2022.05.22

桃野雑派『老虎残夢』(その二) 史実を背景に描き出された歴史と人の姿

 第67回江戸川乱歩賞受賞作にして武侠小説+本格ミステリの意欲作『老虎残夢』の紹介の後編であります。武侠ものの登場人物らしい造形でありつつも、それだけでは終わらない本作の登場人物。その最たるものは……

 本作の登場人物たちの中でも、最も陰影に富んだ姿が描かれる者――それは、主人公である紫蘭その人であります。

 前回述べたとおり、被害者である泰隆の唯一の弟子である紫蘭。しかし奥義を伝授されず――いやそれどころかその存在すら知らされていなかったことに、彼女は深い屈託を抱くことになります。
(それが、他人から見れば彼女が師殺しを行う動機になるのも巧みな設定です)

 そしてその悩みは、そもそも泰隆にとって自分は何者だったのか、自分は弟子として愛されていたのかという想いにまで繋がっていくことになるのですが――本作においては、彼女のみならず、この被害者たる泰隆と、他の登場人物との繋がり・結びつきが、物語の後半部分を動かしていくことになるのです。

 金国に理不尽に家族を奪われ、一人生きてきたところを紫苑と泰隆に拾われた恋華。泰隆と複雑な想いで結びついた関係にあった祥纏。ある事件がきっかけで泰隆と激しく仲違いしていた文和。流派は異なるにもかかわらず泰隆と深い繋がりを持つという為問……
 本作の謎解きは、同時に、紫苑も含めた登場人物一人ひとりを通じて、泰隆とはいかなる人物であったのか、というのを描くものでもあるのです。


 そしてその果てに紫苑たちが知る真実とは――それはもちろんここでは明かすことはできませんが、こちらが当初予想していた以上に、物語の時代背景と密接に結びついているということは述べても許されるでしょう。

 冒頭に述べたように、舞台は南宋――それも13世紀初頭、北宋が滅亡してから数十年が経つ間に金とは和議が結ばれ、国家として空前の繁栄を謳歌していた時代。しかしその一方で、モンゴルではチンギスハンが力を蓄えて金を圧迫する状況にありました。
 そしてその金と宋との関係も、様々な矛盾を孕んだ、危うい均衡状態のもとに成り立っていたのです。

 それがこの物語にいかなる形で影響を与えることになるのか? 物語の終盤において、物語を構成する要素が、この史実を背景に、全てがピタリと一枚の絵に収まるのには、ただ圧倒されるばかりです。
 そしてその絵に描かれているのは、殺人事件の謎解きだけではありません。そこにあるのは、いかなる武術の達人でも及ばぬ歴史の暴力的なまでに巨大な力であると同時に、その力に対する人間の小さな希望の姿である――その事実が、大きな感動を生むのです。


 武侠ものとして、本格ミステリとして、歴史ドラマとして、様々な顔を持ち、そしてそれが見事に有機的に結びついている本作。
(個人的には、武侠もの独自の用語・要素をサラリとわかりやすく描く語り口にも感心させられました)

 もっともその一方で、後半の意外な真実とキャラ掘り下げの連続によって、前半の武侠ものらしいケレン味は薄れてしまった感は否めません。
 それでも、本作に唯一無二の魅力が存在することは間違いないことでしょう。そしてデビュー作である本作以降も、できればこのような武侠ものを、武侠ミステリを生み出してほしいと、作者には期待してしまうのです。


 最後に、蛇足で恐縮ながら本作の百合要素、紫苑と恋華の愛の必然性についてですが――確かに二人が男女カップルであっても、弟子と師の娘という、江湖では禁断の関係という点には変わりがないことから、必然性は薄いようにも感じられます。

 しかし――物語の詳細に触れる部分があり、あまり詳しくは述べられないのですが――紫苑を男性とした場合、本作の物語が成り立たないこと(もしくは相当大きく構成・要素を変える必要があること)、かといって恋華を男性にしても物語により不自然な点が生じること、二重の禁忌があった方がより強い犯行動機がある(と周囲に見做され得る)ことから、多少危なっかしい部分はあるものの、必然性はあると、私は感じました。
 もちろん、そこに必然性を求めるという視点もまた、(メタではあるものの)紫苑を苦しめるものの一つではあるのですが……

 ちなみに作中で師弟関係に関するこの禁忌を説明する際、武侠ファンであれば思わずニヤリとさせられるくだりがあるのですが、実は時系列的には本作の方が先(この時点ではまだ起きていない出来事)――と、これは本当の蛇足であります。


『老虎残夢』(桃野雑派 講談社) Amazon

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2022.05.21

桃野雑派『老虎残夢』(その一) 被害者は武術の達人 武侠小説+本格ミステリ!

 第67回江戸川乱歩賞受賞作は「館」×「孤島」×「特殊設定」×「百合」――そしてその特殊設定が「武侠」なのですから見逃せません。奥義を伝授すると三人の武侠を集めた達人が孤島の楼閣で殺害され、謎を追うのはその弟子――本格ミステリにして武侠ものという極めてユニークな作品です。

 時は13世紀初頭、南宋の時代――大海に浮かぶ小島・八仙島に隠棲する達人・碧眼飛虎こと梁泰隆が、己の奥義を受け継がせるとして、旧知の三人を招いたことから物語は始まります。
 泰隆の妹弟子にして大手飯店を切り盛りする紫電仙姑こと楽祥纏、泰隆の同門で海幇(海賊)の幇主である烈風神海のこと蔡文和、そして外功の達人であり孤月無僧の異名を持つ為問――いずれも凄まじい武功を持つ達人ですが、三人を迎える泰隆の弟子・蒼紫苑の胸中は複雑であります。

 幼い頃に両親を失い、師に拾われて以来十八年、厳しい修行を重ね、内功については達人の域に達した紫苑。それなのに師は自分ではなく他人に奥義を伝授しようというのか? ある事件で負った傷が元でほとんど外功が使えない身とはいえ、何故自分ではないのか――と。
 そしてもう一つ、師の養女・梁恋華との秘密の恋愛関係も、彼女を悩ませていたのです。

 それでも平静を装い、いずれ劣らぬ個性的な三人を迎え、恋華と二人でもてなしの宴を準備する紫苑。宴は盛会のうちに終わったものの、その翌日、師が起居する島の中央部の八仙楼に向かった紫苑は、冷たくなった師の亡骸を目の当たりにするのでした。
 何者かに毒を飲まされた上、腹を匕首で刺されていた泰隆。はたしていつ誰がどうやって、そして何故師を殺したのか? 自分も恋華も容疑者であることを承知の上で、紫苑は調べを始めるのですが……


 武術の奥義とその伝授のために集められた達人たち、そしてその現場で起きる殺人――本作は、不謹慎ながら(?)武侠ものファンであればニッコリとしたくなるようなシチュエーションが描かれる物語であります。
 しかしそれと同時に本作は、本格ミステリとしても、しっかりとした格好を整えた作品でもあります。

 何しろ舞台となる八仙島は、本土との往来は頻繁にあるものの、船でなければ行き来はできない孤島。そして犯行現場の八仙楼は、その島の湖の中央に建てられ、常人であればこれまた舟がなければ行き来できない建物なのです。
 それに加えて犯行が起きたのは寒い雪の晩とくれば、これはもう定番中の定番シチュエーション、孤島+雪の山荘ではありませんか!

 しかしここで「常人であれば」とわざわざ書いたのは、常人でない人間がゴロゴロしているのが武侠ものであるからにほかなりません。
 そもそも軽功の達人である泰隆と紫苑であれば、湖を跳んで楼に入ることは可能ですし、他の面々も(全く修行していない恋華を除けば)そこまでの芸当は無理にせよ、例えば軽功で雪の上に足あとを残さずに歩くなどはお手の物であります。

 そして被害者が達人であることは、同時に、犯行にさらなる不可能性を与えることでもあります。何故ならば内功の達人であれば、体内に入った毒など、半ば自動的に体外に排出してしまうのですから!


 ――このように本作は、武侠ものとしての要素が、特殊設定ミステリのそれとしても、非常に効果的に働いています。
 もちろん武侠ものとミステリというのは実は相性が良く、古龍や金庸といった本場の大御所の作品でも連続殺人や暗号等のミステリ要素が少なくないほか、日本でも秋梨惟喬の『もろこし銀侠伝』に始まる武侠ミステリの名作シリーズがありますが――本作はそうした先行作品に勝るとも劣らぬ内容であります。

 そして本作において、本格ミステリや武侠ものとしての面白さに加えて特に印象に残るのは、その人物描写の妙でしょう。物語冒頭で描かれる登場人物たちの、特に三人の達人の、いかにも「らしい」描写も楽しいのですが――しかし物語が進むにつれて、そんな登場人物たちのキャラクターは掘り下げられ、それにつれて最初の印象がガラリと変わっていくことになるのです。そしてそれが、謎解きに密接に関わっていくことも言うまでもありません。

 そしてそんな陰影に富んだキャラクターの最たるものが――と、最近やたらと文章が長くなって恐縮ですが、次回に続きます。


『老虎残夢』(桃野雑派 講談社) Amazon

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2022.05.19

木野麻貴子『妖怪めし』第1巻 料理人兄弟、食で妖怪を鎮める!?

 最近の漫画界では老若男女貴賤上下を問わず、おいしいものを作る/食べる作品が大きなトレンドになっていますが、本作はタイトルの通り、妖怪に(あるいは妖怪が)おいしいものを食べさせようという物語。風変わりな旅の料理人兄弟が、行く先ざきで妖怪と食にまつわる事件に巻き込まれます。

 時はおそらく江戸時代後期、ある目的から旅を続ける料理人兄弟――お人好しで体が頑丈なのが取り柄の忌火と、ひょっとこ顔の子供ながら鋭敏な舌を持つ兵徳の二人は、山越えの途中で見つけた茶屋で、「ヒダル神」について聞かされることになります。
 かつて飢饉で餓死した人々の妄念が凝り、取り憑かれた者は動けないほど激しい空腹に襲われるというヒダル神。しかし握り飯を食べれば逃れられるはずのこの妖怪が凶暴化し、旅人の精気を吸い取って暴れているというのです。

 このヒダル神を鎮めるため、瞬く間に茶屋にあった食材を使って弁当を作ったみせる兄弟。そしてかつてヒダル神を祀ったほこらがあった場所に向かう兄弟に、茶屋の老婆も同行するのですが……

 そんなエピソードから始まる本作ですが、なるほど、料理を食べる相手は空腹、空腹で妖怪といえば――というわけでヒダル神というチョイスには納得できるものがあります。
 ヒダル神に襲われた場合、なにか食べ物を口にすれば助かるというのは定番ですが、しかし本作のヒダル神は故あってパワーアップ版、おにぎりでは足りず――というわけで、兄弟のスペシャル料理の出番と相成る展開も納得です。

 この辺り、妖怪ものでありつつも、調理シーン、そして料理を味わうシーンの描写や台詞回しが、いわゆる「料理もの」のそれなのがちょっと面白いのですが、妖怪を鎮めるのに食を以てするというのは、確かにこれまでほとんどなかったパターンかと思います。


 そして第二話では食べ物関連の妖怪ということか豆富小僧が登場。手にした豆腐を食べると体にカビが生えるなどと言われる豆腐小僧ですが――本作ではやはり暴走・パワーアップして、人間がカビどころではない大変な状態になってしまうのに対し、兄弟が料理で挑むことになります。

 さらにこの巻のラストの第三話では、口にこんにゃくを咥えて橋の上に現れるというこんにゃく橋の幽霊が――と、まことに失礼な言い方ながら、えらくマニアックというかローカルな妖怪の登場に仰天させられます。
(これは本作の監修の妖怪研究家・木下昌美が、この妖怪が現れたという奈良で活動している影響も大でしょう)

 元々この妖怪(幽霊)は、こんにゃくのことが原因で争った末に死んだ妻が化けて出たものと言われますが――ある意味謎多きこの設定を、本作は幽明境を異にする夫婦の愛を描く物語にアレンジ。
 これまでのエピソードでは、主人公兄弟が妖怪に飯を食わせる話でしたが、今回はそれとは異なり――と、物語のバリエーションとしても実に面白いところです。
(個人的には中盤以降の一捻りの内容が、この妖怪の目撃者の職業をベースにしたと思しきものになっているのに感心しました)


 さて、このように第一巻では三つのエピソードが収録された連作スタイルの本作ですが、その縦糸となるのが、兄弟自身の物語であります。
 実は兄弟は半ば妖怪というべき存在――過去のある事件で呪いをかけられてそんな身の上になってしまった二人は、その呪いを解くために、呪いをかけた相手を探しての旅の途中なのです。

 そしてその呪いをかけた相手と思しき存在は、比較的早い段階で登場するのですが――本作に登場する妖怪たちとはちょっとデザインラインが異なるこの妖怪(といっていいのか?)は何者なのか、そしてやっぱり美味しいものを食べて撃退されるのか、だとしたら何を食べるのか……
 少々気が早いのですが、今から気になってしまうのです。


『妖怪めし』第1巻(木野麻貴子&木下昌美 (監修) マッグガーデンコミックスBeat'sシリーズ) Amazon

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2022.05.07

和月伸宏『るろうに剣心 明治剣客浪漫譚・北海道編』第7巻(その二) いま描かれる明治の「新選組」の姿

 札幌で斬奸と称した人斬りを繰り返す劍客兵器に挑む斎藤一と永倉新八、そして阿部十郎を中心に描かれる「札幌新選組哀歌」編を収録した第7巻の紹介の続きであります。この北海道編で描かれる、斎藤の、新選組隊士たちの姿とは……

 思えば『るろうに剣心』という作品は、無印の頃から、これまでいかにも少年漫画らしい派手なアクションと物語を描きつつも、その背後に、幕末という時代を生き、そこで様々なものを背負った者たちの姿を描いてきました。そしてここでは、明治の「新選組」を、このアプローチで描いているといえます。

 新選組隊士といえば、本作ではもちろん斎藤がその立場を代表してきました。のでしかし実は彼の場合、既に完成されたキャラとして、作中ではほとんど掘り下げられてこなかった――というよりお馴染みの「悪・即・斬」で済まされてきた感があります。
(ちなみにこの巻でこのワードを、バカじゃねえのと言わんばかりに嫌みったらしく持ち出す阿部十郎の姿が実にイイ)

 幕末から明治に至る今まで変わらず、「悪・即・斬」を貫いてきた斎藤。しかし本当に彼の斬ってきた者全てが悪だったのか? 彼に対立する立場にあった剣心がそれに悩み、償いのために心身を削ってきた一方で、彼はほとんどぶれることなくその道を貫いてきました。
 しかしそれは本当に間違いのない道だったのか? この巻では、それが御陵衛士との決戦――油小路の変をかなりのページを割いて描く中で、問いかけ直されることになります。主義主張は異なるとはいえ、かつての同志が、友が切り結んだこの戦いは、迷いなき存在に見えた斎藤や、飄々と過去を受け流してきた永倉が今なお背負い続けるものとして描かれるのです。

 そしてその戦いでの「敵」であり、敗者となった阿部たち御陵衛士にとっても、この戦いは消せない痛みであることは間違いないのですが……


 と、そんな重いものを内包しながらも、この油小路の変で御陵衛士側の守護神ともいうべき二刀流の服部武雄が、敵味方他の面子が普通の格好をしている中で一人半裸バトルスーツで出現、ヌンヌンヌンと二刀を振り回して奮戦する――そしてそれがまた実に名勝負というべきものとなっているのが実に本作らしいというべきでしょう。

 そしてこの巻の終盤、ついに陰に潜むのを止めて真正面から虐殺を始めた雹辺に、山県有朋直属部隊(!)の面白集団戦法といい――ケレン味溢れるキャラとアクションが次々と投入されてくる辺り、とにかく求められているものをきっちり理解した上で、それを期待以上のクオリティで描いてみせる業には舌を巻きます。
 もちろんそれは無印の時点でも行われていたことではありますが、この北海道編では、そこにキャラクター個々人のドラマを絡めた上で描いてみせる印象があり、確実に作品として進歩していると感じるのです。

 そしてその頂点が、この巻のラストで描かれる阿部十郎の姿でしょう。その想像を絶する(いや、彼が登場した時にここまでやると予想した人間は皆無でしょう。さすがの斎藤と永倉を瞠目させたその凄まじさを思うべし)アクションもさることながら、ここでこれまで阿部が幕末以来抱えてきた様々な想いが一気に爆発するのには、ただただ唸るしかないのであります。

 はたして阿部の想いは雹辺双に、そして斎藤と永倉に勝ることができるのか!? そして阿部が新選組史に名を残すこととなったあの言葉はどのようなシチュエーションで語られるのか?(語られないということはないと信じています)。
 全く予想していなかったところで思わぬところで盛り上がりまくる本作、この先の展開にももう期待しかありません。


『るろうに剣心 明治剣客浪漫譚・北海道編』第7巻(和月伸宏&黒碕薫 集英社ジャンプコミックス) Amazon

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2022.05.06

和月伸宏『るろうに剣心 明治剣客浪漫譚・北海道編』第7巻(その一) 札幌で斎藤・永倉を待つ者、その名は――

 大波乱の小樽編が終わったるろ剣北海道編、この巻では札幌での斎藤一&永倉新八という、新選組最強チームが主役を務める「札幌新選組哀歌」編が展開することになります。官吏ばかりを狙う二刀流の剣鬼に挑むのは、この二人と――明治の世に生き残った「新選組」の姿が描かれることになります。

 剣心たちの(というか雅桐倫倶の)奮戦により小樽での実検戦闘の被害が最小限で終わった一方、札幌で「斬奸」を掲げて次々と官吏を血祭りに挙げる劍客兵器部隊将・雹辺双を追うことになった斎藤と永倉。
 この姿なき敵に対し、官吏を囮として自分たちが護衛につくという作戦を提案した二人ですが、それに対して札幌県庁が用意した囮役こそは、彼にとって因縁深い人物――その名は阿部十郎!

 と言っても、知名度という点では、決して阿部十郎の知名度は高くないでしょう。簡単にいえば彼は新選組の砲術師範にして、あの御陵衛士の一人――油小路の血戦を生き残って伏見での近藤狙撃に参加、その後は薩摩方に付き、明治時代は官吏となり、北海道開拓使等に奉職した人物です。
 この阿部、二度に渡って「新選組」と戦った経歴や、赤報隊への参加の事実(といっても相楽の一番隊ではなく二番隊なので左之助とはニアミスですが)、そしてもう一つ、ある有名な言葉なども含め、考えてみれば本作に登場していなかったのが、不思議なくらいの人物と感じます。

 その阿部ですが――本作での描写は、鋭い目に気障とすら感じられるような細い口髭と顎髭、そして洋装に身を固めた、見るからに狷介固陋な人物。そしてその印象通り、斎藤と永倉に対しても全く物怖じすることなく、上から目線で接するという、ある意味根性の入った男であります。(というか純粋に阿部が最年長という衝撃の事実)
 もちろん、阿部にとって御陵衛士の仲間たちを血祭りにあげた(斎藤に至っては獅子身中の虫であった)彼らは不倶戴天の敵、親しく接するはずもないのですが……

 しかし考えてみればこの囮という任務、阿部にとっては命懸けである上に、その命をこの不倶戴天の敵たちに託さなければならないという、ある意味理不尽極まりない状態であります。それでも阿部は黙々とこの囮を務めるのですが――しかし彼らの行動も虚しく、劍客兵器の魔手は別の官吏たちを次々と血祭りに挙げていくことになります。

 そこで斎藤は阿部の内通を疑い、栄次に監視を命じるのですが、その中で栄次が見たものは……


 冒頭で触れたように、「札幌新選組哀歌」のサブタイトルが冠されたこの巻収録のエピソード。これだけ見れば、斎藤と永倉の姿が描かれるものと考えてしまいますが――もちろんそれも間違いではないものの、描かれるのは彼らだけではありません。

 実は阿部十郎のほかにも、この巻では元新選組隊士たちが登場することになります。同じく元御陵衛士として多くの行動を共にした加納鷲雄、一時期永倉と行動を共にした前野五郎――今送っている暮らし、そしてそこに至るまでの経緯は全く異なれど、明治の北海道に集った新選組隊士なのです。
 そう、ここで描かれるのは、斎藤と永倉を含め、明治の世に生き残った、生き残ってしまった新選組隊士たちの姿なのであります。
(ここで暖かい一家を設けた阿部の姿を見届けるのが、かつてそれを失った栄次というシチュエーションが素晴らしい)


 そして――何だか語っているうちに止まらなくなってきたので次回に続きます。


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2022.04.18

「コミック乱ツインズ」2022年5月号(その三)

 「コミック乱ツインズ」2022年5月号の紹介のその三、ラストであります。

『ビジャの女王』(森秀樹)
 ビジャが辛うじて蒙古軍の攻撃を退けてきた一方で、蒙古軍に敗れた末に大破壊・大虐殺が行われたバグダード。ビジャにとって大きな痛手となったのは、そこで治療していたオッド姫の父・ハマダン王が、蒙古軍に捕らわれたことであります。はたしてビジャを包囲するラジン軍に引き渡され、磔台に晒し者にされるハマダン王。問題は、その王の安否ですが――と思いきや、意外とハマダン王に関してはあっさりと決着(?)し、今回はなんとジファルの描写がメインとなります。
 ビジャの若き宰相でありながら、王位の簒奪を狙い、蒙古軍と内通して利用せんと企むジファル。その言動は典型的な裏切り小才子という印象でしたが――今回描かれるのは、それとは全く異なる彼の顔なのです。

蒙古軍に完膚なきまでに蹂躙されたバグダードにあった当時世界一の学び舎であり知識の宝庫「知恵の館」――蒙古軍に焼かれ、学者たちも皆殺しの憂き目に遭うことになったそここそは、かつてジファルも学んだ場所。それを知ったジファルは、涙を流して激怒し、蒙古皆殺しを叫ぶではありませんか。
 そしてブブが見せるインド墨家の科学力に素直に尊敬の念を抱き、万が一の時のために自分が写本した学問の書を彼に託し、人類の発展に役立てるよう頼むジファル。もしかしてジファルは実は結構イイやつ、もしくはバグダードを焼かれて目が覚めたのか!? と思いきや、ビジャを簒奪し、蒙古軍を利用して成り上がろうという野心はそのまま……

 今回のサブタイトル「善と悪のジファル」のとおり、大きな二面性を見せたジファル。しかし彼にとってはどちらも自分、二つの顔が矛盾なく尊大しているようですが――典型的などとはとんでもない、複雑なキャラクターを露わにしたジファルもまた、本作の重要人物であることは間違いありません。


『殺っちゃえ!! 宇喜多さん』(重野なおき)
 城を手に入れ浦上宗景の命をこなして信頼を勝ち取った末に、重臣・中山信正の娘と結婚するよう命じられる直家。とりあえずこれで当時の武士としては立派に一人前となり、政略結婚とはいえ妻との間には娘たちも生まれ――と、良いことずくめのようですが、「政略結婚」「娘」と宇喜多的にはズンと重いワードが並びます。

 それはまだ先のこととして、気持ちは通じ合ってはいないものの、それなりに彼のことを理解している妻と、タイプは全く違うもののそれなりに人物であるらしい義父とそつなく付き合ってきた直家ですが、そんなところに宗景からの新たな指令が。それは最近宗景から距離を起き始めた島村盛実の抹殺――直家にとっては仇である盛実を討つ大義名分が出来たと燃える直家ですが、しかし宗景は抹殺対象にもう一人の人物の名を挙げて……

 と、まさに大義親を滅すという状況になってしまった直家。後世のイメージからすれば、喜んでやりかねないような気もしますが、さて……


『カムヤライド』(久正人)
 前回、驚愕の「殖す葬る」対決が描かれた本作。一回で終わりかと思いきや、ノツチの家を急襲した黒盾隊がトラップに翻弄されている間も、まだまだ激闘は続きます。

 ノツチとマリアチ、どちらのチームも戦力になる人間とならない人間がハッキリと分かれる中、モンコを監視に来てマリアチチームの助っ人になった大王の密偵・タケゥチは話術(?)・体術で活躍。もう一人の助っ人にして実は天津神のコヤネは、ぞっこんのモンコに見とれて役に立たずと、もうやりたい放題です(そしてまたキノが例のポーズを)。
 と、本当にどうするんだこれ、という状況ですが、まだまだ試合はエスカレート。手段を選ばないことでは定評のある師匠の能力バトルみたいなトラップ設置から、ついにモンコが、そしてコヤネが……

 いやはや、まだ前回の方がまともに野球(野球言うな)していたというおそろしいことになってしまった今回。しかしそんな中でもタケゥチは目的のものを見つけ、そしてラストにはついに二人が互いの正体を(?)と、次回は死闘待ったなしの状況であります。ここにさらにオウスも加わればどういうことになるのか――本当の戦いはここからです。

 しかしトレホ親方さぁ……


 次号は『雑兵物語 明日はどっちへ』(やまさき拓味)が掲載。『列士満』(松本次郎)、『江戸時代のちいさな話』(笹井さゆり)と新連載もスタートします。


「コミック乱ツインズ」2022年5月号(リイド社) Amazon

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「コミック乱ツインズ」2022年4月号(その三)

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2022.04.13

相田裕『勇気あるものより散れ』第2巻 生き残った武士の姿、会津武士の姿

 明治初頭、数奇な運命に翻弄されてきた不死の民の少女・シノと死に損ねた会津の武士・春安の主従の戦いを描く物語の第二巻であります。不死の一族を殺す力を持つ妖刀・殺生石を手に入れたものの、その代償に倒れ伏した春安。はたして春安の運命は、そして彼らは無事に脱出することができるのか……

 戊辰戦争で生き残り、死に場所を求めた末に、大久保利通暗殺の企てに加わった元会津藩士・鬼生田春安。しかしその企てを九皐シノと名乗る少女剣士に阻まれ、一度は命を失った末に、春安は彼女に蘇生させられるのでした。
 実はシノは「半隠る化野民」と呼ばれる不死の一族の末裔。その眷属とされた春安は、幕府にその身を利用され尽くした末に心が壊れた母の命を絶つというシノに、協力を誓うのでした。

 そして不死殺しと呼ばれる妖刀・殺生石を奪取するため、仲間たちと宮城に潜入した春安は、そこでシノの兄・隗と対決。殺生石の力で辛うじて勝利したものの、その代償で力尽きて……


 と、いきなりクライマックスのような展開でヒキとなった前巻ですが、しかし春安が力尽きた場所は、彼らにとってはいわば敵地というべき場所。目的である殺生石を奪取したとしても、ここから脱出できなくては意味がありません。

 しかし捨てる神あれば――というべきでしょうか、偶然出会った会津出身の陸軍幼年学校生徒・鉄馬に救われ、春安たちは元会津藩家老・山川大蔵(この時点では山川浩)のもとに身を寄せることになります。
 ここで感心させられるのは山川大蔵というチョイス。なるほど、知恵者として数々の逸話を持ち、そして明治政府でも会津出身として異数の出世を遂げたこの人物であれば、主人公の後ろ盾となってもおかしくはないと感じます。

 しかし、春安とシノが挑む相手は、いわば政府。二人が山川の元に潜伏していることを察知した太政官図書掛の山之内は、銀座の街中で銃撃戦も辞さない強引な攻撃で、脱出した春安たちに追撃を仕掛け……


 というわけで、前半では春安たちと会津出身の人々との交流(そしてそれを通した明治の武士たちの姿)が描かれ、そして後半では春安たちと新政府との激突が描かれるこの巻。
 前巻が半化野民にまつわる物語が中心となる伝奇性の強い内容であったとすれば、この巻は比較的歴史ものとしての性格が強めであると言えるかもしれません。

 もちろんそれは物語がおとなしいということとイコールなどではなく、特に後半の、とんでもない武器まで飛び出してほとんど市街戦のような様相を呈する戦闘シーンは、インパクト十分といえるでしょう。

 しかしそんな物語の中で気になってしまうのは、人間側のキャラクターへの感情移入のしにくさであります。
 確かにこの時代に生き残ってきた武士の窮状――特に会津武士の理不尽ともいえる状況――は、知識として頭に入ってはいますが、それが作中の描写から、キャラクターの行動原理として納得できるかというと、いささか疑問があります。

 特にこの巻の終盤の展開では、この行動原理がキャラクターの生死にまで関わってくるのですが、そこに感情移入できなければ、行動が極端な人間、という印象で終わってしまうので……


 この巻のラストでは再び物語が伝奇サイドに大きく動き出す予感がありますが、さてその中で明治の武士たちの物語を、ここからどれだけ力強く描くことができるのか。正念場と感じます。


『勇気あるものより散れ』第2巻(相田裕 白泉社ヤングアニマルコミックス) Amazon


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2022.03.17

「コミック乱ツインズ」2022年4月号(その三)

 「コミック乱ツインズ」4月号の紹介、最終回であります。

『殺っちゃえ!! 宇喜多さん』(重野なおき)
 浮田国定との長きに渡る戦いの末、効率重視に目覚め、徐々にアレな感じになっていく直家(しかし作中では最初っからそんな感じだったような気がしないでもありませんが……)。
 結局国定が籠もっていた、そして祖父の城であった砥石城は与えられず、それどころかその祖父の仇である島村盛実に与えられたのですが、それでも腐らない直家はこれはこれで一個の人物という気がいたします。
(しかし憤る弟への対応は……)

 そんな彼に対して浦上宗景が下した新たな指令とは――常人にとってはめでたいイベントですが、しかしそれがこの先、恐ろしい史実に繋がっていくことになります。
 はたして本作がその時をどのように描くのか――早く知りたいような知りたくないような、という気分です。


『徒花』(鶴岡孝雄)
 密通した妻に妻敵討(姦夫姦婦を斬ること)もせず、離縁状を書いたことから周囲の物笑いとなり、親類たちから罵声を浴びせられる侍・柴山啓吾。ある理由から人を斬ることを極度に恐れる彼に対し、本家の伯父である勘兵衛のみは柔らかく接するのですが――しかしそんなある日、啓吾と勘兵衛は、思わぬ場で対面することになります。
 武士の対面を守るための行動に出た勘兵衛に対し、啓吾は……

 人を殺めることを恐れる、というより強いトラウマを抱く侍を主人公とした、一種の武士道残酷物語というべき本作。自分に恥をかかせた相手は殺し、自分は腹を斬るというのが武士の取るべき道だとすれば、はたして武士というのは何者なのか。武士というのはあるべき人間の姿なのか――周囲から「武士」たるべし、とどんどん追い込まれていく主人公の姿にはそんなことを思わされます。

 そしてその果てに彼が選んだ道は――武士と人間とどちらを選ぶのか、その答えは、時代劇としては失格なのかもしれませんが、それでも一つの希望があるようにも思えるのです。


『カムヤライド』(久正人)
 空畦(アクウナ)の土地の権利を巡る「殖す葬る」(ブエスボウル)の試合を前に、相手チームの卑劣な手段により仲間が倒れ、自分とカンパとキノの三人のみとなってしまったマリアチ。しかしそこで現れた二人の助っ人を加え、マリアチは戦いの場に臨む……(注:カムヤライドです)

 というわけで、人間兵器・神薙剣と化したヤマトタケルとオトタチバナが、そして天津神たちが迫るという超緊迫した状況から一転、何故かデスペラードな感じの野球展開となってしまった本作。本当に何故!? という感じなのですが、イザナギの黄泉国下りにおける、黄泉比良坂でのイザナミと八柱の雷神からの呪的逃走を、シレッと野球いや「殖す葬る」の起源(?)にしてしまうセンスには恐れ入ります。

 しかしバンデラス――じゃなかったマリアチチームには、それぞれモンコを追ってきたオシロワケ大王の密偵タケゥチと、天津神の一人であるコヤネ(アマツ・ノリット)が何故か助っ人で参入。これはただで済むはずがないと思いきや――いやはや。
 これまでキャラ薄めだったトレホ親方の弟子・サンゴのキャラがいきなり異常に立ったり、モンコが普通に面白お兄さんになっていたり(あと、絶対やると思ったデスペラード打ち(のポーズ)があったり)と、久々に肩の力を抜くことができる回だったのですが――最後の最後でいきなりまた不穏な空気が漂うことに。これまで以上にどこから何が飛び出してくるかわからない展開であります。


 次号は特別読切で『しくじり平次』(所十三&野村胡堂)が登場。原作は言うまでもなくあの平次ですが――もしかすると7年ぶりの登場でしょうか?


「コミック乱ツインズ」2022年4月号(リイド社) Amazon

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2022.03.09

森美夏『八雲百怪』第5巻 円環を描く物語 八雲、最後の「ここではないどこか」へ

 森美夏&大塚英志の偽史三部作の掉尾を飾る『八雲百怪』、連載開始以来実に十六年目の完結巻であります。巷を騒がすインテリ青年たちの連続自死。その陰で蠢く奇怪な陰謀に巻き込まれた八雲は、黄泉比良坂に足を踏み入れることに……

 見えぬ片目に異界を映す力を持ち、その異界に限りない憧憬と哀惜の念を抱く小泉八雲。八雲は、柳田国男に雇われて各地の異界の門を封印する異形の男・甲賀三郎、彼が連れる人形めいた童女神・キクリさま、額に三つ目の眼を持つ学生・会津八らとともに、これまで様々な事件に巻き込まれ、古き日本の終焉を目の当たりにしてきました。

 そして今回八雲が巻き込まれることとなったのは、藤村操の華厳の滝での自死をきっかけに若きインテリの間で流行した自死騒動。実はその背後には、目前となった日露戦争用の兵器として不気味な粘菌を利用せんとする、マッドサイエンティスト・土玉の存在があったのです。

 煩悶を抱く者に引き寄せられ、その頭の中に入り込んで脳を食い、その死体を動かすという奇怪な粘菌。仮面の本屋(!)に与えられた本を通じてその粘菌に感染してしまった八雲は、甲賀三郎やキクリの手を振り払って姿を消すのでした。
 そして八雲が姿を現したのは、熊野の南方熊楠のもと――あの粘菌の発見者だった熊楠の案内で、粘菌を採取した場所に向かった八雲は、熊楠のもとで出会った一人の美少年とともに、粘菌の故郷である黄泉比良坂に足を踏み入れることになります。

 そこで八雲は、自分の文通相手であるアンネッタ、そして自分が幼い頃に別れた母と再会するのですが……


 この最終巻に収録されたエピソードのサブタイトルは、「煩悶青年と不死身兵士」。藤村操から始まる青年の自死ブームと粘菌、そして不死身の兵士計画と、いつもながらに伝奇三題噺というべき内容ですが――しかし実はこの部分は物語全体の1/3程度となります。
 残る3/2で描かれるのは、常世国・彼岸・黄泉国――様々な名がある地ですが、かの地に向かう八雲の姿。これを描くことこそが、この巻のメインなのであります。

 思えば八雲は、常に己のあるべき場所を失い/求め、ここではないどこかを探し続けてきた人物であります。
 幼い頃に父と、母と別れ、片目を失い、世界中を放浪した末に、この極東の地にたどり着いた八雲。しかしこれまでの物語で描かれてきたように、この国からも古きものたちは次々と排斥され――そして今、彼自身も職を失うという形で、この国から排斥されようとしていると彼は感じることになります。

 そしてその末に出会った粘菌の力を借りて彼が向かったのは、ある意味、最も「ここではないどこか」――かつてこの国を生み出した大いなる妣が眠る地。そこで彼は、自らが望む安らぎを得るのですが……
 その果てに彼が辿る道についてはここでは詳しくは述べません。しかし彼が母を求める一方で、もう一人の母たる存在が、そして彼女が生んだ存在が彼を――というのは、非常に「民俗学」的であると同時に、どこか物悲しい人間の自然を描いていると感じられます。

 そしてそれは、冥界下りといえば彼こそが先達と言うべき甲賀三郎との対峙を通じて、より強く感じられるのです。


 かくて八雲の物語は終わりを迎えます。しかしそれはあくまでも一つの終わりでしかありません。
 八雲と共に黄泉国に向かった少年はもう一つの名を得、仮面の書店主は事件の陰で暗躍し(しかし土玉の言葉から考えれば、年代的に「彼」ではないはずですが……)、そして柳田國男の手元に残されたものは――日本の近代化と、その過程に現れたあってはならないものたちの物語は、ここに一つの円環を描いたというべきでしょうか。

 偽史三部作の最後の作品、ここに見事完結であります。


『八雲百怪』第5巻(森美夏&大塚英志 KADOKAWA単行本コミックス) Amazon

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2022.02.23

川原正敏『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第22巻 楚漢奇妙な対峙の先にあるもの

 張良の策が東西で実り、ついに反撃を開始した劉邦。翻弄され続ける項羽は怒り心頭ですが、なおも張良の策は続き、ついに劉邦と項羽の奇妙な対峙が始まることになります。そしてその一方で、韓信の快進撃は続き……

 「狂生」の命を擲った一世一代の弁舌により、韓信が斉を陥し、彭越の撹乱が項羽を釘付けにしている間に成皋を再奪取――と、ついに反撃に転じた漢。成皋には虞姫がいただけに項羽の怒りはひとしおですが、漢の攻勢はとまりません。
 勢いに乗り、かつて長きに渡り籠城戦を繰り広げた滎陽に攻め寄せる漢軍。防備の硬さで項羽も手こずった滎陽ですが、しかし攻め落とした後となっては逆に壊した城壁が災いします。さらにそこに(ちょっと忘れかけていた)あのキャラが復活、張良の鬼謀が炸裂して、守将の鍾離眜は割りを食うことに……

 ここで虞姫を守りつつ逃走する鍾離眜を追い詰めつつも、劉邦がこれを見逃すことになった理由がちょっと可笑しいのですが――何はともあれ、劉邦は張良の導きで、新たな地に依ることになります。
 その名は廣武――かつて滎陽に籠もった時に食料庫として漢軍を支えた敖倉を中心に、張良はこの地に陣を築いたのであります。しかしその前身を考えればわかるように、廣武は戦闘に適した地などではないはず。にもかかわらずここにこもる道を選んだ張良の真意は……

 というところで、ここで初めて劉邦も項羽も、韓信が斉を取ったことを知ることになります。そして軍を分けると、韓信を討つために腹心の龍且を斉に向かわせるのですが――自分は何と劉邦の城の向かい側に陣を築かせ、攻撃を開始したではありませんか。
 これぞ漢城と楚城、同じ廣武の西と東に陣を築いて劉邦と項羽は文字通り対峙することに――というまでがこの巻の前半で描かれることになります。


 そしてこの巻の後半で描かれるのは、韓信が龍且率いる楚・斉連合軍と激突する濰水の戦い――斉の中程にある河・濰水を挟んで対陣した韓信軍十万弱と、楚・斉連合軍二十万の戦いであります。

 これまで数々の戦いで奇跡のように鮮やかな勝利を収めてきた韓信。確かにかの背水の陣の時も、相手は二十万だったかと思いますが――しかしあの時とは依る地形も違えば、敵将も違う。特に今回はあの項羽が重用する猛将であり、そしてかつて項羽の下にいた韓信のことを知る龍且であります。

 かくて繰り広げられるのは、濰水を挟んだ韓信と龍且の読み合い――というにはちょっと単純だなあ、と思いきや、ある意味それこそが韓信の罠。韓信の意図を読み切ったと自信満々の龍且の軍を襲ったのは……
 いやはや、ある意味合戦ものではお馴染みの策ですが、史実でここまで決めることができるのは韓信くらいではないか、というレベルで炸裂した「それ」。これを見ると、さすがに龍且がかわいそうに――それは確かに、半ベソにもなるだろうと思えます。

 とはいえ、自分たちは倍の軍勢で攻める分には何も疑問に思わないのも勝手な話で、この辺りが龍且の、というか一般的な武人の限界なのだろうな、と思わぬところで感じさせられたことです。


 というわけで、劉邦が自らをエサに項羽を釘付けにしているうちに、徐々に力を削がれていく項羽。
 正直なところ、これまで同様、張良の策が――史実では張良のものではないところまで――決まりすぎていて、特にこの巻はちょっと味気なく感じるところではあるのですが、しかしそんな彼の鬼謀でも読みきれないのが人の心であります。

 韓信の帷幕の蒯通の動き、そして独立独歩の彭越の動きが不穏なものを感じさせる中、張良の詰め将棋は最後の一手に近づいているようですが――さて。


『龍帥の翼 史記・留侯世家異伝』第22巻(川原正敏 講談社月刊少年マガジンコミックス) Amazon

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