松井優征『逃げ上手の若君』第13巻 さらば頼重、さらば正成 時行の歴史の始まり
ついに鎌倉に帰還したものの、足利尊氏の神懸かった力の前に、惨敗を喫することとなった時行。事ここに至れば、自分の命を犠牲にして時行を逃がすしかないと、諏訪頼重は決意を固めます。これに対する時行の決断は――ここに「中先代の乱」は終結しますが、歴史はさらに激しく動くことに……
故郷である鎌倉を奪還し、逃者党と一時の平和を味わう時行。しかしそんな時行の動きを尊氏が座視するはずもなく、鎌倉に向けて足利の大軍が迫ります。
もちろん、これに対する備えは抜かりなかったはずですが――普通であれば考えられないような自然現象が尊氏に味方した上に、尊氏のわけのわからないカリスマの前に鎌倉方は総崩れ。逃者党の軍師であった吹雪までもが敵方につき、もうこれ以上はないという惨敗を喫することに……
という、負けイベントにしてもムチャクチャ過ぎる尊氏のチートぶりですが、しかしそれでも時行は生き延びなければなりません。そのためには誰かが乱の首謀者とならなければならない――という決意で尊氏との激闘の末に捕らえられた諏訪頼重親子ですが、彼の主君であり、そして頼重を父とも仰ぐ時行が、黙ってみているはずがありません。
こういう時は異常に格好いい叔父の泰家の言葉も振り切って、頼重たちの救出に向かう時行ですが――さて、彼の「逃げる」力が、この場で発揮できるのか。そして頼重を救い出したとして、その先どうなるのか……
そんな展開の中で描かれるのは、ある意味歴史の、史実の厳然さというべきもの――何人も、歴史の流れの前には、後世に残った史実は決して変えることはできないという、残酷な真実であります。
しかしその真実を前に、人間がどのように振る舞うかは、その人間次第。そして、史実に残されたものは変えられないということは、それ以外のものは――ということでもあります。
この時代の歴史の前に敗れ、史実から消え去った時行。しかし彼自身の歴史はまだ終わりません。そして史実に残らない部分で彼が何をできるかもまた、現時点ではわからないのです。
確かに「中先代の乱」という、彼の名を冠した乱は敗北に終わりました(ここで語られる「中先代」が冠される意味が熱い!)。しかしそれは、時行の歴史の終わりでも、そしてそれを記した『逃げ上手の若君』という物語の終わりでもない――むしろここからが始まりであると、悲しみを乗り越えて物語は強く宣言するのであります。
さて、実はこの巻はここまででようやく半分程度。それでは後半は――といえば、この後の(時行が表舞台から引っ込んだところで始まる)新たな戦乱の成り行きを描くことになります。
それはいわゆる南北朝の動乱――中先代の乱平定後も尊氏が鎌倉に残ったことをきっかけに、後醍醐帝が尊氏追討を発令し、武士たちを二分した戦いの末に、吉野に逃れた後醍醐帝と、尊氏が奉じた光明と、南北二つの皇統が並立した時代の始まりであります。
かつては後醍醐帝の下に轡を並べた足利尊氏・新田義貞・楠木正成が敵味方として相争う――ある意味この時代を象徴するような状況ですが、そこでクローズアップされるのは、この巻の表紙を飾る正成であります。
かつて時行が京を訪れた際に彼の前に現れ、同じ逃げ上手として兵法の極意を授けた正成。その後、尊氏との戦いの中でもその兵法の冴えを遺憾なく発揮した正成ですが、しかしその必勝の策を帝から退けられた末に、湊川で尊氏に敗れることになります。
勝ち目のない状況でも後醍醐帝を支え、敗れても、七度生まれ変わって国に報いんと言い残す――特に戦前称揚された正成の姿ですが、それを本作はどう描いたか?
逃げ上手の彼が何故逃げなかったのか、その理由も切ないのですが、ひっくり返るのは七生――のくだり。いやはや、そんな理由か! と驚かされましたが、本作の正成にはこちらが相応しいと大いに納得です。
そしてそれと同時に、ここで正成が見抜いた、尊氏の真の姿も印象的であります。カリスマや強運など、神懸かった力を見せる尊氏は何者なのか、そしてどうすれば打ち破ることができるのか――ここで描かれたものは、この先大きな意味を持つことでしょう。
さて、そんな戦いが繰り広げられる中、伊豆でそれなりに楽しい潜伏生活を送っていた時行と逃者党ですが、しかしこの巻のラストでそれも終わります。二人の帝が立つ状況の中で、巧みに後醍醐帝に自分を売り込んだ時行は、この先何を狙うのか。仲間たちのパワーアップともども、敗北からの再起の様が楽しみであります。
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