変人学者、虫にかこつけて事件解決!? 京極夏彦『病葉草紙』(その一)
今年の夏は、京極夏彦の時代小説の新刊が三冊刊行され、ファンとしては嬉しい悲鳴が上がりましたが、その一つが本作、『前巷説百物語』に登場した本草学者・久瀬棠庵を主人公としたユニークなミステリです。若き日の棠庵が、長屋を舞台に「虫」と絡めて様々な騒動を解決していく、全八話の連作集です。
とある長屋に住む久瀬棠庵は、日がな一日、本に囲まれて暮らしている奇妙な男。いつ食事をしていつ眠っているかもわからない彼を心配して、差配役の藤介は毎日顔を出していますが、棠庵の驚異的なマイペースぶりに振り回されるばかりです。
そんな中、長屋やその周辺で奇妙な事件が起き、棠庵の耳にも届くのですが、彼は「これは――虫ですね」と言い放ち、ほとんど部屋にいながらにして解決してしまう――本作は、そんな一種の安楽椅子探偵もの的な味わいの時代ミステリです。
棠庵が解決する事件は、罪として裁くには複雑な事情があるものや、あるいは一見事件性がない出来事ばかり。それを、江戸時代の鍼灸書「針聞書」に登場する、現実には到底存在しないような――現代でもそのユーモラスな姿で一部で人気の――虫たちを引っ張り出し、何だかんだと理屈を付けつて、棠庵は「虫」の仕業として片付けてしまうのです。
そのスタイルは、簡単には解決できない厄介事を、「妖怪」の仕業として解決してきた『巷説百物語』シリーズを思わせるものがありますが――それもそのはずというべきか、もともと棠庵は『前巷説百物語』の登場人物。そちらでは又市たちの仕掛けを、その知識でもってもっともらしく説明する役割を担っていましたが、本作ではその数十年前の彼が描かれています。
そして本作のもう一つの特徴は、そのコミカルとも緩いともいうべきユーモラスな空気感です。本作で狂言回しを務める藤介は、周囲に振り回されがちな、どうにもすっきりしない人物。そんな彼が、思わぬ事件に巻き込まれたり、四角四面な棠庵の言動に振り回される姿には、落語めいたおかしみがあります。
さらに彼の父で長らく隠居して呑気に暮らす藤左衛門、長屋に住む臆病者の下っ引きの平次と異常にそそっかしい妹のお志乃など、その他の登場人物も、どこかすっとぼけた連中ばかりなのです。
その一方で、作中で描かれる事件は、結構洒落にならないものが多いのですが――それはこれから一話ずつ、紹介していきましょう。
「馬癇」
長年かけて貯めたという金で、孫娘のお初と共に棠庵の向かいの部屋で気楽に暮らす老人・善兵衛。しかしある日、部屋から出てきたお初は、善兵衛を殺してしまったと繰り返します。
部屋にあったのは確かに善兵衛の死体、状況もお初の犯行を示していましたが、棠庵はこれは殺人ではないと言い出して……
第一話ということで藤介と棠庵、平次ら登場人物の紹介を兼ねたエピソードですが、どう見ても凶器としか思えない、善兵衛の部屋に残された濡れ紙の真実を鮮やかに解き明かす棠庵は、なかなかの名探偵ぶりです。
事件の真相究明については、ある意味反則的要素があるのですが、むしろ見どころは「厭」な真相を表沙汰にせず解決してみせる、棠庵の知恵にあることは言うまでもありません。
「気積」
亭主が虫のせいでおかしくなったと藤左衛門に泣きついてきた、左官の巳之助の女房・おきん。これまで生真面目だった彼が、このところ毎日帰りが遅くなり、食事もろくにせず、自分に近付こうとしない――そんなことを訴えるおきんに手を焼く藤介は、棠庵に相談するのですが……
前話を虫の仕業として解決したと思えば、それが災いしての思わぬ騒動を描くこのエピソード。親しい人間が突然奇妙な言動を取り始める――というのは日常の謎の定番ですが、本作の真相は予想外すぎて、あっけに取られます。
その真相もさることながら、今回印象に残るのは藤左衛門の珍妙なキャラクターでしょう。すっとぼけたようにとんでもないことを言い出す彼は、今後いよいよ猛威を振るうことになります。
長くなりますので、次回に続きます(全三回)
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