2024.10.04

変人学者、虫にかこつけて事件解決!? 京極夏彦『病葉草紙』(その一)

 今年の夏は、京極夏彦の時代小説の新刊が三冊刊行され、ファンとしては嬉しい悲鳴が上がりましたが、その一つが本作、『前巷説百物語』に登場した本草学者・久瀬棠庵を主人公としたユニークなミステリです。若き日の棠庵が、長屋を舞台に「虫」と絡めて様々な騒動を解決していく、全八話の連作集です。

 とある長屋に住む久瀬棠庵は、日がな一日、本に囲まれて暮らしている奇妙な男。いつ食事をしていつ眠っているかもわからない彼を心配して、差配役の藤介は毎日顔を出していますが、棠庵の驚異的なマイペースぶりに振り回されるばかりです。
 そんな中、長屋やその周辺で奇妙な事件が起き、棠庵の耳にも届くのですが、彼は「これは――虫ですね」と言い放ち、ほとんど部屋にいながらにして解決してしまう――本作は、そんな一種の安楽椅子探偵もの的な味わいの時代ミステリです。

 棠庵が解決する事件は、罪として裁くには複雑な事情があるものや、あるいは一見事件性がない出来事ばかり。それを、江戸時代の鍼灸書「針聞書」に登場する、現実には到底存在しないような――現代でもそのユーモラスな姿で一部で人気の――虫たちを引っ張り出し、何だかんだと理屈を付けつて、棠庵は「虫」の仕業として片付けてしまうのです。

 そのスタイルは、簡単には解決できない厄介事を、「妖怪」の仕業として解決してきた『巷説百物語』シリーズを思わせるものがありますが――それもそのはずというべきか、もともと棠庵は『前巷説百物語』の登場人物。そちらでは又市たちの仕掛けを、その知識でもってもっともらしく説明する役割を担っていましたが、本作ではその数十年前の彼が描かれています。

 そして本作のもう一つの特徴は、そのコミカルとも緩いともいうべきユーモラスな空気感です。本作で狂言回しを務める藤介は、周囲に振り回されがちな、どうにもすっきりしない人物。そんな彼が、思わぬ事件に巻き込まれたり、四角四面な棠庵の言動に振り回される姿には、落語めいたおかしみがあります。
 さらに彼の父で長らく隠居して呑気に暮らす藤左衛門、長屋に住む臆病者の下っ引きの平次と異常にそそっかしい妹のお志乃など、その他の登場人物も、どこかすっとぼけた連中ばかりなのです。

 その一方で、作中で描かれる事件は、結構洒落にならないものが多いのですが――それはこれから一話ずつ、紹介していきましょう。


「馬癇」
 長年かけて貯めたという金で、孫娘のお初と共に棠庵の向かいの部屋で気楽に暮らす老人・善兵衛。しかしある日、部屋から出てきたお初は、善兵衛を殺してしまったと繰り返します。
 部屋にあったのは確かに善兵衛の死体、状況もお初の犯行を示していましたが、棠庵はこれは殺人ではないと言い出して……

 第一話ということで藤介と棠庵、平次ら登場人物の紹介を兼ねたエピソードですが、どう見ても凶器としか思えない、善兵衛の部屋に残された濡れ紙の真実を鮮やかに解き明かす棠庵は、なかなかの名探偵ぶりです。
 事件の真相究明については、ある意味反則的要素があるのですが、むしろ見どころは「厭」な真相を表沙汰にせず解決してみせる、棠庵の知恵にあることは言うまでもありません。


「気積」
 亭主が虫のせいでおかしくなったと藤左衛門に泣きついてきた、左官の巳之助の女房・おきん。これまで生真面目だった彼が、このところ毎日帰りが遅くなり、食事もろくにせず、自分に近付こうとしない――そんなことを訴えるおきんに手を焼く藤介は、棠庵に相談するのですが……

 前話を虫の仕業として解決したと思えば、それが災いしての思わぬ騒動を描くこのエピソード。親しい人間が突然奇妙な言動を取り始める――というのは日常の謎の定番ですが、本作の真相は予想外すぎて、あっけに取られます。
 その真相もさることながら、今回印象に残るのは藤左衛門の珍妙なキャラクターでしょう。すっとぼけたようにとんでもないことを言い出す彼は、今後いよいよ猛威を振るうことになります。


 長くなりますので、次回に続きます(全三回)


『病葉草紙』(京極夏彦 文藝春秋) Amazon

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2024.10.03

三千年の呪いに挑め! 伝説の伝奇ホラーミステリ J・D・ケルーシュ『不死の怪物』

 美貌の心霊探偵が、イギリスの旧家を襲う不死の怪物の三千年の呪いに挑む、伝奇ホラーの古典的名作です。先祖代々伝わる不気味な予言の怪物が、第一次大戦後にまたもや出現――更なる犠牲者を防ぐため、伝説に挑んだ探偵が知った恐るべき真実とは……

 サセックス州ダンノーの荘園領主ハモンド家――千年以上の歴史を持つこの旧家には、一つの詞が代々語り継がれていました。
「マツやモミの生い茂るところ、星々のもと、熱も雨もなかりせば、ハモンドの当主、なんじの禍に気をつけよ!」
 これまでこの詞の通りの状況で、幾人もの当主や周囲の人々が、ある者は怪物に殺され、またある者は怪物の恐ろしさに自ら命を断ち――現在(第一次大戦直後)の当主・オリヴァーと妹のスワンヒルドの祖父も、使用人を怪物に惨殺された直後に、自ら命を断っていたのでした。

 そしていま、予言と密接な関わりがあるという「いかずち塚の社」の森を夜に通りかかったオリヴァーが怪物に襲われ、彼は一命を取り留めたものの、村の娘と彼の愛犬が、無残に引き裂かれた姿で見つかったのです。
 幸か不幸か、頭を打った衝撃で、怪物の記憶を失っていたオリヴァー。しかしスワンヒルドは、このままでは兄の命が危ないと、数々の怪事件を解決してきた霊能者にして心霊探偵のルナ・バーデンテールに、事件解決を依頼するのでした。

 かくしてダンノーにやって来たルナと、ハモンド家の兄妹、スワンヒルドの婚約者のゴダードは、ハモンド邸の隠し部屋から土地の教会、さらにはいかずち塚の社と、様々な場所の探索を進めます。さらにルナは催眠術によって、オリヴァーの中に眠る遺伝的記憶を辿り、遥か北欧の過去のバイキングにまで遡るハモンド家の歴史を知るのでした。

 果たして一族の先祖の一人である十六世紀の魔術師が行っていた禁断の儀式の正体とは何か。いかずち塚の社には何が眠っているのか。隠し部屋に残されていた碑文の欠けた部分に記された文字とは。そして何よりも、数多くの人々の命を奪ってきた怪物の正体とは何か? ついにルナは、恐るべき真実にたどり着くのですが……


 かつて国書刊行会のドラキュラ叢書の幻の第二期にラインナップされ、それから数十年を経て(そして今から二十年ほど前に)文春文庫て刊行された本作。原書は1922年に刊行されたものてすが、作者はほとんどこの一作でホラー史に名を残したという名作です。

 発表時の「現代」を舞台としつつ、千年、いや数千年の過去まで遡る恐怖を描く本作は、まさしく伝奇ホラーというべき作品ですが、しかしそれと同時に強く印象に残るのは、そのアプローチが極めて論理的な、ほぼミステリ的と評すべきものである点です。

 本作の主人公の一人であるルナは霊能力者であり、彼女の口から出るのは(彼女自身は極めて「現代的」で理知的な人物なのですが)、四次元や五次元といった怪し気なワード――そして本作で非常に大きなウェイトを占める催眠術による記憶遡行も、遺伝的記憶という疑似科学的に基づくものです。
 その意味では、本作を論理的というのは違和感があるかもしれません。

 しかし、ルナの捜査スタイルは――そして本作の物語展開は、便利な霊能力などで全てを片付けるのではなく、一つ一つ証拠を丹念に集め、それを分析して推論を組み立てるというもの。件の催眠術も、あくまでもその確認手段といえます。
 そこから浮かび上がる真実もまた、伝奇ホラーらしいものではありつつも、またその真実に相応しい論理的な部分があり――一度は中世に封印された怪物が、十六世紀の魔術師によって復活した理由付けなど実に巧い!――大いに唸らされるのです。

 そしてその真骨頂が、ラストに繰り広げられる呪いとの対決なのですが――これがもう、本作でなければできないような、それこそホラー史に残るような超展開であるのですが、、しかしそこで描かれる対処法には、ただ納得するほかないのです。(ここまで来ると、疑似科学的な部分は一種の特殊設定と理解してもよいのかも、と……)

 実は終盤のある重要な展開がちょっと唐突に感じられた点もあったのですが、しかしそれに対しても、実はきっちりと伏線が張られていたのにも、感心するほかありません。


 先に述べたように、今から約百年前に発表された作品ではありますが、しかし本作は今読んでみても十二分に楽しめる(二人のヒロイン像など今見ても違和感がありません)、まさに伝説の名作と呼ぶべき作品です。

 なお本作は、帯と解説でさりげなくネタばらしされているのでこれだけはご注意を……


『不死の怪物』(J・D・ケルーシュ 文春文庫) Amazon

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2024.10.01

一捻り加えられた三つの鬼と人間の物語 楠桂『鬼切丸伝』第20巻

 歴史の陰で繰り広げられてきた、鬼を斬る神器名剣・鬼切丸を持つ少年と鬼たちの戦いを描く本作も、ついに二十巻を迎えました。この巻に収録された三つの物語は、いずれも鬼と人間の物語の中に一捻り加えられたエピソード揃いです。

 巻頭の「淀殿鬼譚」は、サブタイトルからわかる通り、あの淀殿を巡る奇譚。史実に現れるその姿だけでも波乱万丈としか言いようのない生涯を送った淀殿ですが、今回は大坂の陣の「後」の姿が描かれることになります。

 生まれた時から戦国乱世に翻弄され、親兄弟の仇に身を任せることにもなった淀殿。大坂の陣で、そこまでして得た我が子・秀頼を喪った彼女は、ただ一人、秋元長朝に匿われて生き延びるのでした。
 そこで長朝に愛され、生涯初めての安らぎを得た彼女は、しかし……

 秀頼の生存説に比べると、あまり知られていない淀殿の生存説。かなり不幸なこの伝承を、本作では意外な捻りを加えて描きます。そこで描かれる複雑な彼女の姿は、これまで歴史の荒波に翻弄されてきた女性たちを描いてきた本作ならではのものであったというべきでしょう。

 ちなみにこのエピソード、登場する人物や挿話がこれまで本作で描かれたものが多く、一種の総集編的味わいもあり、読者としては感慨深いものがあります。


 一方、「鬼火起請の章」前後編は、同じ戦国時代でも、とある農村に暮らす庶民の物語が描かれます。火起請とは、物事の真偽・是非を問う際、焼けた鉄を持たせて歩かせ、落とさなかったものが正とされる神事。二つの村の争いを収めるために行われることとなったこの神事で、東の村の代表として選ばれたのは、数年前に村に流れ着いた孤児の兄妹の兄・勘太でした。
 妹のあさのためにその役割を引き受けた勘太ですが、公平に神意を問うはずの儀式には人間の恣意がはびこり、それが鬼を生むことになります。

 本作だけでなく、これまでも幾度となく「普通の人間」の悪意を描きてきた作者らしく、鬼よりも醜い人間の姿を描くこのエピソード。火起請の顛末は、最初から最後まで無惨としかいいようのないものなのですが――ここで思わぬひねりが加わり、物語は不思議な味わいを帯びることになります。
 なんだかんだで、他人を慮る人の情に弱い鬼切丸の少年の姿も印象に残ります。
(そして完全に滅んだと思いきや、思わぬところでゲスト出演の信長様。確かに火起請の逸話で知られる方ではあります)


 そしてラストの「延命院鬼事件」前後編は、ぐっと時代は下って19世紀初頭、享和年間(ちなみにこれまで本作に登場した時代としては、百年近く現代に近くなりました)に起きたいわゆる延命院事件――徳川家の祈願所であった延命院の美貌の僧・日潤が数多くの女性参拝者と関係を持ち、その中には大奥の女中もいたことから一大スキャンダルへと発展した事件を題材にしています。

 一説には初代尾上菊五郎の子だったなどという説もある日潤ですが、本作では病に冒され親にも見捨てられた孤児だったという設定。その頃の女たちからの蔑みの視線に対して、美しく成長した今となって女たちを穢すことで恨みを晴らしているという、複雑な内面の男として描かれます。

 延命院事件の摘発にあたっては、寺社奉行・脇坂安董の家臣が、妹を日潤に近づけることで証拠を掴んだと言われていますが、本作もそれを踏襲しています。しかしその妹であるお梛と日潤が、真実の恋に落ちたことが悲劇の始まりとなるのです。
 お梛に嫉妬した周囲の女たちの告発で罪を問われ、処刑された日潤。しかし日潤を失った女たちが鬼と化し、そしてお梛に裏切られたと信じ込んだ日潤もまた鬼に……

 そんな鬼が鬼を呼ぶ地獄絵図の果てに待つものは――無惨で皮肉で哀しく、そして美しい結末。女たちを憎んできた日潤が辿る運命も、一つの救いといえるのかもしれません。


 なお、巻末に収録された特別番外編「鬼童歌」は、鈴鹿御前が鬼を呼ぶかのような童歌を歌う子供たちと出会う掌編。その歌で歌われるものとは――少年のツンデレぶりは既にバレバレとなっていることがうかがわれる、微笑ましい(?)一編です。


『鬼切丸伝』第20巻(楠桂 リイド社SPコミックス) Amazon

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2024.09.28

栗城祥子『平賀源内の猫』 第12話「遠雷」

 平賀源内と飼い猫のエレキテル、そしてお手伝いの文緒のトリオを主人公に描く『平賀源内の猫』も、嬉しいことに前話からあまり間を置くことなく、新たなエピソードが公開されました。前話で秋田を訪れた源内が出会った新たな才能。その才能を江戸に誘う源内ですが……

 博覧強記で粋な性格の源内、帯電体質でひねくれもののエレキテル、生まれついての赤毛にコンプレックスを持つ文緒――これまで様々な事件に出会ってきた三人(?)は、源内が出羽秋田藩主・佐竹義敦に招かれ、鉱山開発の指導を行うことになったため、秋田に向かうことになります。
 その背後には源内の真意を疑う田沼意次の思惑があったり、文緒の出生の秘密を握るらしい書付を途中で見つけたりと、早くも波乱含みの秋田行き。そんな不穏な空気が漂う出だしでしたが、しかし今回は穏やかな(?)内容でホッとします。

 絵画に凝っているという義敦から、ある藩士の存在を聞かされていた源内。銅山に行く途中に立ち寄った宿に飾られてきた屏風絵の見事さに感心した源内ですが、それこそはその藩士――小田野直武の手によるものでした。
 直武と会い、西洋画の技法を教える源内。そして直武の才能に惚れ込んだ源内は、ある目的のため、彼を江戸に誘います。自身も大いに心動かされた様子の直武ですが、しかし彼は迷いを見せて……


 平賀源内の生涯を扱った作品では、かなりの確率で描かれる秋田行き。その理由は、この小田野直武との出会いがあったからではないか、とすら個人的には考えています。

 江戸から遠く離れた秋田で西洋画の腕を磨き、平賀源内に見出されたことがきっかけで、ある書物の装画を担当し、名を後世に残した直武。そんな彼の後半生は、源内との出会いがあってこそであり、源内の影響力の大きさを物語るものといってよいでしょう。
 そして本作においては、その書物がこれまで大きくクローズアップされてきただけに、ここで彼の存在が描かれるのはむしろ必然といえます。

 しかし本作の直武は、源内の誘いに躊躇いを見せます。それは秋田の藩士であり、何よりも藩主たる義敦に見出された彼にとって、自然な心の動きではありますが――しかしそんな直武に対して、源内は一つの行動をもってその想いを示すのです。

 思えば、かつて源内も高松藩士でありながら、己の夢を追って脱藩した人間。そんな彼にとっては、忠義と己の夢の間で揺れる直武の気持ちは、よく理解できるのでしょう。
(物語の途中、城勤めの娘たちが、自分たちがいかに恵まれた立場にあるか語る場面も、ここに重なってくるものと感じます)
 それでも、時には全てを捨てて――命すら賭けて、何事かを成さねばならない時がある。今回描かれた源内の行動は、まさにそれを身を以て示すものであったといえます。

 そしてそれがまた、源内自身にとっても大きな意味を持つ行動――史実ではないかもしれないけれども、なるほどこう来たかとニヤリとさせられる行動であるあたりが、また実に本作らしい捻りの効かせ方だと嬉しくなるのです。


 先に述べたように今回はあまり重い内容ではなかったのですが、しかしそんな中でも、文緒と源内のこの先に何やら不穏なものを感じさせる場面があったり(特に史実における源内の運命を考えると……)と、まだまだ先には波乱が待っていることを予感させます。
 しかしそれでも本作の源内は、何事かを成すために、この先も己の全てを賭けて突き進むのだろう――そう感じられたエピソードでした。


それにしても源内とエレキテルは、時々明らかに目と目で通じ合っている時があって――実際猫とはそういうものですが――何やら不思議な気分にもなります。
(エレキテル、本当は人間のこと全てわかっているのではないかしらん)


『平賀源内の猫』 第12話「遠雷」(栗城祥子 少年画報社ねこぱんちコミックス) Amazon

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2024.09.09

「エリマキ」の男と追う、妻の亡霊の謎 北沢陶『をんごく』

 第43回横溝正史ミステリ&ホラー大賞史上初の三冠受賞、「このホラーがすごい! 2024年版」第3位と話題に事欠かない『をんごく』――大正時代の大阪船場を舞台に、亡き妻の面影を追い求める画家が、霊を喰らう奇妙な存在と共に、妻の亡霊にまつわる謎と恐怖を追う物語です。

 関東大震災で焼け出され、実家のある大阪船場に帰った画家の壮一郎。しかし、震災で負った傷がもとで妻・倭子を喪った彼は、強い喪失感に苛まれることになります。
 未練のあまり巫女に降霊を依頼した壮一郎ですが、降霊はうまくいかず、それどころか「奥さんは普通の霊と違う」と告げられてしまい。そしてそれを裏付けるように、壮一郎の家では次々と奇妙な出来事が起こり、彼自身も妻の不気味な声や気配を感じるのでした。

 そんなある日、壮一郎の前に襟巻きのようなものを巻いた奇妙な男(?)が現れます。見る人によって異なる顔を見せるにもかかわらず、壮一郎の目にはのっぺらぼうのように顔のないものとして映るその存在――通称「エリマキ」は、死を自覚していない霊を喰らっていると語り、倭子の霊をも喰らおうとします。

 しかし、大量の異常な気配に阻まれ、倭子の霊を喰らうことに失敗するエリマキ。さらに周囲に犠牲者が出るまでに至ったことから、壮一郎とエリマキは、倭子の霊に何が起きているのか、その謎を追うことに……


 壮一郎が巫女を訪ねて不可思議な体験をする静かで不穏な場面から始まり、淀みない語り口で、徐々に恐怖感とスケール感を高めていく本作。
 震災によって親しい人間を失うという、現在の我々にとっても決して他人事ではない出来事から始まり、少しずつ主人公の周囲が異界に染まっていく展開は、その語り口も相まって、怪談ムードを一層高めてくれます。

 しかし、本作の最大の特徴は「エリマキ」の存在にあることは間違いありません。赤黒い鱗のようなものに覆われた襟巻き状のものを巻いていることからその名で呼ばれる彼は、明らかに人間ではないものの、不思議な人間臭さを感じさせる存在です。
 いかなる理由か、見る人によってその顔が異なる――見る者の心に最も深く根付いている人間の顔に見えるため、ほとんどの者は抵抗や疑いなくエリマキに惹かれてしまうというその能力(?)も非常にユニークですが、しかし壮一郎のみは誰の顔を見ることができない、というのが面白いアクセントとなっています。

 そもそも、壮一郎であればエリマキに倭子の顔を見るはず。それがのっぺらぼうにしか見えないのはなぜなのか――その理由は、(比較的シンプルな)壮一郎の人物像に深みを与えていると感じます。

 そして成り行きとはいえ、一種のバディ的関係として行動を共にすることになった壮一郎とエリマキ。二人が倭子の霊が得体の知れない存在となった謎を追うという、冒頭からは予想もつかなかった方向に物語は展開していきます。
 その先で解き明かされる真相は、民俗的な整合性を感じさせつつも伝奇性が高く、そして何よりも同時に、人間の業の深さを感じさせるものであるのが嬉しい(という表現はいかがかと思いますが……)。ここまで語られてきた壮一郎の設定一つ一つに意味が生まれるのも、見事としか言いようがありません。


 しかしその一方で、物語がどこかボリューム不足に感じられてしまうのは、全般的に展開がシンプルで、淡々と進行しているように感じられるためでしょうか。
 もちろんそれは、本作が無駄を削ぎ落とし、スムーズに進む物語であることと表裏一体ではあるのですが――そのためか、壮一郎とエリマキの結びつきが生み出すクライマックスの盛り上がりが、少々唐突に感じられてしまったのは、残念なところではあります。

 もちろん、エリマキのキャラクターそのものは非常に面白く、その背後に大きな広がりを感じさせてくれます。本作自体は非常に綺麗に完結していますが、舞台と趣向を変えた彼のさらなる物語があれば、読んでみたいと感じるのは間違いないところです。


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2024.09.07

剛腕僧侶の意外な正体!? 木々峰右『寺の隣に鬼が棲む』第1巻

 「寺の隣に鬼が棲む」というのは、慈悲を施す寺の隣に邪悪な鬼が棲むように、この世は善人と悪人が入り混じっているという喩えですが、本作は本当に寺の隣(近所)に棲む鬼と、ある僧侶の奇妙な交流の物語。最強を目指す鬼の少年がつきまとう、やたらと腕っぷしの強い僧侶の正体とは……

 時は平安時代、とある山奥の寺に身を置く僧侶・真蓮のもとには、毎日のように鬼の少年・山吹が現れ、勝負を挑んでは適当にあしらわれていました。

 最強の武士・源頼光を倒し、最強の鬼になって妖の頂点に立つという目的のため、僧侶ながら異常に腕っぷしの強い真蓮を乗り越えようとムキになる山吹。しかし真蓮から、源頼光は百年も昔の人物で既にこの世にないと教えられた山吹が愕然とするのでした。
 しかし真蓮の同僚の僧・早達は、そんな山吹に、今生きている中で一番強い人間を倒せばいいと吹き込みます。源頼光の子孫であり、かつて鵺を退治したという武士・源頼政を。

 俄然やる気になり、頼政がいるであろう京に向かって旅立つ山吹ですが、その前に現れたのは……


 本作は、そんな内容でSNSで評判となった「最強になりたい鬼っ子と最強のお坊さんの話」を第一話として連載化された作品です。

 ある意味、この第一話のタイトルが全てを示しているともいえますが、物語がこの後、素手の一撃で大妖を文字通り叩き潰し、刀を振るえば大地を切り割るという、常人離れした真蓮と、夢は大きいけれども実力がまったく追いつかない山吹が、わちゃわちゃと日々を過ごす姿を中心に描かれていきます。

 そもそも山吹が最強を目指す理由というのが、源頼光に頭領である酒呑童子を倒されたため、鬼族の地位が妖の間でダダ下がりして、今では人間にも舐められるほどになった名誉を挽回したいから――というのはなかなか健気ではありますが、何しろ山吹は弱い。というより真蓮が強すぎる。
 本作では基本的に、そんな鬼と人間で立場が逆転したような二人の交流がのどかに描かれます。

 しかし、これだけ常人離れした力を持つ真蓮にも、何か秘密があるのでは、と想像するのは当然ですでしょう。実は彼こそは――というのはわかる方にはすぐわかるかもしれませんが、それでもそう来るか! と驚かされることは間違いありません。

 もっとも、史実に照らすと真蓮が出家したのは相当年を取ってからであり、その頃には本作に登場する××は既にアレしていたりしているので、これはもう史実をアレンジしたファンタジーとして受け止めるべきなのでしょう。
(そもそも史実には鬼はいない、とか言わない)


 それでも、それぞれに色々と抱えるもの、背負っているものがある二人が、不器用ながらも交流をしていく姿は微笑ましくはあるのですが――いかんせん、第一話のインパクトが大きすぎて(そして綺麗にまとまりすぎていて)、それ以降は厳しい言い方をすれば余談のように感じられてしまうのが辛いところです。

 この巻のラストのエピソードでは、物語が一気にシリアス方面に展開することになるのですが、さてこれがこの後、どのように影響することになるのか?
 山吹が真蓮の正体を知ってからが本番のような気もしますが、ここからどのようにして物語を盛り上げていくのか、気になります。


『寺の隣に鬼が棲む』第1巻(木々峰右 スクウェア・エニックスGファンタジーコミックス) Amazon

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2024.09.05

おかしなトリオが見せる「うたの力」 木原敏江『ふるふる うたの旅日記』

 時に叙情的に、時にコミカルに多くの歴史ものを描いてきた作者の作品の中でも、今回紹介するのはコミカル色強めのユニークな物語です。とんでもない悩みを抱える修行僧、泥棒もお手のものの美貌の遊芸人、そして記憶喪失の怨霊(?)というおかしなトリオが賑やかな旅を繰り広げます。

 雨宿りしているお堂に飛び込んできた女性と見紛うばかりの美形の遊芸人・活流、そしてそこに落ちた雷と共に現れた記憶喪失の女官の怨霊・おぼろ式部と出会った旅の僧・青蓮法師。
 そこでその地の長者から法事での読経を頼まれた法師は、一度は固辞したものの、是非にと頼まれて仕方なく読経を行ったものの、そこでとんでもない事態が――実は彼は、一心に経を読むと、聞く者が皆ぐっすりと眠ってしまうという悩みを抱えていたのです。

 活流がなぜか経を聞いても眠らないことに喜ぶ法師ですが、活流が全員眠りこけた長者の家から金品を盗み出したために、仲間扱いされて慌てて逃げ出す羽目になります。
 かくして青蓮法師の名を使えなくなった彼は、俗名の降日古を名乗り、活流、そしておぼろ式部と共に旅を続けることに……


 経文を唱えれば菩薩や飛天が現れるほどの奇瑞を発揮しながらも、常人は眠ってしまうという特異体質(?)を持つ降日古、時には盗賊に早変わりする遊芸人の活流、恋を夢みて現世に戻ってきたもののなぜか降日古に憑いてしまったおぼろ式部――本作は、そんな一癖も二癖もあるユニークな主人公トリオが織り成す物語です。
 本作では、このトリオが行く先々で様々な事情を抱えた人々と出会い、それを彼らならではのやり方で解決していく様が描かれます。

 一旗揚げるために出ていった恋人を待つことに疲れた土地の名家の娘、下働きの娘が家を乗っ取ろうとしていると思い込んだ孤独な老女、幕府への謀反に巻き込まれて逃げる夫婦、さらには式部を調伏しようと追ってきた「護法の天狗」を自称する修験者――最後の一人はともかく、どの登場人物も一筋縄ではいかない悩みを抱えているのを、基本コミカルに、そして時に叙情的に降日古たちは助けることになります。。

 そしてそんな中で大きなウェイトを占めるのは、言葉の持つ不思議な力です。古来より、人間が様々な願いや想いを込めた言葉――その最たるものである「うた」の力を本作は描きます。

 特にそれがよく現れているのは第二話のクライマックスでしょう。ようやく自分のもとに帰ってきた男を、意地を張って一度は追い返したものの、後悔して後を追う娘。しかし男は既に遥か先に行ってしまい、追いつくのは到底不可能に思えたところで、降日古と活流が歌ったうたは……
 通常であればありえない奇瑞ともいうべきそれを、本作は巧みなドラマの盛り上げと画の力、そしてそこで歌われるうたの絶妙ななチョイスで、不思議な説得力を持って描きます。それを見れば、本作の副題が「うたの旅日記」というのも納得できるでしょう。

 そしてそんな本作の主人公が、これも一種の「うた」である経文を読む僧侶と、「うた」に合わせて舞い踊る遊芸人というのもまた象徴的であると感じられます。


 そんな一方で、生真面目な降日古と、いい加減で脳天気な活流という水と油の二人が旅を通じて友情を育んでいく様も本作の楽しいところです。そんな二人に比べるとちょっと引いた感もあるおぼろ式部も、物語のラストで判明する正体はびっくり仰天、何とも愉快な幕引きを迎えることになります。(特に「天狗」との対峙から正体を思い出す展開はお見事!)

 物語的には単行本全一巻でまとまってはいるものの、テーマといいキャラクターといい実に魅力的で、まだまだその先の旅を見たいと思わせる快作です。


『ふるふる うたの旅日記』(木原敏江 集英社クイーンズコミックス) Amazon

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2024.09.03

劇団☆新感線『バサラオ』(その二) 裏返しの新感線ヒーローの危険な魅力

 劇団☆新感線44周年興行『バサラオ』の紹介、後編です。婆娑羅が横行する世界に登場するキャラクターたちの姿とは――

 このような物語世界に登場するキャラクターが普通であるはずもなく、ほとんど皆が皆、自分の信念――というよりもエゴで動き、それが混乱をさらに加速させていくのもまた、実にこの時代らしいといえるでしょう。
 こうしたキャラクターの大半は、『ジャパッシュ』モチーフのヒュウガとカイリを除いて、実在の人物をモデルにしており、それは名前を見れば察することができます。
 ゴノミカド(後醍醐天皇)、キタタカ(北条高時)、サキド(佐々木道誉)、クスマ(楠木正成)、アキノ(北畠顕家)――いずれも歴史に名を残した強烈な個性を持つ面々がモチーフですが、彼らを演じるキャストもまた、はまり役揃いなのが嬉しいところです。

 特に印象に残るのはゴノミカドです。普段は関西弁のとぼけたおっさんながら、裏では髑髏本尊を崇めて幕府を呪詛し、時に平然と配下を切り捨て、そして途方もなく暴力的な行動に出る――そんな主人公の最大の壁というべき存在を古田新太が演じた時点で、キャスティング的に大勝利というほかありません。


 しかしそれでもなお、そんな面々を押しのけて、常に物語の中心にいたのは、ヒュウガとカイリの二人――天下を取るという確かな目的で結ばれているようでいて、互いを含めた他者への裏切りや謀略を繰り返す、一瞬たりとも油断できないキャラクターです。
 己の美を輝かせることを行動原理とするヒュウガはもちろんのこと、その影のようでいて、それ以上に策謀を働かせるカイリも一歩も引かない――これまでの新感線作品にもバディ的な二人は様々登場してきましたが、この二人はその関係性を裏返しにしたようにも感じられます。

 いや、裏返しといえばヒュウガの存在は、これまでの新感線作品に登場したヒーローたちの裏返しという印象が強くあります。
 もちろん全てではないものの、たとえば『髑髏城の七人』の捨之介や『五右衛門ロック』の五右衛門がそうであったように――人々を苦しめる悪党を叩きのめして平和を取り戻し、人々の前から風のように去っていく。確かに、そんな痛快なヒーローたちと同様に、ヒュウガもまた、人々を抑えつける者たちを容赦なく叩きのめしていきます。

 しかしその先にヒュウガが求めるものは平和や人々の救いではなく、混沌の中で己の美が咲き誇る世界――そのために倒すべき幕府や帝もまた、強大かつ悪辣な存在として描かれているものの、それ以上に容赦なく敵を追い詰めるヒュウガの姿は、やがて痛快さを通り越し、本当に彼に喝采を送ってよいのか、考えさせる存在となっていきます。

 この辺りは、やはり『ジャパッシュ』の日向に通じるものがあります。しかし、あちらが明確に独裁者の座を求める邪悪な存在であったのに対し、「己の美」という価値観が間に挟まることで、ヒュウガは、まだマイルドな印象を与えますし、舞台が混沌とした南北朝時代モチーフであるのも、印象を大きく変えています。
 さらに、日向に対してほとんど無力だった石狩と異なり、カイリはヒュウガと対等に近い存在である点も大きいでしょう。

 その一方で、終盤のあるシーン――ヒュウガに喝采を送る「自由な」群衆が、自分たちよりも弱い存在には容赦なく暴力を振るい、奪い取る姿を見れば、「今」だからこそのヒュウガの危険性について、作り手側も自覚しているとも感じられます。
(もっとも、あのオチ的なラストシーンには、それでも一種の迷いというか衒いも感じてしまうのですが)


 しかしそうした危険性は感じさせつつも、それでもなお、ヒュウガというキャラクターも『バサラオ』という物語自体も、非常に魅力的であることは間違いありません。

 特にクライマックスの両軍の決戦――舞台上で帝二人が連続して××されるという展開には、本当に良いのか!? と仰天――から、バサラの王となったヒュウガが群衆を従えて舞い踊る、高揚感に満ちたシーンに続く流れには、「自分は今、何かとんでもないものを目撃している!」という得体の知れない感動を覚えました。

 この生観劇の醍醐味というべき強烈な感覚は、正直なところ新感線の舞台でも久しぶりに味わったものでしたが――それだけ本作が衝撃的な作品であるというべきなのでしょう。
 新感線でも屈指の殺伐としたシーンの多さ(これだけ多くの生首が出てきたのも珍しいのでは)にも、そして大きな危険性を孕んでいるにもかかわらず――それでも不思議な爽快感すら感じさせる、まさに主人公のキャラクターそのものを体現するような作品です。


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2024.09.02

劇団☆新感線『バサラオ』(その一) 新感線と婆娑羅の驚くべき親和性

 劇団☆新感線44周年興行『バサラオ』を観劇しました。鎌倉時代末期から南北朝時代の日本をモチーフにした世界を舞台に、凄まじいまでの美を持つ男が、幕府と朝廷を向こうに回してのし上がっていく姿を描く物語――異常なまでにパワフルで暴力的でありながらも、当時に途方もなく蠱惑的な物語です。

 幕府と帝が争う島国「ヒノモト」。その頂点に立つ鎌倉の執権キタタカの密偵として働いてきた青年カイリは、密偵を辞めたいと望むものの、逆心を疑われ逃げる羽目になります。
 その途中、狂い桜の下で女たちを従えて派手に歌い踊る美貌の男――同じ里の出身であるヒュウガと出会ったカイリは、そのバサラぶりに惚れ込み、自ら軍師役を買って出るのでした。

 そして自分たちを討ちに現れた女大名サキドを丸め込み、幕府と対立して沖の島に流されたゴノミカドの首を取ると言い放ったヒュウガ。
 彼が沖の島でゴノミカドと対面、半ば挑発によってその本心を引き出したところに、ゴノミカドの皇子を奉じて山に籠もっていたクスマ一党を動かしたカイリが登場――二人はついにゴノミカドを動かすことに成功します。

 京で再会したサキドを味方に引き入れ、ゴノミカドを奉じた倒幕の軍を起こしたヒュウガ。しかしその陰で、彼は京に来ていたキタタカを密かに逃がすという不可解な動きを見せます。
 一方で、ヒュウガの危険性を見抜いていたゴノミカドは、自身の腹心である戦女・アキノにヒュウガの暗殺を命じます。そしてアキノはカイリがヒュウガに対して密かに殺意を抱いていることを見抜くのでした。

 様々な思惑が交錯する中、バサラの王として君臨せんと暗躍するヒュウガ。彼の野望の行方は……


 鎌倉時代末期から南北朝時代という、ある意味タイムリーな時代をモチーフにしつつ、もう一つ、望月三起也の漫画『ジャパッシュ』を本作。
 現代の日本を舞台に、その美貌とカリスマ性によって力を手にし、独裁者としてのし上がっていく日向と、その危険性を見抜き抗う石狩の戦いを描いた『ジャパッシュ』――望月三起也の作品の中でも異色作・問題作であり、それだけにファンの心に焼き付いた作品――それをモチーフにしたと聞けば、わかる人間には一発で「なるほど、そういう話なのね」と理解できるはずです。

 そんなわけで実際に観る前には「南北朝を舞台にした『ジャパッシュ』か――生々しい話になりそうだなあ」とか「己のカリスマでのし上がって支配者になる男だと、この後に歌舞伎で再演される『朧の森に棲む鬼』とかぶるのでは?」などと思っていたのですが――しかしそれはもちろんこちらの浅はかさというもの。実際に眼の前で繰り広げられたのは、そんな思いを遥かに超える世界だったのですから。

 まず驚かされたのは、劇団☆新感線と南北朝――というよりこの時代の「バサラ」との親和性の高さです。

 バサラ(婆娑羅)とは、「南北朝内乱期にみられる顕著な風潮で、華美な服装で飾りたてた伊達な風体や、はでで勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい、またはそのようす」(日本大百科全書)。
 本作のサキドのモデルである佐々木道誉がその代表的な担い手として有名ですが、本作のヒュウガは、彼女以上に、その言葉に相応しい存在として描かれます。冒頭、舞台の上から吊りで「降臨」する時点で心を掴まれましたが、その後も物語の要所要所で歌い、踊る姿は、まさにバサラの王に相応しいというほかありません。

 そもそも、劇団☆新感線の、いのうえ歌舞伎の魅力の一つは派手な歌と踊り。ヒュウガを中心に、躍動感たっぷりに人々が歌い、踊る姿は、大袈裟にいえば、まさにバサラのイメージを具現化したものと感じられます。

 劇団☆新感線で南北朝といえば、過去に『シレンとラギ』がありますが、ギリシア悲劇をベースとしたあちらと比べると、この「バサラ」という存在を中心に据えた本作は、全く異なるイメージの作品であり――そしてよりこちらの心に響くものとして感じられました。


 さて、そんな世界に登場するキャラクターたちですが――それについては、長くなりましたので稿を改めて述べたいと思います。


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2024.08.28

小説として、歌舞伎の原作として 京極夏彦『狐花 葉不見冥府路行』

 先日観劇した新作歌舞伎『狐花 葉不見冥府路行』――その原作として刊行されたものがこの小説版となります。もちろん歌舞伎とは独立した作品として楽しむことができる一冊ですが、ここでは可能な限りネタばらしに注意しつつ歌舞伎との比較も含めて紹介したいと思います。

 ある日垣間見た美青年に心奪われた作事奉行・上月監物の一人娘・雪乃。しかし彼女付きの女中・お葉は、その美青年――萩之介の姿に衝撃を受け、寝付いてしまうのでした。
 実はかつて材木問屋・近江屋の娘・登紀、口入屋・辰巳屋の娘・実袮の三人で、萩之介を殺していたお葉。しかしその萩之介の出現に、彼女は二人を呼び出したのです。

 それが自分たちの過去の所業に関わるのでは、と警戒する監物と用人の的場、近江屋と辰巳屋は、萩之介殺しが愛欲のもつれによるものと知り、一時は胸を撫で下ろします。
 しかし、自分たちの前にも萩之介が現れた娘たちの狂乱によって近江屋と辰巳屋が命を落としたことから、的場は憑き物落としの男を招くのでした。

 そして監物の前に現れた武蔵晴明神社の宮守・中禅寺洲齋は、またたく間に萩之介の真実を説き明かしていくのですが……


 歌舞伎の原作ということもあってか、本作は京極作品としては相当に分量の少ない(それでももちろん普通の作家の一作分はあるのですが)作品です。それは中禅寺洲齋が、ほとんど全体の2/3を過ぎてからの登場であり、しかも曾孫と違い、ほとんど薀蓄を語らないから――というのは冗談ですが、もちろん内容に薄さを感じることはありません。

 むしろ、本作は作者の百鬼夜行シリーズと巷説百物語シリーズ、双方のスピンオフ的な存在でありつつも、同時に独立した作品として楽しめる内容であることは間違いありません。
(作中で何度か言及される町奉行・遠山左衛門尉については、『了巷説百物語』を読んでいるとニヤリとできるのですが)

 そんな本作は、萩之介なる亡霊めいた謎の美青年の出没に人々が翻弄される中、洲齋が憑き物落とし――すなわち、一見、怪異に思われた出来事に理屈をつけ、人々の心を解き放つことで事態を解決するという、一種の時代ミステリというべき作品です。
 実は歌舞伎ではこのミステリの部分、特に殺されたはずの萩之介が現れる理由(つまりはトリック)が明確には語られておらず、その辺りに少々不満があったのですが――本作ではその点がきちんと説明されているのが、個人的には一番嬉しく感じられました。

 なお、終盤でほとんど余人が出入りできないはずの場所に萩之介が現れるくだりも、小説ではまた別の形で描かれているのですが――これは舞台上で見せるには少々難しい内容なので、この辺りの差異は納得できるところでしょう。


 というわけで、説明量という点で歌舞伎と異なる点もある本作ですが、最大の相違点は、実は的場というキャラクターの扱いとなっています。
 昔から監物の腹心として忠実に仕え、過去の秘密も共有する的場。しかし物語の後半、彼の行動は小説と歌舞伎で大きく異なります。
 歌舞伎においては「我こそが監物第一の忠臣」という想いを強く持ち、行動する的場。しかし小説では、過去の悪行が露見することを恐るあまりに監物にも逆らう姿が描かれます。
 
 この相違点が、そのままそれぞれの物語での彼の運命の違いに関わるのですが、実はそれは、もう一人、別の人物の運命にも関わることになります。
 この辺りの詳細は伏せますが、個人的には結末で監物が見せる姿を思えば、小説の流れの方がより納得がいくように感じます。

 それにしても、これだけ大きな違いが生じているのは不思議な気もいたします。あるいはこれは、歌舞伎で的場役が決まった後に、役者に合わせて演出を変えたのでは――というのは、完全にこちらの勝手な想像ですが、いずれにせよ、歌舞伎という場に合わせてのものなのでしょう。


 なにはともあれ、個人的には歌舞伎で最も印象に残った、ラストの逆憑き物落としというべき場面も、上で触れた構成により、この小説版では、さらに印象に残るものとして感じられます。

 できれば歌舞伎ともども触れていただきたい作品ですが、歌舞伎の原作というだけでなく、独立した小説として、十分に手に取る価値があることは間違いありません。


『狐花 葉不見冥府路行』(京極夏彦 KADOKAWA) Amazon

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