2024.09.16

白凜之の過去、そして信念を貫いた代償 青木朋『天上恋歌 金の皇女と火の薬師』第10巻

 記念すべき第十巻ですが、物語の方は更なる激動の展開に突入します。宋と遼の間の密約を知り、追求する白凜之と皇太子。しかしその背後には、思いもよらぬ巨大な存在が待ち受けていました。再び歴史が動き出す中、己の信じるところを貫いた凜之を待つ、残酷な運命は……

 再び親善使節として宋を訪れた際、行方をくらましている遼皇帝・アグーとの対面を可能とする割符の存在を知ったアイラ。数々の冒険の末に割符を発見したアイラと康王ですが、その結果、アグーに宋の毒物兵器を横流ししている者がいることを知ります。
 その名は、蔡大学士――権力を恣にする蔡京の子にして、皇帝の寵臣。この国の権力の中枢に居る彼の名を知って驚く二人は、さらに意外な真実を知るのでした。

 一方、かつての婚約者である閻月琴という後ろ盾を得て、研究に打ち込む白凜之は、その彼女が毒物兵器を密かに作り、横流しに加担していたことを知ることになります。
 かつて、女性ながら学問に強い興味を抱き、優秀な技術者であった司馬公奇に弟子入りした月琴。そこで公奇の息子・嚴――白凜之と出会い、そして許嫁同士となった二人ですが、運命の変転で引き離されたのでした。

 それがようやく再会し、共に働くようになったと思いきや、再び立場を違えた二人。それでも、自分の信念を貫く凜之ですが……


 前巻では出番がかなり少なかったのに対し、この巻では再び前面に登場することになった白凜之。これまで彼の過去については断片的に語られるのみでしたが、今回、その過去の全容が描かれることになります。

 尊敬する父・公奇との生活と月琴との出会い。公奇の死と一族の没落。月琴との婚約解消と出家。そこでの皇太子との偶然の出会い――そして出家しても続けてきた研究を皇太子に見出され、彼は物語冒頭に登場した姿となったのです。

 彼の運命の変転のきっかけとなったのは、西夏の鉄騎兵に父が殺されたことであり、それが凜之の兵器研究の原動力でもあったのですが――しかしアイラと出会ったことで、彼の心に変化が生じました。
 はたして金の人々に対して兵器を用いることが――敵対することが正しいのか? これまでの物語を見れば、十分頷ける凜之の考えの変化ですが、そんな彼からすれば、月琴の行動は、看過できるものではありません。

 しかし月琴の背後にいたのは、蔡大学士をも上回る巨大な存在。それでも己の信じるところを貫こうとした凜之ですが――それはまさに蟷螂の斧というほかなかったのです。


 もちろん、宋という国の立場から考えれば、凜之の方が異端であることは間違いありません。しかしそれでもなお、凜之が直面することになった真実には――それは現代の我々だからこそ感じられるものかもしれませんが――人の道に背くものとして、違和感と嫌悪感を感じることは否めません。
(まあ、身も蓋もないことを言ってしまえばこの展開によって、この先の宋側の人々の運命に対して、読者の同情心を薄れさせるのは、なるほどと思ってしまうのですが……)

 しかし、こうした場合、人として正しい道を歩もうとした者がどのような運命を辿ることになるか、我々は様々な物語を通じて知っています。
 というより、この巻のラストで描かれた凜之の姿は、「あっ、これ水滸伝で見たやつだ!」となるのですが――さて、水滸伝のように、窮地の彼に助けは現れるのか。

 いずれにしても、この先の彼はどこに向かって歩むのか――更に言ってしまえば、彼は誰につくのか。何とも気になるこの巻のラストなのです。


『天上恋歌 金の皇女と火の薬師』第10巻(青木朋 秋田書店ボニータコミックス) Amazon


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2024.09.07

剛腕僧侶の意外な正体!? 木々峰右『寺の隣に鬼が棲む』第1巻

 「寺の隣に鬼が棲む」というのは、慈悲を施す寺の隣に邪悪な鬼が棲むように、この世は善人と悪人が入り混じっているという喩えですが、本作は本当に寺の隣(近所)に棲む鬼と、ある僧侶の奇妙な交流の物語。最強を目指す鬼の少年がつきまとう、やたらと腕っぷしの強い僧侶の正体とは……

 時は平安時代、とある山奥の寺に身を置く僧侶・真蓮のもとには、毎日のように鬼の少年・山吹が現れ、勝負を挑んでは適当にあしらわれていました。

 最強の武士・源頼光を倒し、最強の鬼になって妖の頂点に立つという目的のため、僧侶ながら異常に腕っぷしの強い真蓮を乗り越えようとムキになる山吹。しかし真蓮から、源頼光は百年も昔の人物で既にこの世にないと教えられた山吹が愕然とするのでした。
 しかし真蓮の同僚の僧・早達は、そんな山吹に、今生きている中で一番強い人間を倒せばいいと吹き込みます。源頼光の子孫であり、かつて鵺を退治したという武士・源頼政を。

 俄然やる気になり、頼政がいるであろう京に向かって旅立つ山吹ですが、その前に現れたのは……


 本作は、そんな内容でSNSで評判となった「最強になりたい鬼っ子と最強のお坊さんの話」を第一話として連載化された作品です。

 ある意味、この第一話のタイトルが全てを示しているともいえますが、物語がこの後、素手の一撃で大妖を文字通り叩き潰し、刀を振るえば大地を切り割るという、常人離れした真蓮と、夢は大きいけれども実力がまったく追いつかない山吹が、わちゃわちゃと日々を過ごす姿を中心に描かれていきます。

 そもそも山吹が最強を目指す理由というのが、源頼光に頭領である酒呑童子を倒されたため、鬼族の地位が妖の間でダダ下がりして、今では人間にも舐められるほどになった名誉を挽回したいから――というのはなかなか健気ではありますが、何しろ山吹は弱い。というより真蓮が強すぎる。
 本作では基本的に、そんな鬼と人間で立場が逆転したような二人の交流がのどかに描かれます。

 しかし、これだけ常人離れした力を持つ真蓮にも、何か秘密があるのでは、と想像するのは当然ですでしょう。実は彼こそは――というのはわかる方にはすぐわかるかもしれませんが、それでもそう来るか! と驚かされることは間違いありません。

 もっとも、史実に照らすと真蓮が出家したのは相当年を取ってからであり、その頃には本作に登場する××は既にアレしていたりしているので、これはもう史実をアレンジしたファンタジーとして受け止めるべきなのでしょう。
(そもそも史実には鬼はいない、とか言わない)


 それでも、それぞれに色々と抱えるもの、背負っているものがある二人が、不器用ながらも交流をしていく姿は微笑ましくはあるのですが――いかんせん、第一話のインパクトが大きすぎて(そして綺麗にまとまりすぎていて)、それ以降は厳しい言い方をすれば余談のように感じられてしまうのが辛いところです。

 この巻のラストのエピソードでは、物語が一気にシリアス方面に展開することになるのですが、さてこれがこの後、どのように影響することになるのか?
 山吹が真蓮の正体を知ってからが本番のような気もしますが、ここからどのようにして物語を盛り上げていくのか、気になります。


『寺の隣に鬼が棲む』第1巻(木々峰右 スクウェア・エニックスGファンタジーコミックス) Amazon

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2024.08.25

鶴淵けんじ『峠鬼』第7巻 激突「誓約(うけい)」バトル!そして神という存在の意味

 どのような願いでも叶える一言主に会うための旅であったはずが、人と神の複雑な思惑が重なり、大事になってきた役小角・善・妙の旅。一度離散し、ようやく合流した三人ですが、今回その前にとんでもない神が登場します。人間側の事情などおかまいなしの神を抑えるため、妙が立ち上がるのですが……

 今は月に棲まうという一言主のもとに向かっていたはずが、アクシデントで散り散りになってしまった役小角・善・妙。
 それぞれに思わぬ真実を知り、再び合流した三人ですが、離れ離れの間に明らかになったのは、近江の直宮方と吉野の東宮方の衝突が目前に迫っていること、そして近江方の背後では三世上人が暗躍しているという事実でした。そして上人の計画は、一言主を癒やすために全ての人間を犠牲にしかねないものだったのです。

 一方、一言主も語れなかった鬼の秘密を知るという上人。しかし彼と短い間とはいえ旅を共にした妙は、その恐るべき正体に思い当たってしまい……

 というわけで、三世上人の存在がいよいよ物語の中心に躍り出てきた感がありますが、この巻では、それがとんでもない神をも引き寄せることになります。
 前巻のラストで、様々な神器を簒奪・濫用しているという者を調査するため、天津神と国津神の衆議によって人界に送り出された神。その名は――須佐之男!

 確かに人界にも縁の深い神ですが、よりにもよってあの荒ぶる神を――と、作中の神々も人間も、そして我々読者も思ってしまう須佐之男。その不安はもちろん(?)的中し、その凄まじいパワー、そしてそれ以上に他者の話を全く聞かないマイペースぶりは、小角一行を振り回しまくることになります。

 お目付け役の思金鐸のおかげで、子供姿には変わったものの、その暴れっぷりは相変わらず。挙げ句の果てに、妙を妻に迎えると言い出した須佐之男に、さすがに堪忍袋の緒が切れた小角と善ですが、二人がかりでも身を守るのがやっとの状態です。
 そんな中、思金鐸から入れ知恵された妙は、須佐之男を抑えるために「誓約(うけい)」を申し入れて……


 というわけで、この巻のクライマックスとなるのは、妙と須佐之男の「誓約(うけい)」。神話においても(それこそ須佐之男自身も)何度も描かれるこの「誓約(うけい)」は、「×××できたならば、△△△ということである」というような、誓いとも占いともいうべきものです。
 しかし、これまで様々な神々と神器を、独特すぎる、そしてSF味とパロディ味の強い描写で料理してきた本作が、ただの誓約を描くはずがありません。

 かくて妙と須佐之男が繰り広げる「誓約(うけい)」は、ゴーグルをつけて仮想空間の中で「草」の崇敬を集めてパワーアップ、より多くの崇敬ポイントを集めて戦で相手を倒した方が勝ち――簡単にいってしまえば(古い例えで恐縮ですが)VRポピュラスとでもいったバトルが繰り広げられることになるのです!

 草たちのために力を振るい、草たちを繁栄させることで、自分もパワーアップし、その振るった力(が草たちの目に映った姿)によって、姿を変えていく妙。思金鐸の助言を受け、最強のステータスになった妙ですが、その前に現れた須佐之男は――という展開も楽しいのですが、しかし本作の油断できないところは、そこに本作を形作る重要な要素の一つである、「神とは何か」を巧みに織り込んでいる点です。

 そう、草すなわち民草を見下ろし、己の力で以て民草を「総体として」繁栄させ、その民草のイメージを反映して姿を変えていく――この「誓約(うけい)」における妙に当たるものこそ、「現実」における「神」にほかなりません。
 「誓約(うけい)」勝利のためとはいえ、草相手に無邪気に力を振るっていた妙は、その事実に慄くのですが――しかし同時に、人は神とは異なる、神にはできぬやり方で、力を発揮できることを、本作は示します。

 そしてそれは、三世上人が神を甦らせるために為そうとしている企てを思った時、それに対するもう一つの道足り得るのではないか――そんなことすら感じさせられます。
(そして、神と人がそうであるとすれば、鬼ははたして――とも考えさせられるのですが)


 三世上人との再びの対峙も近づく中、神と人の関係性を描き直してみせた本作。その上で描かれる、神と人の迎えるべき未来とは――物語のクライマックスも間近というべきでしょう。


『峠鬼』第7巻(鶴淵けんじ KADOKAWAハルタコミックス) Amazon

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2024.08.11

上田朔也『ダ・ヴィンチの翼』(その二) 過酷な時代の中に描く、人の持つ善き部分

 16世紀のイタリアを舞台に、ダ・ヴィンチの秘密兵器の設計図を巡る争奪戦に巻き込まれた少年の冒険物語『ダ・ヴィンチの翼』の紹介の後編です。

 本作が、歴史伝奇小説として一級品ということは述べました。しかし本作の魅力はそれだけに留まりません。秘宝の争奪戦が物語の縦糸だとすれば、横糸に当たるもの――主人公であるコルネーリオ、そしてもう一人の中心人物であるアルフォンソを巡るドラマが、本作をより魅力的なものとしているのです。

 治癒の効果がある歌声を持つ――それだけでなく、人や様々な生きもののオーラを見る力を持つコルネーリオ。深い傷や重い病をも癒やす彼の力は、しかしこの時代においては、魔術として排斥され、処刑の対象となる危険を招くものでもあります。
 事実、物語冒頭でコルネーリオは村はずれに一人で暮らしていましたが、それはかつてフランチェスカの病を癒やしたことがきっかけで異端審問官に目をつけられ、彼の代わりに母が名乗り出て魔女として処刑されたという過去があるからなのです。
(ちなみに彼の母の処刑のくだりは、一見魔女狩りには定番の描写のようでいて、実はそこに流れる熱い人の情の存在によって、本作でも屈指の感動的な場面となっています)

 一方アルフォンソは、傭兵の父がかつて殺した男の息子に殺され、その復讐のために家族の反対を押し切って傭兵となった男。そしてようやく仇討ちを果たしたものの、一度血の因縁がさらなる血を招く修羅の世界に沈んだ心は晴れることなく――自らをそんな世界に追い込んだ戦争を未然に防ぐことを目的に密偵となり、表には出せない仕事に手を染めてきた人物です。

 癒やし手の少年と密偵剣士の男――その能力も、生まれや育ちも異なる二人ですが、しかしそこには、重い過去を背負い、現在を生きながらも、未来に展望が見出だせないという共通点があります。
 そんな二人が思わぬ形で出会い、冒険の旅を通じて互いのことを少しずつ理解し、絆を深めていく。言葉にすれば簡単ですが、バディとも師弟とも、疑似親子ともつかぬ――そしてそのどれでもある、かけがえのない存在となっていく姿は、大国間で苛烈な争いが繰り広げられ、命が弊履の如く失われていく世界の物語だからこそ、人の持つ善き部分の一つの現れとして感じられるのです。


 そしてそんな二人をはじめとする人々が繰り広げる剣と魔法と知恵の争いの末、ついに明らかとなるダ・ヴィンチの秘密兵器の在処。それは、まさかそこに!? と仰天とさせられるような意外性のある(そして様々な意味で驚くほど巧みな)隠し場所であり、秘宝争奪戦の終着点として見事というほかないものです。

 しかし何故、そこにダ・ヴィンチは秘密兵器を隠したのか? そしてそれは今まで守られてきたのか? 具体的には書けませんが、その答えの根底にあるのは、ダ・ヴィンチが人を信じようとした心、人という存在に抱いた希望であり――そしてそれは、先に述べた人の持つ善き部分の、別の形での現れにほかならないのです。

 本作の真に見事な点は、まさにその点にあるといえます。人が人を殺す戦争のための兵器の争奪戦の果てに待つものが、人が人を信じ、人の善き部分を守ろうとする心である――その構図は、必ずや読む者の胸を熱くさせてくれるでしょう。
 そしてそこにはもちろん、先に述べたコルネーリオとアルフォンソの間の絆が、深く結びついているのです。

 伝奇的な活劇を通じて過酷な現実を描きつつも、しかし同時にそこに高らかに人間賛歌を歌い上げてみせる、そんな本作の姿勢には、感動とともに強い好感を覚えます。
(ちなみにこの人間に対する視点は、前作でもあったものですが、よりパーソナルなドラマが主軸にあった前作に比して、より強く前面に打ち出されている印象がある――というのは牽強付会でしょうか)


 そして物語は、新たに開けた未来への道を描いて終わることになります。
 それはもちろん、ここで語られるような明るいものばかりではないかもしれません。そしてその前途の険しさは、この物語の後にフィレンツェが辿る運命が暗示しているともいえるかもしれません。

 しかしそれでも、自分自身の、そして自分の隣に在る者の持つ力を信じ、新たな一歩を踏み出す人々の姿に、希望を持ちたくなる――そんな美しい結末であることは間違いありません。
 そして、前作同様、「彼ら」のその先の物語を是非見せてほしいという願いを抱いてしまうのです。


『ダ・ヴィンチの翼』(上田朔也 創元推理文庫) Amazon


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2024.08.10

上田朔也『ダ・ヴィンチの翼』(その一) 謎と暗号と剣戟に彩られた冒険活劇

 我々にはちょっと馴染みが薄い時と場所ながら、知ってみれば非常に魅力的な16世紀のイタリア。本作は、『ヴェネツィアの陰の末裔』の作者が、再びこの舞台で描く冒険ロマンがです。フィレンツェの危機を救う、ダ・ヴィンチの秘密兵器争奪戦に巻き込まれた少年が、冒険の果てに見たものは……

 時は1529年、生まれつき持っている治癒の力を隠して、村はずれに一人暮らす少年・コルネーリオ。しかし、森で瀕死の男・アルフォンソを見つけた彼は、思わず癒やしの力を使ってしまうのでした。
 芸術家にしてフィレンツェ共和国政府の要人・ミケランジェロの密偵であるアルフォンソを匿うために、農場主の娘であり、かつて命を助けたことがある少女・フランチェスカの屋敷を頼るコルネーリオ。そこで彼は、アルフォンソがダ・ヴィンチが密かに隠したという秘密兵器の設計図を探していたことを知ります。

 折しもフィレンツェには神聖ローマ皇帝の軍勢が迫る状況、フランスと結んで対抗しようとするも、到底力は及びません。そんな中、かつてダ・ヴィンチが発明しながらも、いずこかへ隠したという秘密兵器が、フィレンツェの最後の希望だったのです。
 しかし設計図の隠し場所を知るには、難解な暗号を解くしかありません。ところがアルフォンソとミケランジェロらの会話を盗み聞いたフランチェスカは、その暗号を見事解いてみせます。

 そんな中、屋敷を襲撃する神聖ローマ帝国皇帝直属の黒衣の騎士グスタフと教皇の刺客サリエル。コルネーリオとフランチェスカは、アルフォンソと彼の仲間たち、さらにフランスの密偵らとともに屋敷を脱出、次なる目的地・ヴェネツィアを目指すのですが……


 第五回創元ファンタジィ新人賞佳作、第五回細谷正充賞を受賞した『ヴェネツィアの陰の末裔』(以下「前作」)。本作は前作と同じ世界感、そしてほぼ同じ時期(時期的には一年後)を舞台に描かれます。

 前作は、当時のイタリアを巡る複雑怪奇な史実の中に、「魔術師」というフィクションの存在を嵌め込み、スリリングな諜報戦と、魔術師の青年の自己確立を描いた物語でしたが、本作もそれに勝るとも劣らぬ名品――前作が罠と陰謀が張り巡らされた諜報劇であったとすれば、本作は謎と暗号、そして剣戟に彩られた宝探しの冒険活劇です。
 主人公は強力な治癒の力を持つ少年、共に旅立つのは彼と淡い感情を寄せ合う頭脳明晰な令嬢と、世の裏街道を歩いてきた名うての密偵剣士。そして求めるのは、かの天才ダ・ヴィンチが発明したという謎の秘密兵器――とくれば、胸がときめくではありませんか。

 ちなみに前作の読者としては、ヴェネツィアの魔術師たちが再び登場する――前作の主人公コンビをはじめ、ほとんどはほんの僅かの出番ではあるものの、中にはコルネーリオの旅に同行し、頼もしい助っ人となってくれるキャラクターがいるのも、実に嬉しい。
 前作唸らされた魔術描写も健在であると同時に、その魔術と正面からやり合う敵を描くことで、敵の存在感を高めているのもまた巧みというべきでしょう。(そのうちの一人は、前作でも妙に印象を残したキャラクターなのが嬉しいところです)


 それにしてもダ・ヴィンチの秘密兵器とは、いささか突飛な印象を受けないでもありませんが、しかし当時のフィレンツェには、そんな怪しげなものに頼らざるを得ない状況にあったといえます。

 メディチ家を追放して共和制を敷いていたものの、ローマ劫掠を経てメディチ家出身の教皇と神聖ローマ皇帝が和解、共に敵に回り、メディチ家も復活を画策する状況にあったフィレンツェ。
 複雑な情勢の中で共和国の軍事を司る九人委員会(ミケランジェロもその一員)も一枚岩ではない中で、防衛はおぼつかない――そのような状況で、反撃の手段としてだけでなく、フィレンツェの人々の希望のシンボルとしてダ・ヴィンチの秘密兵器を掲げようとするミケランジェロの発想は理解できるものでしょう。

 先に触れたように、当時のイタリア情勢は複雑怪奇、そんな状況を舞台装置として、そして物語の原動力として使ってみせた本作は、歴史伝奇小説としても一級品といえます。


 しかしそれだけではなく――長くなりますので、続きは次回に。


『ダ・ヴィンチの翼』(上田朔也 創元推理文庫) Amazon


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2024.07.30

泰三子『だんドーン』第4巻 桜田門外の陰の諜報戦 そしてギャグと背中わせの無情

 読むたびに「コメディとは……」という顔になってしまう幕末コメディ『だんドーン』、第四巻では、ついに歴史の一大転換点が描かれます。水戸浪士たちと薩摩の有村次左衛門による襲撃は成功するのか? 川路と多賀者の諜報戦の行方は? 桜田門外に、ついに号砲が轟きます。

 政争に破れた末に、勝った側の井伊直弼から、ド詰めされることとなった薩摩藩。何とか藩への矛先を変え、そして藩内をまとめるべく奔走する川路たちですが、その犠牲は決して少なくありません。ついに耐えかねた有村次左衛門は水戸浪士たちに加わって井伊直弼襲撃に動き出すことになります。
 これをサポートすべく動く川路ですが、二重密偵として使っていた多賀者の犬丸が、ついに露呈して処刑された上、彼は死の間際に多賀者頭領・タカに川路の計画を語ってしまい……

 というところから始まるこの巻のメインとなる桜田門外の変。あまりに有名な史実であり、結果はわかっているのですが――しかしそれでも気になるのは、その背後で繰り広げられる、薩摩と多賀者の間の、川路とタカの間の諜報戦です。
 これまで史実の背後で、幾度も激しくぶつかってきた川路とタカ。川路にとってタカは敬愛する主君・島津斉彬を殺した怨敵、タカにとって川路は愛する井伊直弼を狙う大敵――不倶戴天の敵同士であります。

 陰の存在とはいえ、タカ率いる多賀者が本気で動けば、井伊直弼襲撃の成就は極めて困難になります。しかも犬丸を通じて川路の計画は流れてしまい、タカはそれを元に鉄桶の守りを固めている――このあまりに不利な状況を、打開することはできるのか?

 繰り返しになりますが、結果はわかっています。しかし如何にしてそれを成し遂げるのか? それは大きな問題です。
 その答えはもちろんここでは詳細を述べませんが、きちんと伏線も示される川路の策の正体には、ほとんど本格ミステリのような味わい――こう来たか! と驚かされること請け合いです。
(まあ、実は犬丸は前巻のラストで「大老襲撃」と言ってしまっているのですが、それとして)


 そして、ここでタイトルの「だんドーン」が思わぬ形で回収され、ついに始まる桜田門外の変。しかし、いかに川路のフォローがあったとて(ちなみに川路のもう一つのフォローにも、こう来るかと感心)、天下の大老を白昼堂々襲撃するのは難事であることはいうまでもありません。
 ここにおいてはほとんどこの巻の主人公である有村次左衛門と、同志の水戸浪士だけでなく、井伊を警護する名もなき侍たち(というのは言い過ぎで、きっちりと記録に残っているのですが)に至るまで、攻める者守る者が文字通り死闘を繰り広げる様は、ただただ凄惨としかいいようがありません。

 ――が、ここでも隙あらば容赦なくギャグをブッ込んでくるのが本作の恐ろしいところであります。
 「斎藤さん見届け役は!?」など、ここでそれ書く!? と驚かされるようなタイミングで描かれるそれは、人の命が簡単に散っていく中にもかかわらず、こちらを笑わせてくるのですが――同時にそれと背中合わせで存在する、人と人が斬り合うことの皮肉さ、無情さというものが胸に刺さります。
(そして字面だけ見るとギャグの「殿ー! 元気ですかー!」の深刻さよ)


 そして、桜田門外の変は、井伊直弼の首を以て終わるものではありません。
 守るべき者であり、愛する者であった直弼を、自らの失策で喪い、ついに怪物から人間となったタカはこの先何処にいくのか。そして「勝った」薩摩の側も、さらなる犠牲を強いられます。

 そんな無情極まりない(特に後者)現実を経て、この国の歴史はこの先どうなってしまうのか。桜田門外の変は「終わり」なのか、「始まり」なのか――変のクライマックスで、異なる立場から出たそれぞれの言葉の、双方が真実であることを我々は知っています。
 はたして本作がそれを如何に描くのか――この先我々は、それを笑いながら、そして慄きながら目の当たりにすることになるのでしょう。


 ちなみにこの巻では、犬丸の子・太郎のその後について解説ページで触れられます。
 ある意味ネタばらしのそれ自体は感動的なのですが、本当にそれが成り立つのか(少なくともどちらか史実を変えないといけないのでは)、おそらくは本作の最終盤に描かれるそれが、今から気になっているところです。


『だんドーン』第4巻(泰三子 講談社モーニングコミックス) Amazon


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2024.07.28

黒崎リク『帝都メルヒェン探偵録』 「探偵」と「助手」が挑むグリム童話見立ての事件たち

 大正から昭和初期にかけての東京を舞台とした作品は、もうライト文芸では完全にサブジャンルとして定着した感がありますが、第6回ネット小説大賞グランプリを受賞した本作は、その一つながら、強い独自性を持つ作品。グリム童話をモチーフに帝都で繰り広げられる、ロマンチックなミステリ連作です。

 千崎理人は、華族出身で帝大を優秀な成績で卒業したものの、定職にも就かず親友の下宿に転がり込んで暮らしていた日独混血の青年。下宿を追い出された彼は、伝手を求めて、実業家として名を馳せる乙木夫人のサロンを訪れたところで、謎の美少年と引き合わされます。

 理人に職と住まいを用意する代わりに、自分の本当の名前を当てて下さいと、グリム童話の「ルンペルシュティルツヒェン」のような提案をする少年。
 その条件の良さ、そして何よりも奇妙な内容に興味を抱いてその提案を受けた理人は、仮の名を小野カホルと名乗った少年の本当の名前を、三ヶ月以内に当てることになるのでした。

 そして理人がカホルに世話をされた仕事というのも変わり種――普段はカフェの従業員、そして依頼があった際には、「探偵」として表に立ち、調査に当たるというものだったのです。
 実は乙木夫人の伝手で依頼を受け、解決する探偵の顔を持つカホル。しかし少年の彼が探偵では何かとやりにくいため、理人の「助手」として同行する――そんなカムフラージュに理人を使おうというのです。

 かくて、「少年助手を従えた美貌の探偵」として、帝都で起きる様々な事件に巻き込まれる理人とカホル。そしてその事件は、いずれもグリム童話をなぞらえたようなものばかりで……


 冒頭に述べたように、昭和初期までの東京を舞台とした帝都ものとでもいうべき作品の中でも、本作は一捻りも二捻りもある設定の妙で印象に残ります。

 その一つは主人公が少年助手を連れた探偵を演じているということです。実は名探偵はハリボテて、助手の方が名探偵というスタイルの作品はほかにもあります(それこそ『名探偵コナン』もこれに近いでしょう)が、それを助手の方から持ちかけるというのがユニークです。

 はじめは好奇心と金銭的な理由からこれを引き受けた主人公ですが、しかし自分が一種のダシに使われているのが面白いはずもありません。そこで自分も推理を試みて――と、一種の推理合戦になっていくのも愉快なところです。

 そしてもう一つは、作中で起きる事件や出来事が、いずれもグリム童話をモチーフとしていることです。上で述べたように、そもそも本作全体を通しての趣向であるカホルの名前当て自体「ルンペルシュティルツヒェン」的であるわけですが、それ以外にも、「金の鳥」「こわがることをおぼえるために旅に出かけた男の話」「白雪姫」「ハーメルンの笛吹き男」「青ひげ」、そして「いばら姫」と、実に様々です。

 これらのモチーフを、昭和初期の日本を舞台にして如何に描くのか――後半のエピソードなどちょっとやり過ぎの感もありますが、しかしグリム童話の見立て自体が一種のトリックとなっているエピソードもあり、作品全体の統一感という点でも、面白く巧みな趣向であることは間違いありません。


 そんな中で、本作を貫く最大の謎がカホルの正体であることは間違いありません。

 自分よりも大分年上であるはずの理人相手にも物怖じせず、時に生意気といいたくなるような態度で、謎解きに挑むカホル。
 さらに、乙木夫人に深い信頼を得ているだけでなく、普段はカフェの地下室で気ままに時間を過ごし、夜には同じビルのある場所に佇み――と、私生活も謎だらけの少年です。

 正直なところ、物語の構成的に、カホルのある「属性」に気付かない読者はまずいないと思われるのは、本作の欠点かもしれません。
 しかしそれ以外の部分――特に「なぜ」の部分については、これはかなり意表をついたものであると同時に、この時代設定ならではのものであることは間違いなく、そこから生まれる絶妙な切なさも、心に深く残るのです。

 一部残された謎もあるものの、基本的には綺麗に謎も解け、冒頭と対応した洒落た結末も相まって、爽やかな読後感を残す本作。
 既に刊行から6年を経ている作品ではありますが、いつかこの先の物語を読んでみたい――というのは、結末から考えるといささか野暮な願いかもしれませんが、そんな気持ちにもなってしまう佳品です。


『帝都メルヒェン探偵録』(黒崎リク 宝島社文庫) Amazon

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2024.07.11

ふくやまけいこ『東京物語』 日常と非日常を結ぶ優しい眼差しの探偵譚

 昭和初期の東京を舞台に、二人の青年が時に人情豊かな、時に不可思議な事件に挑む姿を描く、ふくやまけいこの代表作の一つがこの『東京物語』であります。お人好しの出版社社員・平介と、飄々とした風来坊の草二郎――凸凹コンビの冒険が温かいタッチで描かれます。

 缶詰になっている作家の原稿を取りに行った池之端の旅館で、宝石の盗難事件があったことを知った桧前平介。密室での事件に関心を抱いて調べ始めた平介は、旅館のそばの空き地でぼーっとしていた青年・牧野草二郎と出会います。
 たまたまその場に居合わせただけながら、平介を手伝うと言い出した草二郎。まるで関係ない話を聞いているだけにみえたにもかかわらず、近所の聞き込みだけで見事に犯人を探し当ててみせるのでした。

 それ以来、気の置けない友人となった平介と草二郎は、町を騒がす様々な事件を追いかけることに……


 作者の作品は、一目見ただけでホッとさせられるような、温かく柔らかな絵柄に相応しいストーリーという印象が強くありますが、本作もまたその例外ではありません。
 ジャンルでいえばミステリ、探偵ものになるものの、本作に流れるのは、どこかのんびりとした、温かい空気なのです。

 タイトル通り、本作の主な舞台となるのは東京――それも浅草や上野近辺といった下町。そこで主人公二人が出くわすのは、犯罪捜査というよりも(もちろんそうしたエピソードもありますが)、むしろ「日常の謎」的出来事が中心となります。
 そしてそこで描かれるのは、事件だけではありません。草二郎が想いを寄せるそば屋の看板娘のフミちゃんをはじめ、東京で懸命に生きる人々――そんな人々に寄り添い、温かく見守る本作の視点は、古き良き東京の情景と相まって、何とも心地よい読後感を残します。


 しかし本作ではその一方で、そうしたムードとは大きく異なる、何やら黒ぐろとしたものを感じさせる、本作の縦糸ともいうべき物語も描かれます。

 フミちゃんを誘拐した、洋館に潜むピエロ姿の怪人。不思議な力を持つサーカスの美形兄妹。次々と巨大な機械で宝石店を襲う怪人・機械男爵。中国奥地の崑崙機関なる組織で行われていた謎の研究。政財界に隠然たる影響を及ぼす不老不死の少女……
 草二郎の周囲で起きる不可解な出来事、そしてそこで蠢く怪しげな人物たちを描く中で徐々に明らかになっていくのは、草二郎自身の大きな秘密と、その秘められた過去なのです。

 これはこれで、舞台となる昭和初期に描かれた探偵小説や科学小説を思わせる、伝奇ムード濃厚で、私などはそれだけで嬉しくなってしまうのですが――何よりも素晴らしいのは、こうした非日常的なエピソードもまた、その他の日常的なものと違和感なく、地続きの世界として描かれていることです。

 もちろんその日常と非日常は、草二郎という共通項で繋がっているものではあります。しかしそれだけでなく、本作においては、非日常の物語であっても、その中に在る人々の営みや想いを温かく見つめる視線があるからこそ、そう感じられるのでしょう。


 日常の謎と伝奇的活劇と、相反するようなそれを違和感なく一つの世界で描き、そこで暮らす人々の営みとして優しく受け止めてみせる本作。
 現在、ハヤカワ文庫全三巻で刊行されているものが一番手に取りやすい版ですが、こちらには描き下ろしで本編終了後であろうワンカットが収録されています。それがまた、温かい余韻を感じさせるものなのも嬉しいところです。


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2024.06.24

士貴智志『どろろと百鬼丸伝』第10巻 海に潜むもの、その名と姿は 

 名作を長編物語として本作ならではの解釈で描いて来た『どろろと百鬼丸伝』も、ついに十巻に到達しました。どろろの背中に描かれた地図が示す地――白骨岬に向かおうとする人々の前に現れる新たな死霊。その死霊を操る不知火の真意とは、そして岬に向かうための手段とは……

 土地の領主となっていた死霊・鯖目と宇宙からやって来た舞姫らとの戦いをはじめ、これまで数々の死霊と戦い、己の身体を取り戻してきた百鬼丸。ついに残すところはあと十五匹となった百鬼丸ですが、旅の途中、彼はどろろの背中の地図に描かれた場所――どろろの父・火袋が遺した莫大な黄金が眠る地を発見します。
 しかしそこに、かつて火袋の手下であり、今は野盗の頭領であるイタチが現れて――ということで、この巻では原作でも後半のクライマックスだった、白骨岬を巡るエピソードが描かれます。
(ちなみに、表紙に描かれている醍醐景光と謎の生人形は、冒頭の間奏曲的エピソードに登場するのみ。多宝丸は登場なし)


 イタチに黄金の在処を教える代わりに、自分と一緒に火袋の意思を継ぎ、その黄金を世の中に役立てるよう頼むどろろ。それを受けたイタチですが、しかし収まらないのは子分たちであります。イタチを出し抜こうとする彼らの前に現れたのは、土地の娘・不知火――イタチには道案内に雇われていた彼女は、子分たちを岬に案内するというのですが……

 不知火(しらぬい)が女性!? というのはさておき、この不知火は、原作でも強烈な印象を残したキャラクターです。何しろ、子分たちを渡してやると称して、彼らを自分が可愛がっているサメの餌に――ってサメじゃない!?
 本作で不知火とともに現れるのは海坊主。真っ黒な丸い頭に巨大な二つの目を光らせて海の中から現れ、舟ごと人々を呑み込む――古式ゆかしい(?)この海坊主もまた死霊の一体のようですが、不知火はどこでこの海坊主と出会い、そして何故人を喰わせているのか。そしてこの海坊主の海を越えて、白骨岬に渡ることはできるのか……


 という、海坊主と不知火を巡る謎がメインとなるこの巻。例によって百鬼丸を残して突撃したどろろを通じて、その真実が描かれることになります。
 それはある意味、原作の悲劇性を回避したifの世界を描いてきた本作らしい内容なのですが――個人的には原作から離れすぎたかな、という印象があります。

 上に少し触れたように、原作のしらぬいは、自分が可愛がっているサメに餌として人間を喰わせていた少年。そこには一応彼なりのロジックはあるものの、ほとんど狂気としかいいようのないそれは、だからこそ舞台となる時代の、一種の象徴ともいえないでもありません。

 一方で本作の不知火は、他人を犠牲にする点は同じでも、それはそれで一つの明確の理由があり、(それも戦国らしい殺伐さではあるものの)あくまでも人間的な動機として感じられます。
 そんな本作の不知火が、サメに人を喰わせるというのは違和感――ということなのかもしれませんが、原作のしらぬいの狂気が印象に残っていた人間としては、ちょっとマイルドにしすぎてはないかなあ、と感じてしまったところではあります。

 何故海坊主がこの海に現れたのか、という理由はなかなかビジュアル的に面白いのですが……
(面白いといえば、海坊主に呑まれたどろろが、百鬼丸に助けを求める方法が、非常に「漫画的」で面白い)


 何はともあれ、ようやく岬に渡る方法が明らかになり、岬に向かう一行。そこで彼らを何が待つのか、そして海坊主と不知火の行動は――原作ではこの先にさらなるクライマックスがあったわけですが、本作ではどうなるのか。
 ここまででは大きく異なる道を進んだ物語ですが、それだけにこの先の展開が気になります。


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2024.06.06

田中芳樹『髑髏城の花嫁』 ヴィクトリア朝の怪奇と冒険再び 海を越える謎の一族

 19世紀中頃の英国を舞台に、ミューザー良書倶楽部で働くエドモンド・ニーダムと姪のメープルが怪奇な事件に遭遇するヴィクトリア朝怪奇冒険譚の第二弾――クリミア戦争の出来事をきっかけにニーダムが巻き込まれた、「髑髏城」に棲まう謎の一族の争いが描かれます。

 クリミア戦争に従軍し、九死に一生を得て帰国した後、会員制貸本屋のミューザー良書倶楽部で姪のメープルと共に働くことになったニーダム。前作では、かのディケンズやアンデルセンと共に、氷漬けの帆船にまつわる奇怪な冒険に巻き込まれたニーダムですが、本作で再びこの世のものならぬ怪事件に遭遇することになります。

 ある日、代替わりしたばかりのフェアファクス伯爵から蔵書設計の依頼を受け、伯爵邸を訪れたニーダムとメープル。そこで二人の前に現れた若き伯爵は、ニーダムに親しげに言葉をかけます。
 クリミア戦争終結に帰国を待つ間、ダニューブ湖畔の古城・髑髏城に瀕死の士官を送り届ける命令を受けたニーダムと戦友のラッド。大冒険の末に無事任務を果たして帰国したニーダムですが、何とその時の士官が伯爵だったというのです。

 その時とは見違えるような壮健な姿になった伯爵は、ニーダムとメープルに、本宅のみならずノーサンバーランドの荘園屋敷も担当して欲しいと半ば強引に依頼。やむなく二人はその屋敷――名前も同じ髑髏城に向かうことになります。
 一方、テムズ河口で行われた最後の囚人船焼却の晩、海から現れた狼めいた獣たちと、空を舞う翼を持った人影が人々を襲うという怪事件が発生。偶然その場に居合わせたニーダムたちですが、この一件は思わぬ形でその後も二人に関わることに……


 中欧から東欧を横断し、黒海に注ぐダニューブ川=ドナウ川。本作に黒い影を落とすその名も奇怪な「髑髏城」は、その河畔にあると語られます。

 この髑髏城、ワラキア(!)に位置するという設定だけでニンマリしてしまう――そして怪奇小説ファンであれば当然ある予感が働く――のですが、しかし本作の舞台はあくまでも英国であります。
 このダニューブ川河畔の髑髏城が登場するのは本作の過去パート――前作で、クリミア戦争で大ナマズに食われかけたことがあると語ったニーダムですが、実はそれが髑髏城へと辿り着くまでの道中のことであったのです。

 しかし、前作がそうであったように、怪奇と冒険は海を渡ってやってくるようです。遠く異国の、古ぶるしき遺物と思われた髑髏城とその住人たちが「現代」の英国に現れたことから、再びニーダムとメープルは巻き込まれるのですから。
 この辺り、予感が当たった――と思いきや、しかし大きな捻りが加わっているのはいうまでもありません。物語後半の舞台となる新たなる髑髏城――ノーサンバーランドの荘園屋敷で繰り広げられる騒動は、こちらの予感と予想の範囲を遥かに超えて展開していくのです。


 そんな怪奇冒険の一方で、ディケンズとアンデルセンがメインキャラの一人で活躍した前作に比べると、本作は当時の有名人の登場が少ない――ディケンズやサッカレー、コリンズの登場はあるものの出番は少なく、メインとなるのがスコットランドヤードの生みの親の一人・ウィッチャー警部のみというのは、ちょっと寂しい気がします。
 また、クライマックスが(いささかネタばらしとなって恐縮ですが)内輪もめに終始した印象なのも、いささか物足りないものがありました。

 しかしそれでもアクションとサスペンスの畳み掛けで、ラストまでこちらの興味を惹き続けるのはさすがというべきでしょう。
 また、中盤に描かれる、囚人船焼却の場での怪物の跳梁から始まる大パニックは、舞台の独自性も相まって素晴らしい迫力で、本作屈指の名場面――これだけでも本作を読んだ意味があったというものです。


 ちなみに本作に登場して物語をかき回すメープルのライバル(?)・ヘンリエッタの結末における選択は、微笑ましいというか脱力というかなのですが――しかしよく考えてみると、本作の冒頭で描かれる「髑髏城の花嫁」の選択とは、対照的なものとなっているのに気付きます。

 思わぬキャラクターが本作のテーマ(?)を体現していたかと、感心させられた次第です。
(もう一つ、作中で不名誉な戦争として語られる第四回十字軍とクリミア戦争も、対応関係にあるというべきなのでしょうか)


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