2023.12.01

安達智『あおのたつき』第12巻 残された二人の想いと、人生の張りということ

 ついに電子書籍と紙の書籍が同時発売となり、絶好調の『あおのたつき』、この第12巻のメインとなるのは、あお=濃紫が亡き後に現世に残された人々の物語。濃紫に恋していた幇間の猪吉と、その猪吉に恋する濃紫の同輩・夕顔。すれ違う想いの行方は……

 かつて吉原の三浦屋にその人ありと知られながらも、生き別れの妹を救おうと逸った末に、間夫の権八の手にかかって命を落とした濃紫。妹に対するわだかまりを抱えた末に彼女が冥土の吉原で取った姿があおというわけですが――この巻のメインとなるエピソード「通い猫」では、彼女亡き後の吉原が舞台となります。

 密かに濃紫に恋し、時にはその足抜けをフォローしながらも、結局は彼女を救うことができず、死に至らしめてしまったことに深い悔恨の念を抱き続ける猪吉。一方、濃紫の同輩であり、最も彼女と近しい間柄だった遊女の夕顔は、密かに猪吉に想いを寄せていたのですが――それがもはや押さえきれなくなった末に、客を取れない状態になってしまうのでした。

 いまや三浦屋を背負う身の夕顔にやる気を起こさせるために、店に因果を含められた猪吉は、夕顔を床に入ることになるのですが……


 かつて恐丸の試練の中で明かされたあおの過去。それはどうにもやり切れない、あまりにも救いのないものでしたが――しかし彼女の死後も、苦界に身を置く者たちは生き続けなければなりません。
 今回描かれるのは、まさにそんな者たちの物語――それも、店の幇間と遊女の禁断の恋の物語であります。

 いうまでもなく、店の者(店に出入りする者)と遊女の色恋沙汰はきつい御法度。明るみに出れば制裁の対象となるものですが――しかし、禁じられたくらいで押さえられるはずもないのが恋の炎というもの。ましてや当事者の二人は、濃紫という故人を失い、大きな喪失感に苦しめられる者たちであります。
 といってもここで複雑なのは、二人の関係が、夕顔が恋する猪吉にその気はなく、猪吉が恋するのは亡き濃紫であるという、一種の三角関係というか、二重の一方通行であるということであります。

 それでももはや己の想いを隠すことなく滾らせる夕顔の姿には、これまで本作の中で描かれてきた数々のキャラクターの中でも、ある意味最も生々しいパワーを感じさせられる――というより、ただただ圧倒される、というほかありません。
 もはや行き着くところに行っても止まりそうにない――そしてその果てに待つのは、破滅しかない――と思われた夕霧。そんなを止めることができる人物はといえば、言うまでもないでしょう。

 己の想いと己の所業との板挟みになった果てに、冥土の吉原に迷い込んだ夕顔と、顔をつきあわせることとなったあお。
 そこで彼女が語る言葉は、ある意味その場しのぎなのかもしれません。しかし人生はその場その場の連続。そしてそれが長い人生に張りを与えるのであれば、それは一つの救いと言うべきでしょう。

 結局何一つ変わらない、変えられない、それでも――このエピソードのラストで夕顔が見せる粋で艶やかな姿には、重荷を背負いながら、それでも立つ人間の張りが感じられます。
 吉原を舞台とする本作において、最も現世に近かったエピソード――異色作であると同時に、本作らしい物語であったと感じます。


 この巻にはその他に単発エピソードとして、冥土の吉原の盆祭りを舞台に、亡き祖父を探して現世から迷い込んでしまった幼子を描く「誰そ彼縁日」を収録。
 幼子の微笑ましいわがままぶりや、祖父を慕う姿だけでなく、盆祭りに駆り出される廓番衆の姿が何とも微笑ましい、ホッと一息つけるエピソードであります。

 そして巻末には長期連載名物というべきか、登場キャラクターの人気投票結果を掲載。第一位はなんと――なのですが、記念漫画で描かれる姿が何ともはや……
 そういえば以前もこんな姿が描かれたことがあったような気もしますが、いやはや普段から物語の緊迫感を和らげてくれる存在だけに、ここでもしっかりその役目を果たしているというべきなのかもしれません。


『あおのたつき』第12巻(安達智 マンガボックス) Amazon

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2023.11.30

冲方丁『剣樹抄』 光圀が追う邪悪 少年が踏み込む地獄

 先日、続編が文庫化された連作時代活劇の第一作であります。江戸時代前期、子供たちの隠密集団・拾人衆と共に、増加する火付け盗賊の取り締まりに奔走する水戸光圀と、彼と奇しき因縁で結ばれた無宿の少年・六維了助の戦いを、様々な歴史上の有名人を配して描く物語であります。

 幼い頃、旗本奴に父を殺害され、以来、同じ無宿の人々に育てられてきた了助。しかし明暦の大火で育ての親を失い、ただ一人辛うじて生き延びた彼は、深川で芥運びなどをして命を繋ぐことになります。

 一方、突然に父から火付けを働く浪人一味を追うように命じられた若き水戸光圀は、幕府が密かに育成してきた、子どもばかりの隠密組織・拾人衆の存在を知るのでした。
 それぞれ特技を持つ拾人衆の力を活かし、先手組の徒頭・中山勘解由とともに、正雪絵図なる精巧な絵図面を持つ一味を追う光圀。しかし、その一人を密かに追う光圀たちの前に現れた了助は、野球のバッティングめいた異形の剣術で、浪人に襲いかかります。

 我流で木剣の修行を重ね、育ての親や皆の仇として、火付け一味を狙っていた了助。その凄まじい技と執念に目を付けた光圀は、拾人衆に了助を誘います。
 人の世話になることに反発と恐れを感じながらも、相次ぐ事件の中で様々な人と触れあい、成長していく了助。そんな了助と絆を育む光圀ですが、彼には絶対了助には明かせない過去が……


 江戸市中はおろか江戸城天守閣までが消失し、死傷者も甚大な数に及んだ江戸時代最大の大火にして、その後の江戸の都市計画にも大きな影響を与えた明暦の大火。
 出火の原因は、若くして死んだ娘の念が籠もった振袖だという怪談めいたものから、かの由井正雪の残党によるものだという説まで様々ですが、本作はその後者を踏まえつつ、物語を展開していくことになります。

 江戸においては様々な理由で「効率のいい」火付け盗賊。本作ではこれを取り締まるために、まさに後の火付盗賊改である火付改加役の中山勘解由とともに、まだ藩主を継ぐ前の水戸光圀が奔走する――という時点で、作者の名前を見ればオッと思う方も多いでしょう。
 言うまでもなく作者の冲方丁の歴史ものの代表作は『光圀伝』――本作はそのスピンオフと明示されているわけではありませんが、光圀・泰姫・左近・頼房といった面々が登場、そして『光圀伝』では武蔵との出会いとなったあの事件が、物語の背骨として位置付けられています。

 しかし本作は、光圀の――武士の視点(もっとも光圀は、それまでの武士からは些か異なる立場にはあるのですが)からのみ描かれるわけではありません。もう一人の主人公として、無宿者として生きてきた了助を配置することで、変わりゆく江戸という街を、変わりゆく武士という存在を、重層的に描くことに成功しているといえるでしょう。


 そしてまた本作で魅力的なのは、次々と登場する実在の人物たちであります。先に挙げた中山勘解由のほか、勝山、水野十郎左衛門、幡随院長兵衛、明石志賀之助、鎌田又八、龍造寺伯庵等々――これら同時代の人々が、短編連作スタイルの物語の中で、様々な形で火付け盗賊を巡る騒動に絡んでいく姿には、伝奇時代劇ならではの楽しさが溢れています。
(その中でも旗本奴と町奴の争いが意外な方向に展開していく「丹前風呂」は出色)

 そしてその一方で、架空の人物もまた、実在の人物に負けないほどの重みを持ちます。その中でも特に強烈な印象を残すのは、作品通しての光圀と了助の宿敵となる、錦氷ノ介であります。
 総髪の美形で、隻腕に鎌を取り付けた剣鬼、いや剣狂というべき氷ノ介。作品の随所で火付け盗賊の一味として邪悪な姿を見せる彼の誕生の陰には、実在の大名・稲葉紀通が起こした稲葉騒動がありました。そのある意味作者らしい凄まじい地獄の描写は、憎むべき邪悪でありながらも、彼もまた犠牲者の一人という、何ともやりきれないものを感じさせるのです。


 そして人間が生み出した地獄は、一人、氷ノ介のみが見るものではありません。名前も顔もわからぬ仇を討つために、ひたすら剣を練る了助もまた、その心の中に一つの地獄を持っている、いや、持っているといわぬまでも地獄に近づいているのですから。

 本作のタイトルにある「剣樹」――それは了助が身を置く東海寺で見た、刃の枝葉を持つ樹に貫かれる地獄絵図に由来します。
 了助が父の仇を知った時に、恐れつつも魅せられたその地獄に彼は踏み込んでしまうのか? 本作の中では描かれなかったその時に、了助は、そして光圀は何を想い、どのような道を行くのか――それが描かれる続編も、近日中にご紹介いたします。


『剣樹抄』(冲方丁 文春文庫) Amazon

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2023.11.22

青木朋『天上恋歌 金の皇女と火の薬師』第8巻 三人の別れ、歴史の分岐点!?

 意外な表紙キャラに驚かされるこの第八巻では、この数巻並行して描かれてきた、アイラと康王と白凜之の三人の想いの行方と、金・宋・遼の戦いの行方とが、いよいよ一つの区切りを迎えることになります。激闘の末に陥落した燕京を巡る金と宋の対立は、三人に思わぬ影響を与えることに……

 父・金皇帝アグダが病に倒れたために、祖母が倒れたと称して急遽帰国することになったアイラと、「祖母」の見舞いのために金を訪れることになった康王、そして童貫に睨まれたところを康王の通訳として同行することになった白凜之。
 金でも複雑に交錯する三人の想いですが、金に対して燕京を攻めあぐねる宋からの応援要請があったことから、三人は金の本営に同行することになります。

 過去の因縁を背負い激突する二太子・オリブと遼の英雄・ユドゥの激闘はオリブの勝利に終わり、ついに陥落する燕京。しかしそこに現れた童貫は、燕京の引き渡しを求め……


 と、自分は散々敗れて助けてもらったくせに、戦いが終わってからやって来てデカい顔をするという、最低ムーブをカマしてきた童貫。ある意味期待通りと言いますか、やっぱり童貫はこうでなくちゃ! と思ってしまうのですが、まだまだ童貫の最低っぷりには底があります。
 自分の意に沿わぬからと排除した白凜之が欠けたために新兵器・地龍が文字通り不発に終わったことを棚に上げ、敗戦の責任を工兵隊に押し付ける。工兵隊を救いたければ自分に従えと白凜之に迫る――いやもう、漫画みたいな(漫画です)悪役ぶりですが、童貫ならこれくらいやる、と納得させられます。

 もちろん、この窮地にアイラが黙っているはずはないのですが――ここでアイラが白凜之の窮地を知り、そして康王に助けを求める、これまでの展開を踏まえたシチュエーションが展開されるのは、見事というほかありません。
 そしてアイラの願いを受けて、政治向きのことから背を向けてきた康王が、童貫と対峙する(もちろんそれまでの仮面を有効活用するのですが、それもまた実に「らしい」)姿も、彼の――そして彼とアイラたちの関係性の変化を感じさせて、胸が熱くなるものがあります。


 しかしこの巻で真にグッとくるのはその後であります。宋に帰る白凜之に、(己の気持ち的な意味で)別れを告げたアイラ。そして自分も金に帰るアイラは、康王に別れを告げるのですが、ここで康王は――!
 これまでのドラマを思えば、ついにここまで来たか、と感慨深くなるこの場面、ひたすら初々しい二人の姿が実に微笑ましいのですが――しかし史実を思えば、微笑ましさばかりを感じてはいられません。

 あるいは、ここが歴史の分岐点だったのかもしれないと思うと、たまらなく切なくなる――というのは先を考えすぎですが、これまで以上に、この先の展開を早く読みたいような読みたくないような気分にもなるのです。


『天上恋歌 金の皇女と火の薬師』第8巻(青木朋 秋田書店ボニータコミックス) Amazon


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2023.11.06

石川賢&夢枕獏『アーモンサーガ 月の御子』 古代印度の英雄、平安京に現る!?

 夢枕獏の初期の名作・印度怪鬼譚シリーズを、あの石川賢が漫画化した作品であります。古代インドで、象にも勝る怪力を誇る豪傑アーモンと、おつきの老仙人ヴァシッタが、様々な怪異に挑む原作でしたが――本作の舞台は平安時代の日本。らしいといえばらいしですが一体何が!?

 月がやけに大きく見える晩、魔物が出るという平安京の羅生門に突如現れた奇怪な魔物と、それと激しい戦いを繰り広げる異国の戦士・アーモンとその従者・ヴァシッタ。夜毎人を惑わすという盗賊バッダカの晒し首を肴に酒盛りをしようとしたアーモンは、魔物と化したバッダカに襲われ戦いを繰り広げていたところ、時空を飛び越えて平安京に現れてしまったのであります。

 倒されたものの、月の王の意思に沿い、アーモンをこの世界に連れてきたと満足げに散ったバッダカ。はたしてその直後、アーモンやその場に集まった盗賊たちに、奇怪な傀儡たちが襲いかかります。激闘の末に傀儡師の正体を見破り、これを倒したアーモンは、傀儡師が「かぐや姫」なる存在に仕えると知ったアーモン主従は、月を追って旅立ちます。

 途中、羅生門で共に戦った元罪人・阿座土と再会し、旅を共にすることとなった主従。阿座土の故郷で、恐るべき魔物の襲撃を受けた一行ですが、そこで阿座土は半人半獣の意外な姿を現します。
 実はかつて桃太郎と共に鬼ヶ島の鬼を滅ぼした供のうち、犬一族の末裔だった阿座土。しかし犬の一族は桃太郎に逆らい、皆殺しにあったのです。

 そして今は妖天童子と名乗る桃太郎の元にかぐや姫が現れると知ったアーモンたちは、桃太郎の下に向かうことに……


 『闇狩り師』(なんと「小学四年生」連載)と並び、石川賢による夢枕獏作品の漫画化である本作。しかしここまで紹介してきたように、その内容は、原作からは大きく飛躍したものとなっています。
 そもそも原作の舞台は古代(おそらくはブッダのいた頃)のインド、平安時代の日本とは単純に考えても千年は離れています。それが(作中の理由ではなく)何故――と考えてももちろんわからないのですが、しかし、妙に違和感がないのもまた事実であります。
(石川賢も「羅生門」「新羅生門」「桃太郎地獄変」と描いていますし……)

 特に筋骨隆々で、いかなる魔物にも己の身一つで挑むアーモンの肉弾アクションは石川賢の自家薬籠中のもの。その中でも桃太郎戦は、不死身の相手にも負けない、いや不死身だからこそ容赦がしない攻撃といい、身も蓋も容赦もないフィニッシュといい、本作のクライマックスの一つを見事に飾っています。
 もちろん、石川賢ならではの、魑魅魍魎としか評しようのない魔物たち(空間に満ちた魔物というか、魔物の満ちた空間というか)の迫力は、言うまでもありません。

 言ってみれば、原作の設定から感じた(というか何というか)違和感を、画のパワーで圧倒してしまった――そんな作品であります。


 しかし面白いのは、これだけとんでもないことをやっているようで、意外に原作を拾っていることであります。
 冒頭でアーモン主従が平安時代に現れるきっかけとなったバッダカの首見物のくだりは原作の「人の首の鬼になりたる」に忠実ですし、傀儡の襲撃は「傀儡師」のエッセンスが、そして阿座土の故郷での悲劇は「夜叉の女の闇に哭きたる」をほぼそのまま取り入れ――と、驚くほど原作由来の描写、展開を取り入れているのです。
(そのほか、阿座土ら中盤に登場する獣人たちも、原作の要素かと思います)

 もっとも、その割にアーモンは、原作よりもだいぶ紳士寄りというか、荒っぽさが薄れた(より王子寄りの?)キャラ造形なのが、ちょっと不思議ではありますが……


 しかし本作の最もユニークな点は、ラストに明かされる、かぐや姫がアーモンを狙う理由でしょう。実は×××だったかぐや姫(という設定も色々な意味で驚きますが)が、わざわざ平安時代の日本にまでアーモンを引き寄せた、その理由は……
 正直なところ、伝奇ものやファンタジーものでは結構あるパターンなのですが、おそらくは石川賢の作品ではかなり珍しいもの。しかもこれは原作由来ではないというのに、一番驚かされました。

 原作を踏まえつつもそれを飛び越え、全く新しいものを描く――口にすれば簡単ですが、実際には難しいそれを達成してみせた本作。必読とはいいませんが、今ではeBookJapanの電子書籍で気軽に読めるので、興味をお持ちの方はぜひ。


『アーモンサーガ 月の御子』(石川賢&夢枕獏 イーブックイニシアティブジャパン) eBookJapan


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2023.11.01

東曜太郎『カトリと霧の国の遺産』 少女の見えない将来と幻の街の魔手

 児童書にして優れた伝奇ホラーだった『カトリと眠れる石の街』の待望の続編であります。エディンバラの博物館で働くことになったカトリの周辺で起きる連続失踪事件。それは幻の街にまつわる古物収集家のコレクションの展示に深く関わっていました。そして謎の魔手はカトリにまで……

 エディンバラで流行した謎の眠り病事件解決に奔走する中、博物館に興味を抱き、そこで働くという道を選んだカトリ。しかしそこで待っていたのは期待外れの退屈な仕事――しかも正式に学問を修めたわけでない少女であるカトリにとって、先行きは厳しく感じられるばかりであります。

 そんな中、奇矯な行動で知られ、つい先頃亡くなったアマチュア収集家・バージェス氏のコレクションが博物館に寄贈されます。呪われていると噂されるそのコレクションは、全てビザンツ帝国の「ネブラ」なる街にまつわるもの。しかし問題は、博物館の誰もネブラなる街のことを知らなかったことですが――しかしコレクションは特別展で展示されることになります。

 しかしそこで奇妙な事件が続発することになります。博物館を訪れた客が、次々と失踪――しかもその客は、いずれも件のコレクションを見ていたと思しいのです。
 展示室で奇妙な霧に満ちた空間に迷い込むという経験をしたカトリは、コレクションに秘密があると睨むのですが――展示物の一つである謎の街について記された年代記を調べる中で、ある発見をすることになります。

 そしてそれをきっかけに、己の身にも危機が迫っていることを察知したカトリ。以前の事件を共に解決したリズに状況を伝え、バージェス邸の探索に向かうカトリですが、時既に遅く……


 講談社児童文学新人賞の佳作を受賞し、一般読者からも好評を得た『カトリと眠れる石の街』。19世紀のエディンバラを舞台に、金物屋の娘で才気煥発な少女・カトリの活躍を、濃厚な伝奇ホラー味で描くその内容に驚かされ、続編を心待ちにしていましたが――本作はその期待に応える作品でした。

 上で紹介したように、幻の街を巡ってミステリアスに、そして不気味な――特に失踪者の「法則」が明らかになったシーンにはゾッとさせられました――ムードたっぷりに進む物語は、前作同様、既存の神話伝説に拠ることなく(というより本作の場合……)、独自の怪奇と謎の世界を描いていきます。
 もちろん、その恐怖を前にして、カトリが黙っているはずもありません。前作で手を携えて石の街の恐怖に立ち向かった上流階級の、しかしかなりアグレッシブな(作中で「武闘派」と呼ばれたのは納得!)少女・リズとともに、果敢にそしてロジカルに謎に挑む姿には、胸躍るものがあります。


 しかし本作のカトリは、勇猛果敢なだけではありません。前作のラストで自らが進むべき道として、家業ではなく博物館での研究を選んだ彼女ですが、選んだ道は前途多難。往くも険しく、戻る道もない――性格的にいまさら周囲に弱音も吐けず、五里霧中の自分の未来に対して、迷いと恐れを抱く姿が描かれるのです。

 そしてそれが、本作の内容と密接に結びついていくことになります。その様には、児童文学――子供は子供なりの過去を背負いつつ、広大な未来に向かって成長していく子供たちを主人公とする物語――において、主人公が対峙すべきもの(の一つ)は、将来の先行きが見えないことに対する不安であるのだな、と今更ながらに再確認させられます。


 もちろん、カトリは不安に沈むだけではありません。かなり危ないところまで行ったものの、再起した彼女が理解した、あるべき生き方――それは彼女たちよりもずいぶん長く生きてきた、そしてそれでもまだまだ不安を抱える自分のような読者にとっても、ごく自然に納得できる、そして心に光が灯ったような想いになるものです。
 そしてそれが物語と有機的に結びつくことによって、説教臭さとは無縁のものとして感じられるのもまた、素晴らしいところであります。(多くは語れませんが、完全に円満な解決ではないのに逆に納得です)

 そして一つの怪異は解決したものの、思わぬ人物の思わぬ行動を示唆して終わる本作。どうやらまだまだカトリの冒険を楽しみにしてよさそうです。


 ちなみに本作ではカトリとリズに重要な事実を語る人物が登場するのですが――名前が変えられているので当人ではないかもしれませんが、なるほどエディンバラに居た人物だった! と快哉を挙げたくなった次第です。


『カトリと霧の国の遺産』(東曜太郎 講談社) Amazon

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2023.10.21

乾緑郎『ねなしぐさ 平賀源内の殺人』 その殺人と最期から描く源内伝

 天下の奇人・才人として知られた平賀源内――その彼が人を殺して入牢し、そこで亡くなったというのは、それなりに知られた史実でしょう。本作はその源内の謎めいた最期を中核に、彼の後半生にスポットを当てた作品であります。はたして平賀源内とは何者であったのか?

 安永八年十一月二十一日、旧知の友人である平賀源内が人を殺したと知らされて駆けつけた杉田玄白。そこで彼が見たものは、弟子の死体の前で脇差を手に呆然とする源内の姿でした。
 玄白に何があったかを問われても答えず、自ら自刃しようとすらした(しかし痛がって失敗)源内ですが、その後、前の晩に彼を訪ねていた勘定奉行の用人の死体も近くで発見され、いよいよ立場は悪くなっていきます。

 そのまま殺人の咎で牢屋敷に入れられた源内を何とか救おうとする玄白たちですが、しかしほどなくして源内は牢内で病死したと知らされ、死体すら下げ渡されることなく源内はこの世から消え去るのでした。
 しかし、あまりに不可解な一連の出来事の陰に、玄白は何者かの影を感じ取って……

 というあらすじ(そしてタイトル)を見れば、なるほど源内の死の真相を巡るミステリなのだな、と思わされる本作。しかし本作は、巻頭からそれに留まらない複雑な姿を示すことになります。

 何しろこの源内の殺人に先立って冒頭で描かれるのは、その五年後の佐野善左衛門による田沼意知殺し。次いで描かれるのは、同じく八年後、中止された蝦夷地探検から帰還する最上徳内と彼を見送る老人の姿、そしてその次は源内の死の三年前、田沼意次とその愛妾の前でエレキテルを披露する源内の姿……
 と、時系列をシャッフルして、様々な時と場所を舞台に――時に源内と無関係に見えるものも含めて――本作の物語が紡がれていくのであります。


 そもそも平賀源内は、何を手がけ、何を業績として残した人物であったか? 源内という人物を考える際に頭に浮かぶこの疑問は、極めて基本的であると同時に、本質的である問いかけといえます。

 本業は本草学者でありつつも、同じ作者が後に発表した『戯場國の怪人』(それなりに本作と源内のキャラが重なっているのがお面白い)で描かれたように、『根南志具佐』『風流志道軒伝』といった戯作を著し、医学・蘭学の知識もあり、鉱山開発にも活躍――と、実に様々な分野で活躍した源内。

 しかしその業績、後世に残るような業績はと問われれば、悩んでしまうというのもまた事実であります。様々な分野を手がけ、そのそれぞれで人並み以上の成果を上げつつも、しかしこれ、というものがない――そんな源内の姿には、作中でも触れられるように、「器用貧乏」という言葉すら浮かびます。

 いや、源内といえばエレキテルでは、という方も多いとは思いますが――本作におけるエレキテルにまつわる描写を見れば、そのイメージは一変するでしょう。後世の人々にとっては源内の才知の象徴であるそれが、源内にとっては何の象徴であったのか――それをひどく痛切に本作は描くのですから。


 先に述べたように、時系列をシャッフルして、源内の後半生を――その死の前後を描く本作。作者らしく、源内の殺人の真相とその最期については、一種伝奇的な味付けもありますが、むしろ本作はそれを終点にして起点として描く平賀源内伝――一種の人物伝、歴史小説という色彩が強くあります。

 そこに登場するのは、杉田玄白や工藤平内といった彼の友人や、田沼意次のような権力者、あるいは丸山遊郭の遊女・志乃まで虚実様々な人々であり、こうした人々とのかかわり合いの中で、源内の姿が徐々に浮かび上がっていく――本作はそんな作品であります。

 正直なところ、この人物像自体がそこまで意外ではないこと、また謎解き自体もそれなりに予想がつくものであったりという点はあります。しかしそれでも、本作で描かれる根無し草のような源内の生き様と、それに対してある人物が結末で語る想いは、不思議な魅力と暖かみを残してくれるのです。


『ねなしぐさ 平賀源内の殺人』(乾緑郎 宝島社文庫) Amazon

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乾緑郎『戯場國の怪人』 史実と虚構、この世とあの世を股にかけたスーパー伝奇

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2023.10.04

乾緑郎『戯場國の怪人』 史実と虚構、この世とあの世を股にかけたスーパー伝奇

 ミステリと並行して独自の時代伝奇小説を描いてきた作者によるオペラ座の怪人オマージュ――に留まらない、凄まじい奇想に満ち満ちた物語であります。女形の溺死の謎を追ううち、市村座に潜む謎の怪人と対峙することになる平賀源内や深井志道軒。はたして一連の怪事の背後に潜むのは……

(以下、物語の趣向に触れますのでご留意ください)
 宝暦十三年の夏、舟遊びをしていた市村座の役者たちの一人・荻野八重桐が謎めいた死を遂げた事件を、作品にするよう依頼された戯作者修行中の平賀源内。江戸にその人ありと知られた講釈師・深井志道軒を頼った源内は、志道軒とその娘のお廉と共に、八重桐を姉と慕う名女形・瀬川菊之丞を訪ねることになります。

 菊之丞から、舟遊びの日に謎めいた烏帽子姿の貴人に口説かれたと聞かされた三人。さらに源内たちは、その貴人とおぼしき謎の人物が市村座の五番桟敷を常に押さえ、その桟敷に入った者は様々な怪異に襲われると知ることになります。
 そこで菊之丞の身辺警護役を務めることになったお廉は、菊之丞の床山を務める髪結いの青年・仙吉と共に市村座に張り込むのですが――菊之丞を巡るある怪異の噂を耳にするのでした。

 そんな中、五番桟敷に通された広島藩の前藩主とその供が怪異に襲われる事件が発生、供の一人・稲生武太夫がこれを撃退するも、武太夫は市村座で容易ならざる事態が起きていることを知ることになります。
 かくて武太夫を仲間に加え、怪異に挑むお廉・源内・仙吉の面々。深夜の市村座である人物を待ち伏せるお廉たちは、ついに怪異の正体を目の当たりにすることになります。

 はたして怪異は何故市村座に出没するのか。菊之丞に迫る烏帽子姿の貴人とは何者なのか。そして志道軒が語る、芝居狂いが落ちる地獄・戯場國とは。千年の因縁も絡み、戯場國で奇怪な舞台の幕が上がることに……


 オペラ座の地下に潜み、美しき歌姫に懸想する仮面の怪人を描いた、ガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』。タイトルや、美しき女形に懸想し、地下や桟敷席(それが五番なのにはニヤリ)に出没する怪人をみれば、本作がその時代劇オマージュであることは間違いないでしょう。
 しかし本作は物語が進むにつれ、そこから大きく離れた奇怪な世界観を見せることになるのです。

 その世界観の中心となるのが、タイトルにある「戯場國」なる世界であります。博覧強記の志道軒が語るには、博打狂いや傾城狂いがそれぞれ落ちる地獄があるように、芝居狂いが落ちる地獄――それが戯場國。そこでは今は存在しない山村座に、生島新五郎や二代目市川團十郎といった亡き名優たちが集い、芝居好きの亡者たちが観客となって、いつ果てるとも知れぬ芝居が上演されているというのです。

 ここまで来ればわかるように、本作は伝奇も伝奇、スーパー伝奇と言いたくなるような、史実と虚構、この世とあの世を股にかけて繰り広げられる物語であります。
 登場人物も上で触れたように多士済々ですが(個人的には稲生武太夫が登場するのがもうたまりません)、題材となっているのは『根南志具佐』『風流志道軒伝』といった源内の戯作、さらに初代團十郎刺殺事件や江島生島事件といった芝居にまつわる実際の事件まで、多岐に渡ります。

 そしてさらにその物語の中心に潜む怪人の正体こそはなんと――と、さすがにこれは伏せますが、いやはや、一体何をどうすればこのような物語が思いつくのかと、天を仰ぐしかありません。
 もとより作者の時代伝奇は、いかにも「らしい」題材を用いつつも、やがてそこから遙かに飛翔して余人には真似の出来ぬ世界を描いてきました。本作はその最新の成果なのであります。


 虚実どころか彼岸と此岸、更には現在と過去が複雑に入り乱れるだけに、物語が入り組み、それぞれの登場人物に感情移入をしにくいきらいはありますが――しかしそれでもなお、本作で現実と舞台の上が絡み合い溶け合った末に生まれる、どこか解放感に満ちた世界は、不思議な魅力的に満ちていることは間違いありません。

 さらにいえば、実はオマージュ元では比重が小さかったように感じられる、舞台の持つ魔力というものについて、非常に自覚的である点もまた、本作ならではの魅力というべきではないかと感じる次第です。


『戯場國の怪人』(乾緑郎 新潮社) Amazon

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2023.09.26

谷津矢車ほか『どうした、家康』(その二)

 家康の生涯を超短編で綴ったアンソロジーの紹介の後編であります。

「鯉」(谷津矢車)
 岡崎城で飼われていた、信長下賜の鯉を食べた咎で捕らえられた鈴木久三郎。どうやら諫言のためらしいと気付いた家康ですが、許された久三郎は不遜な言葉を残すのでした。
 数年後、三方原の戦いで絶体絶命の窮地に陥った家康の前に現れた久三郎が取った行動は……

 三河武士といえば、家康への忠誠で団結していた印象がありますが、しかしそれが必ずしも事実ではないのは、一向一揆の際の状況を見ればわかります。本作はそんな家康の難しい立ち位置を、一人の三河武士との関係性から浮き彫りにするという視点の妙に唸らされます。

 そしてクライマックス、家康の生涯でも最大の危機といえる三方原で彼を救ったのは――単純に感動的な、と表現して終わらせるわけにはいかないその真実を、しかし家康の成長を以て昇華させた上にに、「鯉」の意味が絡み合う結末もまた、巧みと評するしかありません。


「親なりし」(上田秀人)
 大坂冬の陣でついに豊臣家を滅ぼした家康。大坂城を包む炎を目の当たりにして、「愚か者が」と呟いた家康の真意は……

 大坂の陣終結直後に、家康が徳川頼宣に語って聞かせるという趣向の本作は、老練な年長者が未熟な後進に説明してやる(説教する)という、作者の作品ではお馴染みのスタイルで描かれます。
 豊臣家だけでなく、秀吉を、さらには信長を愚か者と言い切る家康の真意は奈辺にあるのか。そこで描かれるのは、作者の作品に通底する「継承」という概念なのですが――そこに含まれる家康の悔恨を知った上でタイトルを見れば、なるほどと感じさせられます。

 舞台となる時系列順に作品が配置された本書の中では中頃に収録されているにもかかわらず、大坂の陣が描かれているのを不思議に思いましたが、この家康の想いが何に対するものであったかを知れば納得です。


「賭けの行方 神君伊賀越え」(永井紗耶子)
 茶屋四郎次郎に本能寺の変の発生を知らされ、一時は死を考えた家康。しかし四郎次郎の言葉に思いとどまった家康は、決死の帰還を試みるのですが……

 本能寺の変の直後、堺にいた家康が領国に帰還するために必死の思いで敢行した伊賀越え。家康の生涯でも有数の危機を、その立役者の一人である茶屋四郎次郎を通じて描いた作品です。
 内容的にはシンプルではありますが、面白いのは、ここであっさりと切腹しようかと考え、そしてそれを思いとどまる家康の心の動きでしょう。家康がここで死のうとして周囲に諫められたのは史実のようですが、本作の視点はユニークかつ納得させられるものがあります。

 もう一人の立役者である服部半蔵が語る、伊賀が危険な理由もまた納得の視点で、人間心理に向ける視線が印象に残る作品です。


「燃える城」(稲田幸久)
 大坂冬の陣で豊臣家を追いつめ、勝利を目前とした家康。大久保彦左衛門と共に本陣で悠然と構えていた家康ですが、そこに真田幸村が迫ります。追い詰められた家康がそこで見たものは……

 戦国最後の戦いというべき大坂の陣も終結目前となり、ある種の余裕ある家康を描く本作。戦国の世の出来事を物語にまとめたいという彦左衛門が、「三方原には参戦していないので、馬印を倒すほど慌てふためいて逃げ帰ったのは見ていない」と語るというフラグ以外の何ものでもないものを立てておいての幸村襲来はちょっと笑ってしまいましたが、物語はそこからが本番であります。

 そこで幸村を通じて家康が見たものは、対峙したものはなんだったのか。ちょっと格好良すぎる気もしますが、本書の掉尾を飾るに相応しい結末であります。


 というわけで、超短編で家康の生涯を描いた本書ですが、一作品毎の分量の少なさから、作品によって色々と差が出ていたのは仕方のないところでしょうか。
 何はともあれ、個性的な歴史時代小説アンソロジーを手掛けさせたら右に出るものがいない、講談社ならではの一冊であることは間違いありません。


『どうした、家康』(講談社文庫) Amazon

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2023.09.25

矢野隆ほか『どうした、家康』(その一)

 今年の大河ドラマもそろそろクライマックスですが、意外と少なめだった印象のある今年の家康関連書籍。そんな中でも、そのタイトルで一際目を引いたアンソロジーであります。家康の生涯を豪華執筆陣が超短編で描くユニークな企画の本書の全十三編のうち、印象に残った作品をご紹介します。

「囚われ童とうつけ者」(矢野隆)
 父の命じるままに今川家の人質になった――はずが、配下の裏切りで織田家に送られた幼い竹千代。現状を受け容れるしかない彼の前に、ある日奇妙な青年が現れて……

 本書の劈頭を飾るのは、まだ六歳の家康と、うつけ者――信長の出会いを描く物語。理不尽な状況に翻弄されるばかりで忍耐するしかない家康と、テンションが高くエキセントリックな物言いの信長というのは、ある意味定番のキャラクター像ではあります。
 しかし家康にあえて残酷な現実をぶつけてくる信長と、それによって初めて本当の顔を見せる家康が最後に結ぶ絆は実に熱く、一貫して戦う男を描いてきた作者ならではの物語と感じます。


「生さぬ仲」(砂原浩太朗)
 元康の生母であるお大を妻に迎えた久松弥九郎のもとを訪ねてきた元康。しかし時は今川と織田の決戦の直前、織田方である俊勝は、母子の再会の後、元康を抹殺することを決意するのですが……

 家康を生んだ後に松平広忠に離縁され、久松俊勝(弥九郎)に嫁いだお大。今川と織田に挟まれ、それぞれの顔を伺う父や夫に翻弄されたその経歴は、後の天下人の母とは思えぬ過酷さを感じさせます。

 そして本作はその夫の弥九郎が主人公という、意表を突いた設定の作品。色々な意味で何とも微妙な立ち位置の弥九郎ですが、決戦の直前にわざわざ自分の懐に飛び込んできた元康を見逃すはずもなく――と、ここからの展開はある意味予想通りではありますが、その結末に対して抱いた弥九郎の感慨が、ほろ苦くもどこか爽やかでもあります。

 個人的には本書でもベストの作品でした。


「三河より起こる」(吉森大祐)
 三河の一向一揆で家中が真っ二つに割れる中、家康の正室・瀬名が一向宗側の茶会に顔を出したと聞かされた石川与七郎(数正)。瀬名を問いただした与七郎が聞かされた彼女の思いは……

 家康の正室でありながら、後に悲劇的な運命を辿ることとなった瀬名。これまで悪妻として描かれることも多かった彼女を、本作はいささか異なる角度から切り取ってみせます。
 今川と徳川の間に挟まれた自分の立場を弁えないのでなく、ただ翻弄されるでもない――十二分に己の立場を理解し、その上で必死に生きようとする本作の彼女の姿は、彼女が語る(その時点の)家康像ともども、大いに納得がいくものであります。

 その一方で、彼女がぬけぬけと語る、向こう側につかなかった理由もすっとぼけていて(もちろんこれも一つの象徴なのですが)、彼女の未来を予感させる結末の一ひねりも含めて、一筋縄ではいかない物語であります。


「徳川改姓始末記」(井原忠政)
 ある日、関白・近衛前久から呼び出された神祇大副の吉田兼右。三河守への叙爵を望む家康から働きかけを受けたにもかかわらず、太政官から「先例がない」と拒絶された家康のため、兼右は賄の分け前目当てに先例を調べるのですが……

 いま徳川家と三河武士を書かせたら最も旬な作家の作品は、意外にも京の公家の世界を舞台とした物語。源氏であるはずの家康が、一時期藤原氏を公称していた謎(?)から始まり、公家たちの複雑怪奇な世界が描かれることになります。

 箔をつけたい戦国大名と、金がない貧乏公家の組み合わせだけでも面白いところに、思わぬ出来事が家康の叙爵を妨げていたという展開もユニークなのですが、関係者にとっては面白いではすまされません。家康からの賄を手にするために、兼右たちが取った手段とは――いやはや、いつの時代もこうした世界は変わらないものです。


 次回に続きます。


『どうした、家康』(講談社文庫) Amazon

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2023.09.24

東直輝『警視庁草紙 風太郎明治劇場』第13巻

 ついに漫画版『警視庁草紙』もこの巻で完結の時を迎えます。これまで明治史の裏側で丁々発止の戦いを繰り広げてきた兵四郎たちと警視庁の戦いは、如何なる結末を迎えるのか――明治史の、日本史の一大転機を背景に描く最終章「泣く子も黙る抜刀隊」であります。

 下野した西郷がついに鹿児島で決起し、お馴染みの面々が所属する警視庁の警視隊も抜刀隊と改名され、出撃を待つ頃――築地の海軍兵学校で行われる、からくり儀右衛門の軽気球の飛行実験を見物に来ていた兵四郎とお蝶たち。
 しかしそこで警察に正体が露見してしまった兵四郎は、警官たちに取り囲まれるのですが――警官の手がお蝶にまで及んだことに激昂した彼は、瞬く間に二人の警官を斬り捨ててしまうのでした。

 警官まで殺してしまい、絶体絶命の窮地に陥った兵四郎を救ったのは、軽気球を奪ったお蝶。軽気球に飛び乗ってその場は逃れた兵四郎とお蝶ですが、果たして二人の行く先は……


 と、急転直下、大変な事態になってしまったこのエピソード。最終章だから当たり前というべきかもしれませんが、原作は全十八章であったところが、この漫画版は第七章まで終わったその次にこの最終章が来たのですから、慌ただしく感じられるのも無理もないかもしれません。
 つまりは原作の半分までいかずに完結を迎えてしまったということで(「残月剣士伝」など通常の倍以上の分量であったことを考えれば)、この辺りには原作ファンとしては言いたいことは色々ある、というのが正直なところではあります。

 特に各エピソードが緩やかに繋がり、やがて大きな物語の形を示す本作のようなスタイルにおいては、後半のエピソードがごっそりなかったことで盛り上がりに欠けるのは否めません。
 また、最終章での隅のご隠居と川路大警視の対決シーンで、原作にあった国家論の部分がカットされている(これは以前のエピソードでも同様なことがありましたが)のも、原作者の国家観・明治維新を描いていないという点では物足りないところではあります。


 そういう意味では残念ではあったのですが――しかし、兵四郎個人の物語としてみると、かなり綺麗にまとまっているのもまた事実であります。
 特に「残月剣士伝」辺りから明確になった、死に損ねてしまった侍としての兵四郎(そのことを考えると、「残月剣士伝」の長さも実はそれなりに納得できます)が、ここでついに――という結末は、この構成だからこそ、という印象があります。

 また原作との比較でいえば、原作では兵四郎が自分の考えを明確に台詞でお蝶に(すなわち読者に)説明しているのに対し、ギリギリのところまで伏せているというのは、こちらの方が適切という印象すらあります。また、警視庁側の主人公というべき藤田が、兵四郎を斬首と思いきや――という展開も、結末をより印象的にするアレンジといえるでしょう。
(元々原作の最終章は、作者が地の文で自らツッコむほどご都合主義の部分があったのですが、そこが解消されているのもいい)

 さらにいえば、逃避行の最中のお蝶の姿が輝くばかりに美しく――というのはさておき、この漫画版は漫画版なりに、最も美しい着陸をしてみせたのは、間違いないと感じます。


 アレンジを加えた部分も少なくなく、時にそれが気になることもありましたが、ほとんどの場合、それがこの漫画版独自の魅力として――特に「人も獣も天地の虫」と「幻談大名小路」のラストは、原作以上に印象的でした――生きていた本作。
 なかなか難しいかもしれませんが、いつかまた、このスタッフでの山風明治ものを読んでみたいと、心から思っているところです。


『警視庁草紙 風太郎明治劇場』第13巻(東直輝&山田風太郎ほか 講談社モーニングコミックス) Amazon

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