2024.08.19

ジュール・ヴェルヌ『氷のスフィンクス』 今明かされるアーサー・ゴードン・ピムの真実!?

 その緊迫感溢れる筆致と、急転直下の異様な結末が強く印象に残るエドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』。本作はその続編を、海洋冒険小説の名手でもある作者が描いたものです。ピムの冒険の生存者を探し、南極圏へ赴く人々を待つものとははたして?

 1839年、南インド洋のケルゲレン諸島での地質調査を終え、帰国の途につこうとしていたわたし(ジョーリング)は、島を訪れたハルブレイン号のレン・ガイ船長に乗船を求めるも、何故か拒絶されることになります。
 しかし船長は、わたしがナンタケット島に何度も行ったことがあることを知るや、異常に興味を示すのでした。

 数年前、ポーが発表した『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』――1828年に南極地方に向かい、壮絶な経験の末に、ただ二人生き残ったピムの半生を描いたこの「小説」を、船長が真実と疑わないことに、わたしは驚かされます。
 しかし航海の途中、かつてピムが乗っていた船の生き残りの死体を発見したことで、わたしはピムが実在の人物であったことを信じざるを得なくなるのでした。

 そして、実は船長が、ある理由からピムの航海の生き残りを探していることを知ったわたしは、船長に賛同し、そのまま捜索の航海に同行することになります。
 途中、フォークランド諸島で追加の船員を募り、準備万端整えて南極に向かうハルブレイン号。しかし手掛かりの少ない航海が続くにつれ、追加の船員たちを中心に不満が高まっていきます。そんな中、ハントと名乗る謎めいた船員のみは、捜索を断固として続けようとするのですが……


 友人の父の捕鯨船に密航したものの、隠れているうちに船で反乱が起き、数少ない仲間と船を奪還するも難破、くじ引きで生き残りの一人を殺して食らうという壮絶な経験の末に帰還した少年アーサー・ゴードン・ピム。
 しかしそれでも海に惹かれたピムは、同じ生き残りである船員ダーク・ピーターズとともにジェーン・ガイ号に乗り、南極圏の未踏の海域に向かいます。しかしそこで原住民に騙された船員たちは皆殺しに遭い、再びピーターズと生き残ったピムは、何とか脱出した海で、次第に奇怪な世界に迷い込み……

 という内容の『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(以下『ピム』)。少年向け冒険小説のような導入かと思えば、読者全員のトラウマになるであろう食人シーンがあったり、今ではむしろクトゥルフ神話で有名となった「テケリ・リ!」という叫び声や、本当に謎しかない場面でバッサリと終わる結末など、異様に心に残る、ある種の問題作です。

 それだけに様々な作家を引き寄せるのか、『ピム』の続編的作品はいくつかありますが、本作はその中でおそらく最もストロングスタイルの続編といえるでしょう。
 『ピム』は事実であった――というのは、ある意味定番の趣向ですが(しかし当初は語り手のわたしがそれを疑い、徐々に「現実」のことであったと信じていく過程が面白い)、それを受けてジェーン・ガイ号の生き残りを探す捜索航海の模様が、かなり長大な本作の、ほぼ九割を占めるのですから。

 正直なところ、『ピム』終盤に繰り広げられた幻妖怪奇な世界の真実を期待すると、あまりに地味な展開続きなのですが――第二部の「南極海域の怪異」という胸踊る副題もほぼ看板倒れ――しかし嵐や遭難、反乱といった海洋冒険もののセオリーを踏まえて丹念に描かれる物語は、こちらを惹きつけて離さないのもまた事実です。

 そしてその中で『ピム』とのリンクが少しずつ明らかになっていくのも巧みで、予想もしなかった物語の裏幕が見えていく構成も、さすがはというほかありません。
(ちなみにそのリンクの最たるものは、ある登場人物の正体なのですが――それにしばらく語り手たちは気付かず、しかし判明した後で、読者は相当以前から気付いただろう云々とフォローが入るのが、少々おかしい)


 しかし――本作が一つの物語として惹きつけられるのは事実ですが、それも『ピム』のラストに隠された秘密があってこそなのは間違いありません。その点について本作は――少々ネタばらしになりますが、こちらの(勝手な)期待を思い切り裏切る形になっているのがまことに残念であります。
 ラストでようやく回収される、妖気溢れるタイトルの真実は、いかにも作者らしく面白くはあるのですが……

 終わってみると、『ピム』の、特に科学的視点から辻褄の合わない点のアップデートに終始した感が強く、それもまた作者らしいとはいえるでしょうか。期待する点を間違えなければ楽しめる作品ではあります。


『氷のスフィンクス』(ジュール・ヴェルヌ 集英社文庫) Amazon

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2024.08.13

「コミック乱ツインズ」2024年9月号(その二)

 「コミック乱ツインズ」2024年9月号の紹介の後半です。

『猫じゃ!!』(碧也ぴんく)
 今年の5月号に掲載された碧也ぴんくの猫漫画が嬉しいことに続編登場――江戸の猫絵師といえば今でも知らぬ人のいない歌川国芳を主人公に、猫好き悲喜こもごもが今回も描かれます。

 前回国芳の家にやってきたメス猫のおこま。しかしおこまはどうしても畳一畳の距離を国芳と置いて、なかなか近くで絵に描けない状態(冷静に考えると絵を描くのが前提な時点で既におかしい)なのが悩みの種です。
 しかもおこまは女房のおせいには猫吸いすらさせると知った国芳は、何とかおこまとお近づきになろうとするのですが……

 と、猫飼いの夢にして醍醐味・猫吸いが一つのフックとなっている今回。実際にやってみるとそこまで楽しくなかったりするのですが――しかしそれも一つのネタとしてきっちり描かれているのが楽しい――猫に好かれようとして逆に引かれるというのは、おそらく古今東西の猫好きの共通の悩みであって、思わずあるあると頷いてしまいます。
 そしてラストの国芳の決断(?)もまた……

 主人公とその周りが基本的に野郎どもなのでゴツめのキャラが多い一方で、いかにも美猫のおこまのビジュアル、そして仕草も可愛らしく(その一方でゴツ猫のトラも、また滅茶苦茶猫らしい……)、猫好きには何とも楽しい一編です。

(しかし途中で登場する国芳の弟子で美男の「雪」は、やはり美男で知られた国雪なのでしょうね)


『ビジャの女王』(森秀樹)
 ついに蒙古兵が城内になだれ込み、いよいよクライマックスという感じになってきた本作ですが、前回ブブがオッド姫に語った、ラジンが姉の仇という言葉の意味の一端が、ついに明かされることになります。

 姉が「あるもの」に取り憑かれたことをきっかけに、母と姉とともに放浪を余儀なくされたブブ。しかしその最中にラジンの父・フレグ麾下の蒙古軍に襲われ、ブブの姉は連れ去られて――と、以前突然登場して???となった「あるもの」が、ここで物語に繋がるのか!? と大いに驚かされること請け合いであります。
 しかし今回は全てが語られたわけではなく、ブブの父についても意味深に語られていることを考えると、この辺りはこの先まだまだ絡んでくることになるのでしょう。

 そして後半、物語の舞台はオッド姫が避難した地下街に移るのですが――ここでまたジファルが登場したことで、物語はややこしい方向に転がっていきそうです。


『カムヤライド』(久正人)
 オトタチバナの犠牲(?)で大怪獣フトタマは倒したものの、すっかり忘れられかけていたモンコ。カムヤライドへの変身時にウズメに絡みつかれ、動きを封じられたモンコですが、しかし驚いているのはむしろウズメの方で――という引きから続く今回は、モンコの体の秘密(?)から始まります。

 そもそも、ヒーロー時の変身時を狙うというのは一種の定番ですが、土からできているカムヤライドスーツに対して、土属性の(そして能力を全開にした)ウズメが一体化して――というその変身阻止ロジックが実に作者らしく面白い。しかしそれだけではなく、一体化できちゃったのはスーツだけではなかった!? という展開が巧みです。
 さらにそこから、変身阻止パターンがヒーロー洗脳パターンに繋がっていく――そしてそれが対「神」兵器である神薙剣攻略法となるという、流れるように全てが繋がっていく展開には、気持ちよさすら感じます。

 かくて始まったカムヤライドvs神薙剣のヒーロー対決ですが、操られながらも抵抗してみせるのもヒーローの美学。(一転してマスコットキャラみたいになった)オトタチバナの信頼がその引き金になるというのがまた泣かせますが、本当に泣かせるのはそこからです。
 図らずもこの物語の始まりとなった、開ける者・閉じる者・奪った者の出会いが再び――なるほど、この顔ぶれは! と唸るひまもあらばこそ、畳み掛けるような演出の先に待つものは……

 いやはや、こちらも泣くほかない感動の場面なのですが、次回からwebに移籍というのはちょっと涙が引っ込みました。本誌の楽しみの一つが……


 そんなわけでちょっぴり凹んでいますが、次号は『前巷説百物語』と『そば屋 幻庵』が復活とのことです。


「コミック乱ツインズ」2024年9月号(リイド社) Amazon


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2024.08.11

上田朔也『ダ・ヴィンチの翼』(その二) 過酷な時代の中に描く、人の持つ善き部分

 16世紀のイタリアを舞台に、ダ・ヴィンチの秘密兵器の設計図を巡る争奪戦に巻き込まれた少年の冒険物語『ダ・ヴィンチの翼』の紹介の後編です。

 本作が、歴史伝奇小説として一級品ということは述べました。しかし本作の魅力はそれだけに留まりません。秘宝の争奪戦が物語の縦糸だとすれば、横糸に当たるもの――主人公であるコルネーリオ、そしてもう一人の中心人物であるアルフォンソを巡るドラマが、本作をより魅力的なものとしているのです。

 治癒の効果がある歌声を持つ――それだけでなく、人や様々な生きもののオーラを見る力を持つコルネーリオ。深い傷や重い病をも癒やす彼の力は、しかしこの時代においては、魔術として排斥され、処刑の対象となる危険を招くものでもあります。
 事実、物語冒頭でコルネーリオは村はずれに一人で暮らしていましたが、それはかつてフランチェスカの病を癒やしたことがきっかけで異端審問官に目をつけられ、彼の代わりに母が名乗り出て魔女として処刑されたという過去があるからなのです。
(ちなみに彼の母の処刑のくだりは、一見魔女狩りには定番の描写のようでいて、実はそこに流れる熱い人の情の存在によって、本作でも屈指の感動的な場面となっています)

 一方アルフォンソは、傭兵の父がかつて殺した男の息子に殺され、その復讐のために家族の反対を押し切って傭兵となった男。そしてようやく仇討ちを果たしたものの、一度血の因縁がさらなる血を招く修羅の世界に沈んだ心は晴れることなく――自らをそんな世界に追い込んだ戦争を未然に防ぐことを目的に密偵となり、表には出せない仕事に手を染めてきた人物です。

 癒やし手の少年と密偵剣士の男――その能力も、生まれや育ちも異なる二人ですが、しかしそこには、重い過去を背負い、現在を生きながらも、未来に展望が見出だせないという共通点があります。
 そんな二人が思わぬ形で出会い、冒険の旅を通じて互いのことを少しずつ理解し、絆を深めていく。言葉にすれば簡単ですが、バディとも師弟とも、疑似親子ともつかぬ――そしてそのどれでもある、かけがえのない存在となっていく姿は、大国間で苛烈な争いが繰り広げられ、命が弊履の如く失われていく世界の物語だからこそ、人の持つ善き部分の一つの現れとして感じられるのです。


 そしてそんな二人をはじめとする人々が繰り広げる剣と魔法と知恵の争いの末、ついに明らかとなるダ・ヴィンチの秘密兵器の在処。それは、まさかそこに!? と仰天とさせられるような意外性のある(そして様々な意味で驚くほど巧みな)隠し場所であり、秘宝争奪戦の終着点として見事というほかないものです。

 しかし何故、そこにダ・ヴィンチは秘密兵器を隠したのか? そしてそれは今まで守られてきたのか? 具体的には書けませんが、その答えの根底にあるのは、ダ・ヴィンチが人を信じようとした心、人という存在に抱いた希望であり――そしてそれは、先に述べた人の持つ善き部分の、別の形での現れにほかならないのです。

 本作の真に見事な点は、まさにその点にあるといえます。人が人を殺す戦争のための兵器の争奪戦の果てに待つものが、人が人を信じ、人の善き部分を守ろうとする心である――その構図は、必ずや読む者の胸を熱くさせてくれるでしょう。
 そしてそこにはもちろん、先に述べたコルネーリオとアルフォンソの間の絆が、深く結びついているのです。

 伝奇的な活劇を通じて過酷な現実を描きつつも、しかし同時にそこに高らかに人間賛歌を歌い上げてみせる、そんな本作の姿勢には、感動とともに強い好感を覚えます。
(ちなみにこの人間に対する視点は、前作でもあったものですが、よりパーソナルなドラマが主軸にあった前作に比して、より強く前面に打ち出されている印象がある――というのは牽強付会でしょうか)


 そして物語は、新たに開けた未来への道を描いて終わることになります。
 それはもちろん、ここで語られるような明るいものばかりではないかもしれません。そしてその前途の険しさは、この物語の後にフィレンツェが辿る運命が暗示しているともいえるかもしれません。

 しかしそれでも、自分自身の、そして自分の隣に在る者の持つ力を信じ、新たな一歩を踏み出す人々の姿に、希望を持ちたくなる――そんな美しい結末であることは間違いありません。
 そして、前作同様、「彼ら」のその先の物語を是非見せてほしいという願いを抱いてしまうのです。


『ダ・ヴィンチの翼』(上田朔也 創元推理文庫) Amazon


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2024.08.10

上田朔也『ダ・ヴィンチの翼』(その一) 謎と暗号と剣戟に彩られた冒険活劇

 我々にはちょっと馴染みが薄い時と場所ながら、知ってみれば非常に魅力的な16世紀のイタリア。本作は、『ヴェネツィアの陰の末裔』の作者が、再びこの舞台で描く冒険ロマンがです。フィレンツェの危機を救う、ダ・ヴィンチの秘密兵器争奪戦に巻き込まれた少年が、冒険の果てに見たものは……

 時は1529年、生まれつき持っている治癒の力を隠して、村はずれに一人暮らす少年・コルネーリオ。しかし、森で瀕死の男・アルフォンソを見つけた彼は、思わず癒やしの力を使ってしまうのでした。
 芸術家にしてフィレンツェ共和国政府の要人・ミケランジェロの密偵であるアルフォンソを匿うために、農場主の娘であり、かつて命を助けたことがある少女・フランチェスカの屋敷を頼るコルネーリオ。そこで彼は、アルフォンソがダ・ヴィンチが密かに隠したという秘密兵器の設計図を探していたことを知ります。

 折しもフィレンツェには神聖ローマ皇帝の軍勢が迫る状況、フランスと結んで対抗しようとするも、到底力は及びません。そんな中、かつてダ・ヴィンチが発明しながらも、いずこかへ隠したという秘密兵器が、フィレンツェの最後の希望だったのです。
 しかし設計図の隠し場所を知るには、難解な暗号を解くしかありません。ところがアルフォンソとミケランジェロらの会話を盗み聞いたフランチェスカは、その暗号を見事解いてみせます。

 そんな中、屋敷を襲撃する神聖ローマ帝国皇帝直属の黒衣の騎士グスタフと教皇の刺客サリエル。コルネーリオとフランチェスカは、アルフォンソと彼の仲間たち、さらにフランスの密偵らとともに屋敷を脱出、次なる目的地・ヴェネツィアを目指すのですが……


 第五回創元ファンタジィ新人賞佳作、第五回細谷正充賞を受賞した『ヴェネツィアの陰の末裔』(以下「前作」)。本作は前作と同じ世界感、そしてほぼ同じ時期(時期的には一年後)を舞台に描かれます。

 前作は、当時のイタリアを巡る複雑怪奇な史実の中に、「魔術師」というフィクションの存在を嵌め込み、スリリングな諜報戦と、魔術師の青年の自己確立を描いた物語でしたが、本作もそれに勝るとも劣らぬ名品――前作が罠と陰謀が張り巡らされた諜報劇であったとすれば、本作は謎と暗号、そして剣戟に彩られた宝探しの冒険活劇です。
 主人公は強力な治癒の力を持つ少年、共に旅立つのは彼と淡い感情を寄せ合う頭脳明晰な令嬢と、世の裏街道を歩いてきた名うての密偵剣士。そして求めるのは、かの天才ダ・ヴィンチが発明したという謎の秘密兵器――とくれば、胸がときめくではありませんか。

 ちなみに前作の読者としては、ヴェネツィアの魔術師たちが再び登場する――前作の主人公コンビをはじめ、ほとんどはほんの僅かの出番ではあるものの、中にはコルネーリオの旅に同行し、頼もしい助っ人となってくれるキャラクターがいるのも、実に嬉しい。
 前作唸らされた魔術描写も健在であると同時に、その魔術と正面からやり合う敵を描くことで、敵の存在感を高めているのもまた巧みというべきでしょう。(そのうちの一人は、前作でも妙に印象を残したキャラクターなのが嬉しいところです)


 それにしてもダ・ヴィンチの秘密兵器とは、いささか突飛な印象を受けないでもありませんが、しかし当時のフィレンツェには、そんな怪しげなものに頼らざるを得ない状況にあったといえます。

 メディチ家を追放して共和制を敷いていたものの、ローマ劫掠を経てメディチ家出身の教皇と神聖ローマ皇帝が和解、共に敵に回り、メディチ家も復活を画策する状況にあったフィレンツェ。
 複雑な情勢の中で共和国の軍事を司る九人委員会(ミケランジェロもその一員)も一枚岩ではない中で、防衛はおぼつかない――そのような状況で、反撃の手段としてだけでなく、フィレンツェの人々の希望のシンボルとしてダ・ヴィンチの秘密兵器を掲げようとするミケランジェロの発想は理解できるものでしょう。

 先に触れたように、当時のイタリア情勢は複雑怪奇、そんな状況を舞台装置として、そして物語の原動力として使ってみせた本作は、歴史伝奇小説としても一級品といえます。


 しかしそれだけではなく――長くなりますので、続きは次回に。


『ダ・ヴィンチの翼』(上田朔也 創元推理文庫) Amazon


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2024.08.06

犬飼六岐『火の神の砦』 若き日の愛洲移香斎と幻の刀

 日本の剣術の三つの源流の一つである陰流の流祖・愛洲久忠は、しかし伝説的な存在であるためか、フィクションで取り上げられる機会は少ない人物です。本作はその久忠を主人公に、彼が若き日に出会った奇妙なある里での出来事を描く、なかなかユニークな物語です。

 室町幕府の威光も衰え、世情騒然とした戦国時代初期、剣術修行の旅の途中に出雲を訪れた愛洲久忠。ある理由で出雲各地の市を巡っていた彼は、国境の市で刀を売っていた一人の女を見つけます。
 土地の役人に絡まれたその女を、山中又四郎と名乗る陽気な若侍と共に助けた久忠は、女から刀は村の鍛冶が打ったと聞き出します。そこで女の帰る先についていこうとする久忠と又四郎ですが――女は二人を幾度も撒こうとするのでした。

 その末に足を怪我した女を連れて、彼女の村に辿り着いた二人。女が隠そうとするのも道理というべきか、外界から隔絶されたその村は、女性のみが暮らす隠れ里でした。
 何故この村には女性のみが暮らすのか。彼女たちは何者なのか。それはて久忠が村を訪れた理由とも繋がっていたのですが……


 というわけで本作は、後に愛洲移香斎として知られる愛洲久忠と、正体不明の脳天気な若侍・山中又四郎が迷い込んだ、女ばかりの隠れ里を巡り展開します。
 これは出版社のサイトにも記載されているので明かしてしまいますが、久忠が女の村を――女の村の刀鍛冶を探していたのは、久忠が見た刀が、とうに滅んだはずの備中青江鍛冶の新作に見えたからにほかなりません。

 鉄の産地に近かったこともあり、平安時代から刀工を輩出した備中国青江。その一派は、愛刀家として知られた後鳥羽天皇の御番鍛冶にも選ばれたほどであり、天下五剣の一つ・数珠丸を打ったことでも知られています。
 しかし南北朝時代に南朝方についたことから衰微し、ついにはその命脈を断ったと言われる青江派。その青江派の新作が、それから約百年後に見つかったとあれば、久忠ならずとも驚き、その正体を追ってもおかしくはないでしょう。

 はたしてその刀鍛冶がいると思しき里の正体は――上に述べた青江派の歴史を踏まえて語られるそれは、伝奇的な興趣に満ちており、本作の大きな魅力というべきでしょう。


 しかしその来歴故に、久忠たちが辿り着いた村は、外部からの人間、特に男に対して厳しい眼を向けます。それでもなお刀を望む久忠に対して、女たちは幾つもの条件をつけることになります。
 それをくぐり抜け(その一つがきっかけで久忠たちが出会うのが、あの雪舟という意外性も面白い)、里の女たちの一部とは心を通わせる二人ですが、しかしなお里の人々の多くはその本心を見せず、それが終盤のある展開に繋がっていくことになります。

 戦国時代の荒波の中で、女性たちだけで自主自立した暮らしを営む隠れ里。一見理想郷に見えるその地も、しかしその維持のために、幾つもの掟が――時に理不尽なものにしか見えぬものが存在することが、やがて明らかになっていきます。
 いわゆる「因習村」的なものすら感じさせるそれは、人が共同体を――しかもある種の同質性の高いものを――成立させることの難しさを、浮き彫りにしているといえるかもしれません。


 人が人らしく生きるために作られた共同体が、やがてその人らしさを制限していくことになる――本作は名刀奇譚を描きつつ、そんな人の世の皮肉さを浮き彫りにしてみせるます。
 そして、絶対何かしらの秘密があると思っていた又四郎が意外な正体を現したことをきっかけに、物語は全てを飲み込んで結末に向けて疾走していきます。

 その結末は、正直なところ呆気なさすぎると感じる方も多いかとは思いますが――一人の剣士にできることは限られていることを思えば、そして歴史の示すところを見れば明らかな結果を、あえて描かずに終えたというべきでしょうか。
(その一方で、雪舟が描いた久忠の姿が、後に彼が開いた剣流の別名を思えばニヤリとさせられるものであったりと、本作は若き日の久忠伝としても面白い作品ではあります)


『火の神の砦』(犬飼六岐 文藝春秋) Amazon

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2024.08.02

相田裕『勇気あるものより散れ』第6巻 混迷の戦い、ついに決着!?

 不死の宿命を受け継ぐ半隠る化野民と眷属の剣士たち同士の死闘はなおも続きます。自分たちの母を巡り、激突する煙花・生松・シノ――化野民の兄妹たちの戦いは、人間を巻き込んでほとんど戦争という域にエスカレート、その中で暴走した生松を止めるため、剣士たちは死力を尽くすことに……

 化野民を殺す力を持つ妖刀・殺生石「華陽」を奪い、母の身柄を求めて明治政府の高官たちを次々と襲う生松と眷属の菊滋。宿敵であった政府図書掛の山之内と組んだシノと春安は、藤田五郎を仲間に加え、生松たちを追跡します。
 眷属同士の死闘の末、菊滋こと鵜飼幸吉を斃した春安。しかしそこにシノと生松の姉・煙花と眷属の壽女、さらに隗の眷属・伊庭八郎までが出現――一方で図書掛は数多くの兵を率いて彼らを待ち受け、小石川一帯は戦争状態に……


 はたして誰が何のために戦っているのか――そんな疑問すら浮かぶ大混乱の中で、なおも続く、化野民と化野民の、眷属と眷属の、そして人間と化野民・眷属との戦い。この巻でもその戦いはほぼ一巻丸々費やして描かれます。

 この戦いに加わるのは大きく分けて二派。片や、シノ・春安・山之内・藤田(と図書掛の兵たち)。片や生松・煙花・壽女・伊庭八郎――それぞれに戦う理由は微妙に異なりながらも、達人たちが一つ所に集まり、死闘を繰り広げる様は、これはこれで壮観というべきでしょうか。

 そんなこの巻の前半で描かれるのは、シノvs生松、藤田vs伊庭、煙花&壽女vs図書掛の兵たちの戦い。
 不死身の肉体を持つ者同士ならではの凄惨な戦いを繰り広げるシノと生松、幕末の名剣士同士が激突する藤田と伊庭、そして大砲まで持ち出した人間たちを前に不死身の力を存分に振るう煙花と壽女と、それぞれに趣向の異なるバトルが展開します。

 この中で特に幕末ファンにとって見逃せないのが、藤田vs伊庭であることはいうまでもないでしょう。
 かつてはともに旧幕府軍として修羅の戦場を戦った同志ながら、警察の巡査となった者と、一度死して化野民の眷属になった者――幽明境を異にするという表現はちょっと違うかもしれませんが、とにかくあまりに境遇が変わってしまった二人。しかしそうであっても二人の剣の腕は変わりません。

 おそらくは幕末最強クラスの二人の激突は、もはや名人戦。激しい技の応酬の中、初めは巡査として棒を手に戦っていた藤田も、ついに刀を抜いて本気モードになったところで繰り出される、双方得意の突き技――というだけでたまりませんが、そこからの思わぬ決着もまた、二人の「今」の違いを表すものと言って良いかもしれません。
(というか、相変わらずブレない本作の藤田……)

 しかし混迷の中、戦いは思わぬ方向に転がっていきます。シノとの戦いの最中、山之内の切り札により、致命打を受ける生松。しかし最後の力を振り絞った生松は、「華陽」を手にします。
 死を前にして、華陽にまとわりつく異様な気に操られるように怪物的な力を発揮する生松を止めることができるものは……


 と、思わぬ面々が加わった死闘の末に、ついにここでの戦いは終結します。しかしその犠牲は、決して小さなものではありません。

 本当にこの巻はほぼ完全に戦いのみ(煙花と壽女の出会いは回想シーンで描かれましたが)で終わってしまったため、ストーリー的にはほとんど進んでいないのですが――この混沌の先に何があるのか、今は全く見えない、というのが正直なところであります。


『勇気あるものより散れ』第6巻(相田裕 白泉社ヤングアニマルコミックス) Amazon


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2024.07.26

安達智『あおのたつき』第14巻 彼女の世界、彼女の地獄からの救い

 吉原に生きる人々の姿を、時に恐ろしく、時に物悲しく、時に美しく描いてきた『あおのたつき』第14巻は、前巻から続く「八重の待ち人」の完結編が描かれます。過酷な現実との軋轢に押し潰され、自分の世界に籠ってしまった花魁・八重花。その世界を壊そうとしたあおに、「世界」が牙を剥きます。

 幼い頃から独特の感受性を周囲に理解されぬまま生き方を押し付けられ、不幸な結婚の末に、紆余曲折を経て吉原で花魁となった八重花。しかしそこでも彼女にとっての「現実」は変わらず、彼女は存在しない間夫の貞様との「世界」に生きるようになります。
 そんな八重花の心の均衡を保つため、彼女の振る舞いに合わせてきたものの、耐えかねて薄神白狐社を訪れた新造の初花の依頼で、楽丸とあおは八重花のもとを訪れます。そこで想像以上の彼女の状況を目の当たりにしたあおは、八重花の世界を壊すと宣言するのでした。

 そして楽丸の制止を振り切り、強引に八重花を彼女の世界に留めていた、貞様に繋がる品を壊していくあお。しかしそれは逆に八重花と現実の境界を失わせ、彼女の世界は暴走を始めます。
 かくて、夢と現が混ざり合う彼女の精神の中の「地獄」に巻き込まれたあおの運命は……


 様々なわだかまりに囚われた人々の心を描いて来た『あおのたつき』という作品。これまで、時に冥土にまで引き摺られ、時に現実世界の怪異と化したそれを描いて来た本作ですが、この「八重の待ち人」編では、八重花という、言ってみれば心を病んだ女性を中心に物語が展開していくことになります。

 前巻でかなりの割合を割いて描かれた過去を通じて、そして吉原での暮らしを経て、完全に自分の世界に閉じこもってしまった八重花。
 その責任は、八重花の言葉に調子を合わせ、「貞様」の存在を信じ込ませてしまった初花たち廓の者たちにもある――そんなあおの糾弾は、いかにも正論であります。

 しかし八重花が張り巡らせた壁を壊すこともまた、一種のエゴではないのか――前巻のラストで感じた違和感は、この巻において、最悪の形で裏付けられることになります。壊された世界の壁から溢れ出したのは、八重花自身もどうにもできない彼女の心の中の地獄だったのですから。

 その中に飲まれたあおが、サイコダイビングよろしく、八重花の精神の深奥で、彼女の病理と対面し、それを癒やす――エンターテイメント的には、それが定番の展開かもしれません。しかし本作は、あえてその定番を外した展開を見せることになります。

 その果てに待つ結末は、あるいは何の解決になっていないように見えるかもしれません。人のわだかまりを解き、封じる力を持つ薄神白狐社であっても――すなわち人を超えた神の力であっても、ここまでしかできないのか、と思うかもしれません。
(あるいは突然生じた現実の壁に鼻白むかもしれません)

 しかしそうであったとしても、八重花を一人の人間として尊重するのであれば、この答えしかない――ひどく苦く、ある種の敗北に見えたとしても、これしか道はないことは、同様の境遇の人間が身近にいる方にとっては、よくご存知かもしれません。
 そしてそれが本人にとっても、周囲の人間にとっても一つの救いになることもまた。

 ある意味異色の物語揃いの本作においても、特に異色の物語というべき「八重の待ち人」。しかしそれだけに、こちらの心に大きなものを残す物語であることは間違いありません。


 そしてこの巻にはこの他、短編「双葉屋美婦之画」と、長編エピソード「手入らずの筆」の冒頭部分が収録されています。

 前者は、冥土においてもなお、美への執心に囚われて争う五人の娼妓を前に、あおと楽丸が悪戦苦闘する――と思いきや、楽丸の存在のために思わぬ方向に転がっていく物語。
 後者は、アラサーになっても女性に接したことのないコンプレックスに囚われた男が薄神白狐社に迷い込んだことをきっかけに、あおと冥土の覗き常習犯・豆右衛門が色道指南に乗り出すことになります。

 いずれも前半のエピソードに比べると全くトーンの異なるコミカルなエピソードですが――さて後者の方はこれからどちらに転がるものか。
 人によっては全く笑い事ではない内容だけに、どのように落着するのか、気になるところです。

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2024.07.20

『開化の殺人 大正文豪ミステリ事始』 幻の雑誌に考えるミステリの定義

 私はミステリについてほぼ門外漢ですが、それでも意欲的な新作が次々と発表され、過去の名作に比較的容易にアクセスできる現在は、かなり良い時代なのではないかと思います。本書もそう思わせるに足る企画――幻の『中央公論 秘密と開放号』(大正七年七月臨時増刊)の復刻を中心とした一冊です。

 「中央公論」の名編集長として知られた滝田樗陰が、文壇の錚々たる面々に働きかけて誕生したミステリ特集が掲載された『中央公論 秘密と開放号』。かの江戸川乱歩が「大正期文壇の一角に燃え上がった、かくの如き犯罪と怪奇への情熱」と評したものの、長らく幻と呼ばれてきた雑誌です。
 本書はそこに掲載された作品のうち、分量が多くかつ比較的読むのが容易な谷川潤一郎の「二人の芸術家の話」を除く、全作品を収録し、さらに江戸川乱歩と佐藤春夫のエッセイ、北村薫の解説を収録しています。

 さてその顔ぶれとは――
「指紋」(佐藤春夫)
「開化の殺人」(芥川龍之介)
「刑事の家」(里見弴)
「肉屋」(中村吉蔵)
「別筵」(久米正雄)
「Nの水死」(田山花袋)
「叔母さん」(正宗白鳥)
 執筆者のほとんどが国語の教科書でお目にかかりそうな、一般の読者的にはミステリとは無縁に思える顔ぶれですが――さて、この特集においてはどのような作品を発表しているのでしょうか。

「指紋」遊学中に阿片中毒となった友人を家に置くことになった私が、ある映画を見て以来狂気のように指紋に取り憑かれた友人から聞かされた、ある事実とは。
「開化の殺人」ある医師が遺書の中で綴った、自分がかつて行った殺人と、その後のある恐るべき葛藤。
「刑事の家」刑事一家が管理人を勤める別荘に出かけた学生の一団が、そこで目撃した一家の有様とは。
「肉屋」妻が、自分に隠れて前夫と通じているという疑惑に取り憑かれた肉屋は、煩悶の果てに……
「別筵」友人の婚約者の令嬢と通じ合った青年が、海外に栄転するという友人を令嬢一家と送別会に招くが……
「Nの水死」K博士が死の間際に愛妻の治子夫人に告げた、若い頃に水死した二人の親友Nを巡るある事実。
「叔母さん」旅の途中に立ち寄った先で、微妙な間柄の叔母さんと外出することになった青年は……

 本当にあらましのみで恐縮ですが、指紋による人物の同定という科学的な(しかしその中に、ポォめいた幻視的描写が入るのがまた面白い)内容を描く「指紋」や、殺人者の告白というミステリ的テーマを、その魂の葛藤という実に文学的に料理した「開化の殺人」など、現代人の目から見てもミステリとして読んでも十分に面白い作品だと感じます。

 その一方で、イヤミス的シチュエーションに、一転してものすごい結末がつけられる「刑事の家」、ネガな人情噺というべき「肉屋」、過去の秘密をこれも文学的に描く「Nの水死」など、面白いけれどもミステリと言ってよいものか――と悩ましい作品が収録されているのも、今となっては貴重というべきでしょう。
 元々この特集のタイトルは「秘密と開放」――企画意図はさておき、必ずしもミステリには限らない内容ということもありますが、それ以上に、この時代におけるミステリというジャンルの範囲に対する送り手(と受け手)の様々な考え方が、ここには浮かび上がっていると感じられるのですから。

 その辺りを丹念に語っているのが、巻頭の乱歩のエッセイ「一般文壇と探偵小説」であり、送り手の一人である佐藤春夫の回顧談である巻末の「「指紋」の頃」で、この二編を併録した編集者の慧眼には敬意を表するしかありません。

 思うに文学というものが、人間の内面に秘められたものと向き合い、それを描き語るものであるとすれば、それをあるベクトルで描いたものが、ミステリなのかもしれない――そんなことを考えつつ、ここで元のタイトル「秘密と開放」を見て、改めて感嘆させられた次第です。


 ちなみに北村薫の解説「大正七年 滝田樗陰と作家たち」は、各作品とその作者、そして背景となる文壇の状況について丹念に記した名品ですが――「別筵」については、ぜひ本編を読んだ後に解説を読んでいただきたいと思います。これもまた文学、と言いたくなるようなある事実が待っています。


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2024.07.19

天野頌子『晴明の娘 白狐姫、京の闇を祓う』 妖狐の姫の生い立ちと活躍

 陰陽師といえばもはや安倍晴明が代名詞となっていますが、本作はその晴明に娘が、それも祖母譲りの美貌と妖力を持った白狐姫がいたという設定の物語――現代を舞台とした『よろず占い処 陰陽屋シリーズ』の作者が、本物の(?)陰陽師の物語に挑戦した作品です。

 安倍晴明と妻・宣子の間に生まれた待望の娘・煌子――しかし彼女は狐の耳と尻尾を持って生まれてきた妖狐でした。実は晴明の母である信太森の白狐・葛の葉の血が、孫に当たる煌子に現れたというのです。
 煌子を信太森で引き取ろうと安倍家に現れた葛の葉の勧めを、しかし晴明たちは断り、煌子を屋敷の中で育て始めるのでした。

 そして両親と二人の兄の愛を一身に受け、美しくもおてんばに育った煌子。しかし家の中だけでの生活に我慢できない煌子は、父や兄にせがんで、男装で外出するのようになります。
 ところが、生まれながらに強大な妖力を持つために、妖怪たちに狙われる煌子。幾度か危ない目に遭いながらも、彼女はその力を発揮して次々と妖怪たちを従え、自分の式神としていきます。

 やがて彼女は「白狐姫」として、妖怪たちの間でその名を知られるようになって……


 安倍晴明に、吉平と吉昌という二人の息子がいたことは(フィクションで時々取り上げられることもあり)比較的知られているかと思います。
 本作はその二人以外に晴明に子供が、しかも二人の下に妹がいた――というだけでなく、祖母からの隔世遺伝で狐っ娘だった、というユニークなアイディアの物語です。

 しかも煌子の場合、外見だけでなく、その妖力の大きさまで祖母譲りというのも愉快なところで――連れている妖怪も、小は管狐から上は鞍馬山の大天狗(この大天狗が式神になる経緯が愉快)まで、さらに妖怪ではないけれどもあの渡辺綱までお供に、という豪華すぎる顔ぶれです。

 本作はそんな煌子が、妖怪に襲われあわやという状態だった少年・道長を救い出す場面から始まりますが、そこから物語は時間を遡り、煌子の誕生から「いま」に至るまでの過去が描かれるという構成となっています。

 そしてそこでは、煌子の生い立ちや活躍――だけでなく、この時代の様々な文化風俗も織り交ぜて描かれるのがなかなか面白いところです。
 誕生や裳着といったイベントから、陰陽寮/陰陽師の日常、あるいは五節舞のような儀式まで――煌子が成長し、様々なことを学ぶのに合わせて描かれることで、そんな平安独自の要素が、初心者にもわかり易く、そして物語に無理なく織り込まれているのに感心しました。

 そして物語の約2/3を過去編に費やした後、残る1/3では、出産を間近に控えた女御を守るために、煌子のみならず、安倍家が総出で奮闘する姿が描かれます。
 女御のもとに死霊のみならず生霊が現れ、何者かの呪詛が仕掛けられるという混沌とした状況の中、ちょっとしたパニックもの的事態が発生して――というクライマックスは、なかなか盛り上がます。


 ただ個人的に残念だったのは、大天狗や綱、道長、さらには安倍家の男性陣も(そして最後に登場する敵も)含めて、煌子の周囲の男性キャラは結構な人数がいたものの、それぞれあまり強い個性が感じられなかった点です。
 もちろんあくまでも煌子が主人公ではあるために仕方はないのかもしれませんが、皆ネームバリューはそれなり以上にある彼らの存在が、作中で生かされていたかといえば微妙なところです。

 そんなこともあり、煌子の破天荒な暴れぶりは面白いものの、全体を通してどこか物足りない印象が残ったのは、勿体ない話ではあります。


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2024.07.14

伊藤真美『秘身譚』第1巻 月下を駆ける「美少年」 幻の古代ローマ伝奇

 今年(2024年)公開される映画『グラディエーターⅡ』は、カラカラ帝(とゲタ帝)の時代が舞台とのことですが、そのカラカラの死から始まる伝奇漫画が本作です。ローマ帝国有数の都市・アンティオキアを舞台に、街を牛耳る士官と、彼に庇護される両性具有の美少年を中心とした物語が展開します。

 カラカラが暗殺され、マクリアヌスが帝位に就いた217年――ローマ帝国東方の都市・アンティオキアは、街の有力者たちから成る組織「夜の辻」に牛耳られていました。
 その状態を打破しようとした新任の総督は、組織の中心人物と目されるローマ軍団士官グナエウス・ドミティウス・ポリオを捕えたものの、その直後に、ポリオに仕える両性具有の美少年・エラに暗殺されるのでした。

 その後、「夜の辻」の貿易商・ビディビウスからの、エラを彫像のモデルにしたいという依頼に応えつつ、エラをスパイとして送り込むポリオ。時同じくして、カラカラの母ユリア・ドムナの一族は、帝位への返り咲きを狙い、ポリオに協力を求めてくるのでした。
 しかしエラは任務に失敗して瀕死の深傷を負い、激怒したビディビウスは、マクリアヌスにポリオのことを讒言することに……


 最初に申し上げておきますと、本作は2010年に「マガジンイーノ」誌に連載され、同年に単行本第1巻が刊行して以来、続巻が刊行されていそない、いわば未完の作品です。
 それを今になってここで取り上げるのは、冒頭に述べたとおり、『グラディエーターⅡ』と本作の舞台年代がほぼ重なる、というよりデンゼル・ワシントンがマクリアヌスを演じるというので本作を思い出したためですが――しかし今読み返してみても、様々な魅力に溢れた作品であるから、というのが最大の理由でもあります。

 ローマとパルティアの戦いの最前線にありつつも、繁栄を謳歌するアンティオキアの猥雑な空気感と、都市を裏側から支配する(総督の首を差し替えることも容易くやってのける)「夜の辻」の妖しい存在感。
 その「夜の辻」が奉じるのが、その名にふさわしくヘカテー(ヘカテーは月の女神、辻の女神であり、冥府や魔術と密接な関係を持つ存在であります)というのも素晴らしいのですが――それに対してユリア一派が奉じるのが太陽神エラガバルという照合もまた、大いに気になるところです。

 そして何よりも物語の(おそらくは)主人公でありながら、全てが謎めいたエラの存在――単純な(?)両性具有ではなく、むしろ少年と少女の間をほとんど変身する彼/彼女は、作中で幾多の顔を持つ存在として描かれます。
(作中で明示されていませんでしたが、物語冒頭、非合法の剣闘試合でパルティア人捕虜を次々と屠っていく仮面の女狂戦士・ヘカテーもエラなのでしょう)
 あたかも月がその相を変えていくが如く、とらえどころがないエラ――そのエラが、この第Ⅰ巻のラストで瀕死の重傷を負ったのに呼応するように、天の月がその相を変えるという有り得べからざる現象は、強烈な印象を残します。

 そしてそれを描く作者の筆もまた見事であります。本作の数年前に描かれた(これも未完の)大作中世伝奇『ピルグリム・イェーガー』よりも、画的にも描写(特にアクション描写)的にもさらに洗練された画は、この混沌かつ猥雑、異教ムード漂う物語世界と一体不可分のものとして彩るのです。


 ――と、こうして書けば書くほど、本作が未完であることが口惜しくなってきます。

 特に、この第Ⅰ巻の時点ではほとんど顔見せ状態ながら、後にヘリオガバルスの名で知られる印象とは全く異なる姿で登場した少年、ウァリウス・バシアヌス・アントニヌスが、今後どのように変化するはずだったのか?
 後に「史上最悪」と呼ばれた彼の行状と、エラの存在があるいは重なることになったのでは、と想像するだけでゾクゾクするのですが……


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