、落城に際して切腹しようとしていたところを、最年少であったことから周囲に逃され、心ならずも生き延びた少年・三村虎太郎。
自分が生き延びた意味を探す彼は、幼馴染みがプロイセン商人・スネルの妻となった縁から、共にカリフォルニアに移住し、茶の栽培に携わることになります。
新天地の生活で苦労も多い中、行き倒れていたシャイアン族の少女・ルルを助けた虎太郎。しかし彼女がコロニーの生活に慣れた頃、周囲に不審な影が出没します。
実は、原住民たちを虐待、虐殺するカスター中佐のもとから開発中の秘密兵器の設計図を盗み、逃げてきたというルル。それに対し、カスターはピンカートン探偵社に依頼し、彼女を捕らえようとしていたのです。
ついに迫るピンカートンの追手に対し、ルルを連れてコロニーから脱出した虎太郎。二人はルルの部族の生き残りを求めて、旅に出ることになります。
その中で、ピンカートンの追っ手や横暴な白人の戦いを繰り返し、原住民たちと触れ合う中で、彼らの生き方を知り、様々なことを学ぶ虎太郎。さらに売出し中のビリー・ザ・キッドと意気投合し、冒険の旅を続けた二人は、ついにシャイアンの生き残りと合流するのですが……
冒頭で触れた通り、日本の武士(もしくは武芸者)が開拓時代のアメリカに渡って冒険を繰り広げるというシチュエーションは、異文化同士のファーストコンタクトや、何よりも異種格闘技戦的興味を満たすためか、これまで様々な作品が描かれてきました。
そんな中で本作が目を引くのは、主人公が白虎隊の生き残りであり、そしてそれ以上に若松コロニーの参加者であることでしょう。
幕末に奥羽越列藩同盟に接近した怪商スネル兄弟の兄であり、松平容保から平松武兵衛の名を与えられたヘンリー・スネル。その彼が会津藩の敗北後、日本人妻をはじめ会津若松の人々数十名を連れてアメリカに移住した若松コロニー――その辿った運命は本作でも語られるために避けますが、なるほど、会津の若者をアメリカ西部に誘うのに、これ以上相応しい仕掛けはないでしょう。
(ただまあ、このアイディアは本作は最初というわけではないのですが……)
こうしてアメリカに渡った主人公・虎太郎ですが、まだまだ年若く、そして様々な意味で未熟なキャラクターではあります。
官軍の横暴に追い詰められた末に全てを失い、自分一人が生き残ってしまった虎太郎。以来、己の命の意味に悩み続ける彼が、白人の横暴で全てを失い、いま命も奪われようとしているルルに己を投影し、彼女を助けて冒険の旅に出るのは納得できます。
しかしもちろん、彼は一人ではありません。会津戦争で彼を救った人々、若松コロニーの同胞、行く先々で出会う原住民たち――そんな人々が、時に彼に生きるべき方向を示し、時に生きる術を教え(元会津藩士から御式内を教わるのが熱い)、少しずつ彼は自分が生きる意味を――他者と共に生きる意味を知っていくことになります。
そんな本作、西部劇アクションの変奏曲ではありつつも、それ以上にビルドゥングスロマンの性格を強く持った物語といえます。
しかし本作の場合少々戸惑ってしまうのは、世界観があまりに白黒はっきり別れたていることで――特にカスターの狂人じみた悪役ぶりには鼻白むものがあります。
もちろん、彼の行動について、特に本作でも大きな意味を持つウォシタ川の虐殺は全く評価できるものではなく、悪役とするには適任というべきかもしれません。しかし彼一人を強烈な悪人として描くことによって、アメリカという国家と原住民との戦争の――さらに言ってしまえば人間を抑圧するものと人間の尊厳の戦いの――性格がぼやけてしまったのではないか――そんな懸念はあります。
もう一つ、カスターを敵とする以上、ラストの展開は予想できるのですが、若松コロニーをスタートとしたことで、結構時間的にも地理的にも間が開いてしまうのは、ある意味歴史小説の必然ではあるのですが、やはり歯がゆいところではあります。
主人公を悩める少年とすることで単純な「日本人救世主」ものになることを回避し、青春小説としての爽やかさを与えている点は評価できるだけに、これらの点は勿体無いと感じたところです。
『虎と兎』(吉川永青 朝日新聞出版) Amazon
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