2023.12.02

ジェイムズ・ラヴグローヴ『シャーロック・ホームズとサセックスの海魔』 邪神大決戦! ホームズ最後の挨拶

 あのシャーロック・ホームズがクトゥルー神話の邪神と対決するクトゥルー・ケースブックの完結編であります。時は流れ、サセックスで隠退生活を送るホームズ。しかし突然の悲報に、彼は再び起つことになります。ドイツ人スパイの暗躍と、宿敵の再来と――死闘の末に、彼が選んだ道とは?

(以下、本作を含めたシリーズ全三作の内容に触れますのでご注意ください)
 名探偵シャーロック・ホームズの生涯は、実はクトゥルー神話の邪神との戦いに捧げられたものだった。かのホームズ譚は、そのカムフラージュのために、相棒であるワトスンが記したものだった――という、大胆極まりない設定で展開してきたクトゥルー・ケースブックシリーズ。
 その第一作『シャーロック・ホームズとシャドウェルの影』では、出会ったばかりのホームズとワトスンが邪神の存在を知り、ナイアーラトテップの力を操るモリアーティ教授と対決する姿が――そして第二作『シャーロック・ホームズとミスカトニックの怪』では、その十五年後、一人の精神病患者の失踪をきっかけに、邪神ルルイログに変じたモリアーティとの戦いが描かれました。

 そして第三作にして完結編の本作で描かれるのは、第一作から三十年後、数々の戦いの末に邪神の勢力をある程度押さえ込み、サセックスに隠退したホームズの姿であります。
 冒頭、久々に訪ねてきたワトスンとともに、邪教徒の陰謀を粉砕したホームズ。しかしその直後に飛び込んできたのは思わぬ悲報――あのマイクロフトの死の知らせでした。

 錯乱した様子でホームズに電話した直後に、飛び降り自殺したとおぼしきマイクロフト。それだけでなく、マイクロフトと共に邪神の脅威に立ち向かっていたダゴン・クラブの構成員たちが、皆謎の死を遂げたことを知ったホームズは、執念の捜査で事件の影にドイツ人スパイ、フォン・ボルクがいることを突き止めるのでした。

 そしてボルクとの対決の末、その背後で糸を引くドイツ大使フォン・ヘルリングの元に乗り込んだホームズとワトスン。しかし二人は、罠にかかった末、かつてのイレギュラーズ――蛇人間に引き渡されることになります。
 大きな犠牲を払いながらも辛くも窮地を脱し、サセックスに戻ってきた二人。しかしそのサセックスでは、土地に伝わる伝説の海魔が霧の夜に出現し、既に三人の女性が攫われたというではありませんか。

 海魔の出現を待ち伏せし、その正体を暴いた二人。しかしそれは、二人を待ち受ける新たな、そして最後の苦闘の幕開けに過ぎなかったのでした……


 ホームズが晩年にサセックスに隠退し、養蜂生活を送った――これはいうまでもなく、聖典の「最後の挨拶」等で描かれたものであります。ボルク、ヘルリングと、本作の下敷きとなっているのはこの「最後の挨拶」ですが――しかし本作の内容は、そこから大きく離れた、奇怪なものであることは言うまでもありません。
 実は上で述べたあらすじは、全体のほぼ半分辺りまで。そこからの物語は、予想だにしなかった(しかしラヴクラフトのある作品を連想させる)場で展開し、そして全編のクライマックスに相応しい地に至ることになります。

 正直なところ(これまでのシリーズ同様)ホームズが名探偵として推理を働かせるシーンはそれほど多くなく、また、魔術ではなく推理で怪異に立ち向かって欲しかったという想いは強くあります。
(特にボルクに対してのあれは、場合が場合とはいえ流石に嫌悪感が……)

 とはいえ、絶望的なまでに強大な敵を前にした絶体絶命の状況から、ほんのわずかなひらめきから逆転してみせるのは、邪神の脅威に対する人間の叡智の勝利の姿を描いたものとして、実に痛快というほかありません。
 特に本作で死命を決したものは、ある種の人間性というべきものであり――大きな皮肉と、幾ばくかの切なさを感じるそれは、物語の締めくくりとして印象に残ります。

 そしてクライマックスで繰り広げられる大激闘や、結末に待つオチなど、作者は本当に好きなのだなあと、何だかんだ言いつつ、すっかり嬉しくなってしまうのです。


 シリーズがここで完結するのは、寂しいところではありますが、やむを得ないことでしょう。見事な大団円――最後の挨拶であったと思います。
 そして、実はシリーズには今年出たばかりのスタンドアローン長編があるとのこと(大丈夫だったのかラヴグローヴ)。おそらくは邦訳されるであろう同作を、楽しみに待ちたいと思います。


『シャーロック・ホームズとサセックスの海魔』(ジェイムズ・ラヴグローヴ ハヤカワ文庫FT)

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2023.11.16

わらいなく『ZINGNIZE』第10巻 ばんばばん迫る刺客と復活の魔剣士!

 第二部突入、単行本二桁突入の『ZINGNIZE』ですが、高坂甚内の方はいきなり大ピンチ。彼の首にかけられた賞金を狙う八人の刺客に加え、お菊までもが彼を狙います。一方、出雲阿国の前には、かつて庄司甚内に倒された剣鬼が出現、捕らわれの身になる阿国のですが……?

 宿敵・風魔小太郎を倒したものの、江戸から姿を消した高坂甚内。それから三年、江戸と大坂の緊張が高まる中、大坂の間者であった高坂に対して徳川は多額の賞金をかけ、八人の猛者を刺客として送り出すことになります。
 一方、京に向かったお菊と庄司は、そこで阿国と共に暮らす高坂を発見。再会を喜ぶ間もなく、大鳥井逸平の襲撃を受ける高坂ですが、さらにお菊までもが彼に襲いかかり……

 と、再会した愛する人にいきなり腹をブッスリやられた高坂。それでも全く気にしていない、というより完全に舐めプの辺りが彼の器のデカさというべきかもしれませんが、そんな修羅場(?)でお菊に手を出そうという大鳥井こそいい面の皮であります。
 鎧というより巨大ロボじみた外見の上、四人の仲間と共に連携攻撃を仕掛ける、一見強敵の大鳥井ですが――手傷を負った高坂に速攻でボコられて退場。八人の刺客の一番手としては不甲斐ないというか理想的というか……

 しかしそこに現れたのは同じく刺客の一人のライオンじみた外見の男。「ばん」「ばんばばーん」と叫ぶばかりのその男の名は、塙団右衛門! なるほど、言われてみれば(?)というところですが、後世に名を残す豪傑が、ここで、こんな姿で見参というのには驚かされます。
 しかし驚かされるのはその戦闘スタイル。古代ローマの軍装を参考に、二頭の馬を手足のように操る塙団右衛門の猛攻に、さしもの高坂も大苦戦を強いられることになります。

 一方、そんな騒動も知らずに旧知の仲の岩佐又兵衛と再会した庄司甚内ですが、そこに現れたのは妖刀籠釣瓶を手にした剣鬼・小妻岩人――かつて小太郎の同志として江戸に現れ、多くの民の命を奪った末に、庄司の奮闘(と高坂のフォロー)の前に散った怪物であります。
 その際に失ったはずの命を、小太郎同様に辺魂樹で蘇らせ、いまや籠釣瓶が本体というべき小妻。彼は阿国とお菊を緊縛して、高坂の行方を問うのですが――色々あって庄司が役に立たない中、阿国がその魔性をフルに発揮して……


 というわけで、この巻のメインは高坂甚内vs塙団右衛門と、出雲阿国vs小妻岩人――というより、この二番勝負のみでほとんど話が進んでいないというのが正直なところであります。
 相変わらず時々何が起きているのかわからなくなるアクションの連打の末に、気が付いてみれば最終ページだった――というのは幸福なのか残念なのか、悩ましいところではあります。

 もっとも、怒濤の超人バトルの中で見え隠れする人間関係が、なかなか興味深いところであります。そういえば塙団右衛門の旧主は加藤嘉明(ここではわりと死神っぽい外見)だったなとか、そういえば名古屋山三郎の弟分だった庄司が阿国と色々面識あっておかしくないなとか、どこかで見たような名前だと思っていたら小妻岩人の前身は――などと考えるのはなかなか楽しいところではあります。

 もちろん一番気になるのは、その先に何が描かれるのか、高坂を待つ運命は何かということであるのは間違いないのですが……


『ZINGNIZE』第10巻(わらいなく 徳間書店リュウコミックス) Amazon

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2023.11.13

桃山あおい『新月の皇子と戦奴隷~ダ・ヴィンチの孫娘~』 荒くれ娘、知と技術でサバイバル!?

 Web漫画サイト「くらげバンチ」で公開中の歴史漫画――16世紀のオスマン帝国の宮廷で、ダ・ヴィンチの孫娘を名乗る少女が、破天荒な活躍を繰り広げる快作であります。帝国の後継者争いで揺れる宮廷に放り込まれることになった少女が、そこで出会ったのは……

 故郷のハンガリーを襲ったオスマンの軍勢に捕らえられ、奴隷にされた少女・エイメ。故あって初めに送られた宮殿から追い出された彼女は、ルート皇子の住まうエディルネの宮殿の後宮に送られることになります。
 そこで思いもよらぬ後宮での豊かな暮らしを目の当たりにするエイメですが、自分たちの故郷から収奪されたものなど食べられないと反発し、宮殿の庭で暮らし始めるのでした。

 そこで雀を捕るため、師匠であったレオナルド・ダ・ヴィンチ譲りの知識で速射式弩をハンドメイドで作り出したエイメ。早速その弩で、宮廷の女中・カメリアが烏に取られた指輪を取り戻したエイメですが、その直後、そのカメリアが弩で殺害され、エイメは下手人として獄に繋がれるのでした。

 もはや処刑を待つばかりとなったかに見えたエイメのもとを訪れ、直々に尋問するルート皇子。その前で思わぬ形で無実を証明してみせたエイメを、皇子は自分の部屋に招き……


 自分の身一つ以外全てを失った主人公が、己の知恵と技術と機転でチャンスを掴む――後宮もの(に限らずサクセスストーリー)の定番パターンであります。
 本作もその一つではあるですが――しかし、本作に大きな独自性を与えているのは、エイメの強烈な個性でしょう。奴隷の身分でありながら侵略者であるオスマンの世話にならないと宣言、宮殿の庭で勝手にサバイバルを始めるというバイタリティ溢れる冒頭の展開には度肝を抜かれます。

 しかしそんな彼女の行動に成算を与えているのが、師であり「じいちゃん」であるダ・ヴィンチの発明というのが面白い。フィクションの世界では何かと便利に使われがちなダ・ヴィンチの発明ですが、なるほど、こういう切り口があったか、と感心させられます。
 そして、明らかに荒くれ系のキャラであるエイメが、「知」「技術」を武器とするのも、また面白いのです。

 しかし彼女の言動は周囲の人間には斬新すぎて理解出来ないのに対して、実はルート皇子のみは――というのも、定番ではありますが、物語にうまく取り入れられていると感じます。
 当時はさまで知られていなかったダ・ヴィンチの存在を異国に在りながら知っていた皇子(ここでダ・ヴィンチがボスポラス海峡の金角湾の橋造りに名乗りを上げていたという史実を引くのが上手い)。実は彼自身が技術に深い関心を示し、時にエイメを上回る人物で――という展開から、エイメが己に足りない部分を悟るのも、巧みというべきでしょう。

 まあ、エイメは最後までエイメらしく荒くれなのですが……


 一頃に比べれば扱う作品は増えてきた印象はあるものの、まだまだ作品数は少ないオスマン帝国。そこにこのようなユニークな切り口で、そして何よりも漫画として楽しく描いてみせた本作ですが――読み終えて驚いたのは、読み切りであったこと。
 このまま第一話でも全く違和感がないだけに、ぜひこの先を読んでみたい、連載化してほしいと思います。


 最後に野暮を承知でルート皇子のモデル探しですが――作中でエイメが、ダ・ヴィンチが亡くなったのに伴い、ハンガリーに帰ったところを捕らわれたと語っているところを見れば、物語は1519年から遠くない時期(もしくは同年)、この時期のオスマン帝国皇帝といえば、1520年に26歳で即位したスレイマン1世がおります。

 スレイマン1世とルート皇子の生い立ちは色々と異なっておりますし、何よりもルート皇子が後に皇帝になるとは限らないのですが――学問や芸術を好んだとされる皇帝の傍らにダ・ヴィンチの孫娘がいたとすれば、それは実に胸躍ることではないでしょうか。


『新月の皇子と戦奴隷~ダ・ヴィンチの孫娘~』(桃山あおい くらげバンチ掲載) 掲載サイト

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2023.11.11

畠中恵『忍びの副業』下巻 ミステリとして、忍者ものとして、政治ものとして

 江戸時代後期、西ノ丸・徳川家基に見出され、忍びとして「副業」に燃える甲賀者たちの姿を描く物語のクライマックスであります。幾多の波乱を乗り越え、西ノ丸に受け入れられた甲賀者たちが直面する、鷹狩での相次ぐ怪事。はたして甲賀者たちは家基を守り抜くことができるのか……

 戦国時代に活躍し、徳川家に召し抱えられた忍びたちが、江戸城警護を「本業」とする時代。先祖代々受け継がれてきた技を受け継ぐ三人の甲賀者、弥九郎・十郎・蔵人は、ある日、西ノ丸に呼び出されることになります。
 将軍の嫡男として次代将軍に最も近いところにいる西ノ丸・家基。しかしその周囲におかしな動きが相次いでいるというのです。その警護を甲賀者に頼みたいという言葉に奮い立つ弥九郎たちですが――しかし彼らの「副業」には思いもよらぬ様々な困難が立ち塞がります。

 斑猫の毒が密かに流通しているという噂を追ううちに、自分たちを含めた忍びの危険性を悟った弥九郎。彼は西ノ丸を守るために、西ノ丸から自ら離れることを決断することに……


 という思いもよらぬ展開を迎えた上巻のラストを受けて、下巻は弥九郎たちの再起の物語から始まります。

 千載一遇の機会を自ら手放したことで、甲賀者たちから村八分され、謹慎処分となった弥九郎たち。しかしある日、これまでにない動きを見せた曲玉の占いの中で、彼らは何者かの駕籠が襲撃を受けている場面を目撃します。
 占いの導きでその場に向かい、襲撃者を撃退してみれば、襲われていたのはなんと老中・田沼意次。家基の敵の一人とも噂される意次と対面したのをきっかけに、弥九郎と甲賀者たちは意次と縁を結び、再び西ノ丸に仕えることになるのでした。

 しかしその後も大小様々な事件が続きます。外出した西ノ丸一行がそのまま江戸城に戻らず消息不明になったり、蔵人の姉・吉乃の嫁入りの仲介に四家ものの武家が動いたり――そんな中、最大の事件が起きることになります。
 将軍とその後継者には避けて通れない、そして最も危険の大きな鷹狩。その場で、鳥見役たちが四人も毒で死んだというのであります。さらに時同じくして、同じ狩り場の周辺で、別の中毒事件や熊の乱入、銃の暴発など不審事が重なったというではありませんか。

 家基を狙う企てとして、総力で犯人を追う弥九郎たち甲賀者。そして、ついに家基が参加する鷹狩の日が訪れるのですが……


 上巻に引き続き、こうした甲賀者たちの奮闘が描かれる本作は、大きく分けて三つの要素から構成されているといえます。
 一つはミステリ――上で述べたように、本作の各話で起きる様々な事件は、いずれも「謎」という形で描かれ、その謎解きが物語を動かしていくことになります。この辺りは、やはり作者ならではのセンスでしょう。

 そして二つ目は忍者もの。これはもう忍びが主人公ですから当然ではありますが、徳川配下の甲賀・伊賀・根来に、他家の忍びまでも加わっての乱戦模様が、上巻以上に展開することになります。
 弥九郎たちは普段から得意とする技があるのですが、しかし実は秘中の秘の隠し技が――という、実に忍者ものらしい設定には、忍者好きとしてはシビれてしまいます。

 そして三つ目は政治もの――本作は忍びの目から見た物語ではありますが、メインに描かれる将軍の後継者争いであり、そしてそこの中で蠢く幕閣や官僚たちの姿であります。
 こうした、一種官僚もの的趣向で江戸城内を描く作品は少なくありませんが、それを忍びという一種の局外者の目から描くことによって、本作はある種の新鮮さと客観性を生み出していると言えます。

 歴史時代小説でも、こうした趣向の作品はあまり多くないのですが――そこに畠山恵が乗り込んでくるとは! と大いに驚き、そして嬉しくなった次第です。
(ちなみにクライマックスで主人公の○○シーンが描かれたのは、おそらく作者の作品では初めてではないでしょうか)


 さて、ここでは多くは述べませんが、物語は史実通りの結末を迎えることになります。弥九郎たち甲賀者は、夢を失った形となるのですが――しかしそれは彼らの戦いの終わりを意味するものではありません。

 忍びとしての夢を失った代わりに、忍びとしての誇りを取り戻した彼らが挑む、新たな「副業」とは――この物語の続編が描かれることを強く期待しているところです。


『忍びの副業』下巻(畠中恵 講談社) Amazon


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畠中恵『忍びの副業』上巻 甲賀者復活!? 太平の世の忍びを描く本格派

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2023.10.28

畠中恵『忍びの副業』上巻 甲賀者復活!? 太平の世の忍びを描く本格派

 妖が登場する作品、あるいは青春ものを中心に描いてきた作者が忍者ものを描くと聞けば、黙ってはいられません。そして手にした物語の内容は――これが作者らしい変化球の、しかし同時に驚くほどに本格的な作品。西の丸・徳川家基に仕えることになった若き三人の甲賀者たちの奮闘の行方は……

 時は江戸時代後期、戦国時代の活躍は遠く、今は江戸城の大手御門の警備役として変わらぬ毎日を過ごす甲賀者。そんな中でも、先祖伝来の技を会得し、上忍と呼ばれる三人の若者――滝川弥九郎、望月十郎、土山蔵人は、常につるんでいる親友同士であります。

 そんなある日、風に飛ばされて本丸御殿の屋根に乗ってしまった書類を拾ってほしいという依頼を受けた三人。蔵人の姉・吉乃の嫁入りで金が必要なこともあり、引き受けた弥九郎たちですが、次いで富士見櫓に登ってしまった猫を下ろしてほしいという依頼が入ります。そしてこの二つの依頼が、弥九郎たちの運命を変えることになるのでした。

十代将軍家治の嫡子として、次の将軍と目される西之丸・徳川家基。しかしその家基を亡き者にしようとする企みがある――その警護のために忍びを用いるとしても、伊賀者は警備箇所の関係で大奥とも関係がある。それならば、と、しがらみのない甲賀者に声がかかったのです。

 これまで日の当たらなかった甲賀者たちの運が開き始めたと、勇躍立ち上がった弥九郎たちは、これまで使う当てもなく修行して身につけた忍術を振るって活躍しようとするのですが……


 というわけで、太平の時代に駆り出されることになった忍びたちの奮闘を描く本作。太平の時代の忍びというシチュエーション自体は、もちろん本作独自というわけではありませんが、しかしここで描かれるのが、家基と甲賀者という組み合わせというのが、なんともユニークであります。

 作中でも述べられているように、戦国時代が終わり、幕府に召し抱えられたものの、鉄砲同心として大手御門などを守る役となり、「忍び」とは程遠い存在となってしまった甲賀者。フィクションの世界でも、大奥警護など、いかにもそれっぽい(?)役があった伊賀者が様々な出番がある一方で、どうにも影が薄い印象があります。
 そして、そんなこの時代の甲賀者を象徴するのが本作のタイトルであります。彼らにとって本業は御門の警護――忍びの技を使っての務め(本作でいえば西之丸の警護)は、あくまで副業なのですから!


 本作はそんな忍びたちの表の顔と裏の顔を、丹念に描き出します。決して派手なばかりではない(そしてもちろん地味なだけでもない)その姿は、太平の世の忍びの姿として何とも説得力が感じられます。

 その代表が、弥九郎たちの前に立ち塞がる「敵」です。副業とはいえようやく忍びの腕の使い所を得た弥九郎たちですが、しかし彼らの前には思わぬ苦難が待っていたのであります。
 西之丸に元々使える武士たちからの偏見と疑いの目、姿なき敵方の忍びの暗躍――特に忍び同士の対決はともかく、味方であるはずの西之丸の武士たちとの付き合いに悩まされるのは、弥九郎はもちろんのこと、読者にとっても意外な展開であります。

 この辺りの何ともいえぬ、現実にありそうな苦味は、ユーモラスな空気――本作もやはり、どこか暢気な弥九郎のキャラクターもあって、必要以上の緊迫感は薄い作風ではあります――の一方で、フッと人の世のシビアで重い部分を突きつけられる作者の作品ならではと感じさせられるのです。
(御門警護では同僚である根来組が、甲賀組にあやかろうと何かと近寄ってきたり恩を売ってくるのも何とも「らしい」)


 この上巻のラストでは、そんな幾重もの困難の末に、弥九郎はある苦渋の決断を迫られることになるのですが――忍びとしての甲賀者の復活という悲願を断つようなその決断から、弥九郎たちは再び立ち上がることができるのか。
 そして歴史ファンであればよくご存知である、家基にまつわる史実を思えば、この先の展開が大いに気になってしまうことは間違いありません。

 幾つもの波乱が待ち受ける下巻も、近日中にご紹介いたします。


『忍びの副業』上巻(畠中恵 講談社) Amazon

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2023.10.22

士貴智志『どろろと百鬼丸伝』第9巻 死霊と異邦人の愛の結末 そして物語は「岬」へ

 いよいよ単行本二桁も目前となった新どろろ、この巻の冒頭で鯖目との戦いは決着して物語は新たな展開を迎えます。どろろの背中の地図に描かれた地を前に、どろろと百鬼丸の前に現れた者たちとは――新たな戦いの予感が漂います。

 旅の最中、尼僧の幽霊と巨大な赤子の妖怪に導かれ、皆同じ顔の女たちと百姓が暮らす不気味な村にたどり着いたどろろと百鬼丸。領主の死んだ目のような男・鯖目とその妻・舞姫に歓待される二人ですが、やがて鯖目と舞姫は驚くべき正体を現します。
 百鬼丸の体を奪った死霊の一人である鯖目と、宇宙から漂着した異邦人である舞姫――故郷に帰ろうとする舞姫、そして彼女と結んで世界を制覇しようとする鯖目と、百鬼丸は激闘を繰り広げることになります。

 しかし鯖目との戦いは前巻でほぼ決着し、この巻の冒頭で描かれるのは、鯖目と舞姫の物語のエピローグというべき内容であります。百鬼丸に敗れた鯖目の前で、宇宙からの迎えが訪れた舞姫。しかし彼女たちに殺された子供たちの幽霊は、舞姫を斬れと百鬼丸とどろろに求めます。はたして二人の選択は……

 と、これは前巻でも描かれていましたが、原作ではむしろ村人を扇動して、幽霊たちとともに、舞姫の子である尼僧たちを殺しにかかっていたのとは対照的に、どろろは舞姫たちに情けをかけようとします。
 もちろん犠牲者である幽霊たちにとって、舞姫とその眷属は憎んでもあまりある存在であり、第三者であるどろろが、その是非を判断できるものではないかもしれません。しかし故郷に帰りたいと嘆く存在を前に、非情にはなれないという想いもまた、どろろには相応しいと感じられるのです。

 これまでも、原作で悲劇に終わった内容を(時に完全でないものの)回避し、より希望ある物語を描いてきた本作。だとすればここで描かれる鯖目と舞姫の愛の結末も、本作に相応しいものというべきなのでしょう。


 そして「鯖目の伝」に続くのは、疫病で滅びかけた村の池に潜む怪を描くオリジナルストーリー「水に潜みしものの伝」。腹を膨らませ、制止されても憑かれたように水を飲み続ける村人たちと、その村人たちを支配する「水」、そしてそこに潜む存在など、怪奇色濃厚な展開は、これはこれで実に「らしい」と感じます。

 が、その正体がメジャーすぎてインパクトが小さいのが残念なところで、ある意味本筋に関わらない、番外編的な印象も強い内容ではあります。(本編の「未来」を舞台にしたプロローグとエピローグも、効果的とは言い難い印象)
 もっとも、この章のメインは、水に見せられた幻覚の中でどろろが思い出す母との思い出と、そこから抜け出したどろろに百鬼丸がかける言葉なのかもしれませんが……


 そしてこの巻の後半でスタートする「背負いしさだめの伝」では、季節は変わり、いつの間にか百鬼丸も三十三匹の死霊を斬ったことが語られます。
 残すところあと十五匹と、二人の旅も佳境に入ったことが窺われますが――ここで二人が見つけたのは、どろろの背中に描かれた地図の風景。そしてそこに現れたのは、そこに隠された財宝を狙う、どろろの父の部下だった男・イタチ……

 と、原作では後半の一つの山場であった「無情岬」のエピソードにいよいよ突入することになります。野盗たちの首領でありながら妙に人の良いところのあるイタチ、不気味な存在感を放つ少年・不知火と、早くも役者が揃ってきましたが、しかし本作ではそこに新たな人物が加わる様子であります。

 それは多宝丸――本作においては生き延び、そして百鬼丸とは和解した彼が、この巻のラストでは、自分の生き方を見つめなおした末に、すっかりいい顔の男になって再登場。なんだか百鬼丸よりも主役らしい雰囲気すら得た彼が、この先物語にどのように絡むのか、大河ドラマならではの楽しみがあります。


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士貴智志『どろろと百鬼丸伝』第8巻 人間と死霊と異邦人 相容れぬ存在の間に

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2023.10.19

ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第14巻 新九郎、社会的に色々と成長す!?

 借財という大敵を何とか退け、そしてついに無役から脱出して三冠王を返上した新九郎。さらに新九郎の身に大きな変化が訪れることになります。しかしその間にも世の状況はめまぐるしく動き、関東でも決定的な変化が……

 膨らみ続ける借財を前に、一度は伊勢家解散の危機に陥ったものの、分一徳政を使って心ならずも借財をクリアした新九郎。さらに将軍義尚の奉公衆、それも申次の役に就き――と、無位・無冠・無役の三冠王からついに脱出であります。
 そして、新九郎の身の上はまだ動き続けます。それは嫁取り――ついに新九郎も妻を迎えることになったのです。しかし、職にもついたし、次は嫁でも――などという軽い(?)ノリではないのが本作らしいところであります。何しろそこには、義尚の屈託、そして義政との軋轢があるのですから。

 ようやく将軍位に就いたものの、その上にはなお義政の存在が厳然として存在する義尚。若い彼にとってその状況は楽しいはずはもちろんありませんが、それが彼の乱行に繋がれば、周囲の者も穏やかではいられません。
 彼に寵愛(意味深)され引き立てられた元猿楽師・広沢彦次郎尚正への周囲の反発(細川政元のリアクションには爆笑)、義尚の奉公方と、大御所に近い奉行衆の対立――そんな状況下で、娘のぬいを義尚に仕えさせるよう求められていた小笠原政清は、新九郎に声をかけ……

 と書くと政略結婚、というより押しつけのようですが、しかし新九郎にとってもこれは願ってもない、いや自ら望んだ婚姻。新九郎自身の想いだけでなく、ぬいはこれまでもその明るさと拘りのなさで、伊勢家の郎党たちに絶大な人気を得ていたのですから。
 かくて結ばれた新九郎とぬい。生真面目で細かい新九郎と、鷹揚でアバウトなぬいと――似てないからこそぴったりと合う、そんな微笑ましい夫婦の姿には、不穏な展開が続くからこそ、ホッとさせられます。

 しかしこの辺りの、新九郎の家庭事情と、幕府の状況を絡め、有機的に物語を描いてみせる手法は、これまでも同様ではあるのですが――ようやく社会的に一人前になってきた新九郎の結婚という人生の一大イベントと重ね合わせる形で(というかそのイベントのみを描くのではなく)、平時においても内部では嵐の予兆渦巻く幕府の状況を描くのには、ただただ、巧いなあと嘆息させられるのです。
(巧いといえばこの巻の表紙――ただ一つの絵で二人の関係性を感じさせるのもまた実に巧い)


 しかし、そんな中で、生真面目だった新九郎の中にも、徐々に「黒い」部分が窺われるようになります。
 これまで世知に長けた相手に翻弄されるばかりだった従兄弟の盛頼に対しても対等に渡り合い、そして伊勢家の所領を巡っても、彼自身が驚くような黒い内容を呟き――彼もまた乱世の申し子と、後の「活躍」を思わせる姿は、頼もしいと喜ぶべきか、スレたと悲しむべきか、複雑な気持ちになります。

 そして、その「活躍」の舞台となる関東も、激動前夜というべき状況となります。
 前巻で堀越公方・足利政知が下したある決断が、京の状況と結びついたことで後の波乱を予感させ(ここで描かれるあるキャラの表情がまた絶品!)、そしてやはり前巻での新九郎の仕掛けが遠因となったか、彼にとって越えられない壁であった太田道灌がついに……

 新九郎の出番はもう少し先ではありますが、しかしもう一つの物語の舞台として、全く目が離せない関東の情勢。さらに次巻ではそこに、再び駿河の状況が描かれるというのですから――身を固めたとはいえ、新九郎の周囲はこれまで以上に慌ただしくなることは間違いないのであります。


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ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第4巻 地方から見る応仁の乱の空間的、時間的広がり
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第5巻 「領主」新九郎、世の理不尽の前に立つ
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第6巻 続く厄介事と地方武士の「リアル」
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第7巻 室町のパンデミックと状況を変えようとする意思
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第8巻 去りゆく人々、そして舞台は東へ
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第9巻 新九郎戦国に立つ!?
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第10巻 舞台は駿河から京へ そして乱の終わり
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第11巻 想い出の女性と家督の魔性
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第12巻 家督問題決着!? そして感じる主人公の成長と時間の経過
ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』第13巻 ついに借財ゼロ、三冠王返上!?

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2023.10.06

速水螺旋人『スターリングラードの凶賊』第1巻

 第二次世界大戦において、ソ連とドイツが激突し、史上最大の市街戦と呼ばれたスターリングラードの戦い。この凄惨な戦いを背景に、二丁拳銃の美少年殺し屋と、得体の知れぬ東洋人ペテン師のコンビが暴れ回る、何とも奇妙な漫画であります。

 1942年、NKVDに処刑されかけていたところを、二丁拳銃の美少年に救われた東洋人の男。ならず者たちだけが住む町・十字路砦の顔役の命で、スターリンがトルコに持ち込む予定だった一万ポンドを狙ってミゲルスクに向かった二人ですが、町は既にドイツ軍に占領された後でありました。
 ここで突然、自分は日本軍の特務機関の将校だと名乗り、ドイツ軍に保護を求めた東洋人の男。彼の裏切りで、殺し屋の美少年はドイツ軍に捕らえられてしまうのですが……

 と、殺し屋の美少年=ルスランカと、東洋人のペテン師=トーシャ(トシヤ)の二人が、痛快にドイツ軍を出し抜く第一話(このエピソードだけでも独立した作品として楽しめるほどの完成度)に始まる本作。
 この後、悪党しかいない十字路砦の住人となったトーシャは、ルスランカとコンビを組んで、様々なトラブルを片づけていくのですが――ドイツ軍の進撃に伴い、十字路砦はスターリングラードに拠点を移すことになります。

 しかし、そのスターリングラードにドイツ軍が突入、街を瓦礫に変える激しい市街戦が繰り広げられる中、二人は相変わらず悪党稼業に精を出すのですが……


 1942年9月に始まり、翌2月に終結したスターリングラード攻防戦。東進するドイツ軍(枢軸軍)に対してソ連軍が激しく抵抗し、双方併せて200万人の死者を出しただけでなく、スターリングラードの住人も凄まじい犠牲を払った、歴史に残る凄惨な市街戦であります。
 本作はその戦いを背景に、凶賊――殺し屋とペテン師のコンビを中心とする悪党たちがしのぎを削る物語であります。

 というより登場人物はほとんど全員が悪党か、そうでなければ外道。自分が生きるためであれば、人が死ぬことも、人を殺すことも何とも思わないとんでもない連中(その代表格がルスランカ)が殺し合うのですが――そこに逆に爽快さすら感じられるのは、その背景である戦争が陰惨過ぎるからにほかなりません。
 イデオロギーや愛国心といった大義名分の下に、それが当然であるかのように人が人を殺し、殺される戦争。それに比べれば、自分たちの欲望のために悪党が殺し合う姿は、それが自分に正直であるだけに、むしろカラッとしたものに感じられるのです(もちろんそれは一種の錯覚なのですが)。

 そしてそんなスタンスを通じて、本作はソ連軍とドイツ軍のどちらかの視点に立つのではなく、そのどちらも――要は戦争するやつはどちらも――等しくク○であると、はっきりと描き出すのです。
(といいつつ、悪党たちが集う十字街もまた、そんな「戦争」と無縁でないことを、本作は第二話でこれでもかとばかりに描いているのですが……)

 さらにまた、そんな洒落にならない陰惨な世界を、時にサラリと、時にコミカルに描けるのは、この構造もさることながら、作者のディフォルメの効いた、時に可愛らしい画の力によるところが大きいこともまた、言うまでもありません。


 閑話休題、そんな本作に漂う空気は、戦争ものというよりむしろ、マカロニウェスタンのそれに感じられるのですが――実は本作の冒頭には、「二人のセルジオへ。敬意とともに」という言葉が掲げられています。
 ここでいう二人のセルジオとは、おそらくコルブッチとレオーネ――共にマカロニウェスタンの巨匠というべき監督のことでしょう。

 なるほど、こちらの印象は正しかった――というのはともかく(そういえば各話の合間のページに描かれている、イイ顔の男たちは……)、この先も自分の欲望に正直な悪党たちが、大義名分を振りかざす戦争を後目に大暴れする姿を見ることができそうです。

 もっとも、マカロニウェスタンの世界では、そんな連中もまた、あっさりと死んでいくのですが……


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2023.09.29

張六郎『千年狐 干宝「捜神記」より』第10巻

 『捜神記』を題材に妖狐・廣天の冒険(?)を描く本作もついに単行本二桁に突入。都の妖考事部に入った廣天を描く「捜神怪談編」も、いよいよこの巻で完結であります。思わぬ出来事から深手を負った末、殺人犯として獄に繋がれてしまった廣天の運命は、そして石良の夢の真実とは……

 道術大会の仲間たちと別れ、色々あって都の怪奇事件を担当する妖考事部に入った廣天(と神木)。そこで異常に暗がりを恐れる青年役人・石良とチームを組んだ廣天は、次々と事件を解決していくのですが――石良の親戚で異常に彼に執着する大富豪・石崇に目を付けられてしまうのでした。
 そんな中、とある宿に現れる狐の化物を逃がそうとして、わざと負った傷が想像以上に深手だった廣天。さらに狐に戻って倒れてしまったところを、よりによって石崇に目撃されてしまった彼女は、石崇の手回しによって殺人の冤罪を着せられ、妖考事部も解散することに……

 という風雲急を告げる展開から始まるこの第十巻。廣天が牢に入れられるのは確か第一巻以来ですが、その時以降、廣天と比較的長期に渡って行動を共にするのは、基本的に彼女の正体を知っている者ばかりであったように思います。
 そのため、廣天が狐と知れて大事になるのは不思議な気がしてしまいましたが、それはこちらの感覚が麻痺してしまっただけなのでしょう。

 それはさておき、廣天の方も傷を負っていたとはいえ、第一巻で牢に入れられた時の余裕ぶりとは異なる印象があるのは、彼女が様々な「人間」と触れ合い、そして「人間」として暮らしてきたから――というのは、彼女の妖考事部への馴染みっぷりを思えば、決して考え過ぎではないと感じられます。

 思えばこれまでも、廣天は「狐」なのか「人間」なのか、はたまた「妖」なのか、様々な形で問われてきました。それを思えば、人間たちの暮らす街に入り交じって現れる妖たちを描いてきた「捜神怪談編」のクライマックスに、これは相応しい展開というべきかもしれません。

 しかしあくまでも「廣天」は「廣天」。彼女が何者かを決めるのは、彼女本人と、そして彼女と行動を共にした者ではないでしょうか。だとすればこの「捜神怪談編」で廣天以外にそれを決められるのは――そう、石良であります。
 その石良が何を想い、どのように行動したか、それはここで詳しく述べる必要はないでしょう。しかしそんな彼の存在が、廣天にとって、そして彼女を見守ってきた我々にとっても、一つの救いであることは間違いありません。
(しかし、石良が連れてきた証人のインパクトがありすぎて……)


 さて、この「捜神怪談編」には、もう一つ解決されるべき問題、石良を苦しめてきた悪夢の存在があります。
 熱を出して寝ていた子供が、高い窓から覗き込んでいる何者かに気付き、部屋から抜け出して廊下の闇の中で何かを見る――第八巻の、すなわち「捜神怪談編」の冒頭で描かれ、石良が異常なまでに暗がりを恐れることとなったその原因である悪夢の正体は一体何なのか?

 ここで廣天の導きで自分の夢の中に入った石良が見た真実は――これも詳しくは述べませんが、そうか、そうきたか! といいたくなるような一種ミステリのトリック的な内容には唸らされました。
 これまでのエピソードでも小さな伏線を積み上げて、思いも寄らぬ、しかし納得の真実を描いてきた本作ですが、それはこの章においても健在というほかありません。

 そしてその悪夢から解放された石良が見る夢は――それは何と恐ろしくも、何と魅力的であることか。もちろんそれは、この「捜神怪談編」全体にも当てはまる言葉なのですが……


 これまでと違い、次章のタイトルや内容がまだ決まっていない様子なのは少々気になりますが、またいずれ遠くない日に、新たな一歩を踏み出した廣天の姿を見ることができるのを楽しみにしてます。


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2023.09.05

峰守ひろかず『少年泉鏡花の明治奇談録』

 実在の有名人が登場するフィクションは様々にありますが、本作の主人公は、まだ15歳の少年時代の泉鏡花。金沢で暮らす「おばけずき」の少年である彼が、現実の(?)怪異に出会うために出向いた先で出会う、怪事件の数々を描く物語であります。

 時は明治21年、金沢で人力車夫として働く青年・武良越義信が英語を学ぶために訪れた私塾で出会ったのは、寄宿生にして英語講師でもあるという少年・泉鏡太郎。しかし少々高い受講料に入塾を断念しようとする義信ですが、そこで鏡太郎は奇妙な条件を出すのでした。
 それは「怪異な噂」を持ってくること――噂だけでも受講料の支払いを待つし、、さらに本物の怪異に出会うことができればなんと受講料を免除するというではありませんか。実は鏡太郎は無類のおばけずき、何とか本物のおばけに出会うことを夢見ていたというのです。

 その条件を呑んで、鏡太郎の下に様々なうわさ話を持ち込む義信。それだけでなく、成り行きから鏡太郎と行動を共にすることになった義信は、この世のものとは思えない出来事に次々と遭遇することになるのですが……


 冒頭に触れたように、実在の有名人が登場するフィクションは数多くあり、泉鏡花もまた、その個性的な言動から、様々な作品に登場しています。しかし本作はその鏡花が主人公、しかもまだ金沢に暮らす十代の少年であった頃を題材にしたという点で、非常にユニークな作品であります。
 元々金沢生まれの鏡花は、明治21年時点では通っていたミッションスクールを退学し、同郷の教育者・井波他次郎の私塾に寄宿して英語の講師をしていた時期。そこで大好きな小説類を没収されたり外出禁止を言い渡されたりしたものの、しばしばランプの油を買いに行くと称して、貸本屋に通った――という、いかにもなエピソードは、本作にも登場するとおりです。

 さて、本作はそんな鏡花、いや鏡太郎が、後年知られるようになるおばけずきぶりを発揮し、金沢で起きる様々な怪奇事件に首を突っ込むことになります。しかしおばけずきの例に漏れず(?)真怪と偽怪の違いにうるさい鏡太郎は、図らずも事件の背後に潜む真実を探偵役として解き明かしていくことになって――という趣向であります。

 そんな本作は全五話構成。数々の妖が出没するという化物屋敷、人間を獣に変えてしまうという山中の美女、巫女役が必ず自ら命を絶つという雨乞いの祭、金沢城跡に浮かび上がるかつての城の姿――こうした数々の怪異を描くエピソードには、「草迷宮」「高野聖」「夜叉ヶ池」「天守物語」「化鳥」と題されています。
 これはいうまでもなく後に彼が著す名作の数々から取られたものですが、その内容、すなわち鏡太郎が経験した事件の内容とその真実が、後の作品の影響に与えた――という趣向は、有名人(探偵)ものの定番であるものの、やはり楽しいことは間違いありません。

 また楽しいといえば鏡太郎のキャラクターで、おばけの話となるととたんに早口で止まらなくなるのも、まず微笑ましい(それが本を引き写したような内容なのは、まあそれはそれで微笑ましさの一部なのでしょう)。
 そして何よりもおかしいのは、鏡太郎の年上女性好きであります。自分と同年代の少女には塩対応なのが、高貴で神秘的な雰囲気の年上美女にはコロッと参ってしまうのは――後年の鏡花作品のヒロインを見ればやっぱり納得で――何とも愉快としかいいようがありません。

 しかしそれが単なるおかしさだけでなく、鏡太郎というキャラクターの陰影につながっているのもまた巧みな点でしょう。いや、鏡太郎だけでなく、登場人物の多くは、それぞれの形で過去を背負い、そしてその重みに喘ぐ者であることが、物語の中で明らかになっていきます。
 明治維新、文明開化の荒波の中で悩む者たちの姿を、怪異を通して描く――作中のその姿は多くの場合、儚さともの悲しさがつきまといますが、それもまた、鏡花を主人公とし、そして鏡花を描く物語ならではというべきでしょうか。


 展開的に続編は難しいように思うものの、できればその後の鏡太郎少年の姿を、彼が「泉鏡花」になるまでを描いてほしいという気持ちも、もちろんあります。


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