2022.05.16

劇団☆新感線『神州無頼街』 幕末伝奇! 痛快バディvs最凶カップル、大激突!

 一昨年、新型コロナの影響で公演延期となった『神州無頼街』が、帰ってきました。富士の裾野に築かれた無頼の街を舞台に、クールな腕利きの医者と口八丁手八丁の口出し屋が、正体不明の侠客一家が目論む大陰謀に立ち向かう、幕末伝奇大活劇であります。

 時は幕末、所は清水湊――清水次郎長親分の快気祝いに名だたる親分衆が集まる中、突如現れた男・身堂蛇蝎。妻の麗波、息子の凶介、娘の揚羽を引き連れ、傍若無人に振る舞う蛇蝎に激昂する親分衆は、突如もがき苦しみだし、倒れていくのでした。。
 そこに駆けつけた町医者・秋津永流の手当で次郎長は助かったものの、親分衆は全滅。これ事態を引き起こしたのが、この国にいるはずのない毒蟲・蠍だと見抜いた永流は、蛇蝎に対してある疑いを抱くのでした。

 一方、清水湊をうろついては他人の事情に勝手に口を出し金をせびる「口出し屋」の草臥は、蛇蝎一家の凶介が自分の幼なじみ・甚五と瓜二つだったのに驚くのですが――向こうは草臥のことなど知らず、それどころか逆に刃を向けてくるではありませんか。
 蛇蝎一家を中心に次々と起こる奇怪な事件と不穏な動き――これに対して、永流と草臥は、蛇蝎を探るため、彼が築いたという富士山麓の無頼の街に向かうことを決意します。しかしそこで待ち受けていたものは、彼ら二人の隠された過去に繋がる謎と秘密の数々だったのであります。やがて二人は、この国を揺るがす蛇蝎一家の大陰謀と対峙することに……


 というわけで、42周年興行として上演の運びとなった『神州無頼街』。私も二年待ちましたが、無事観劇することができました。
 物語的には、「無茶苦茶強い正体不明の流れ者が、さらに強くて悪い奴の陰謀を叩き潰すために大暴れする」という、皆大好きなスタイルの本作。しかも今回は、その主人公が二人――つまりバディものなのが最大の魅力でしょう。

 一見クールながら心優しく、医者ながら武芸の腕も立つ永流(福士蒼汰)。そして口から先に生まれたようなお調子者ながら、やはりバカ強い草臥(宮野真守)。そんな二人が、それぞれ実に気持ちよさそうに、物語の中を飛び回ることになります。
 特に歌手としても活躍している宮野真守は、劇中歌の多くを実に気持ちよさそうに歌いまくり。元々歌も踊りもふんだんに投入されているのが劇団☆新感線ですが、今回は特にその度合いが大きかったように感じるのは、このムードメイカーの大活躍があってのことでしょう。

 そして忘れてはいけないのは、本作が時代伝奇ものであること。そもそもタイトルからして古き良き時代伝奇小説の証である(?)「神州」というワードを掲げているわけですが、幕末伝奇とくれば――という二大ネタがどちらも投入されているのがまず嬉しい。
 しかしそれはあくまでもいわば前フリであって、メインはさらにスケールの大きな、とんでもない展開が用意されていたのには、正直に申し上げて唖然としました。
(ちなみに「神州」らしくというべきか、ニヤリとさせられるような用語や場面も幾つか登場するのにも注目)

 しかし本作で最大のインパクトを感じさせるのは、主人公たちが挑む強敵――身堂蛇蝎と妻・麗波であることは間違いありません。
 死と暴力が人間の形をしているような、しかしどこか茶目っ気のある蛇蝎、そして彼を支える妖艶華麗な美女――では終わらない麗波と、強烈極まりないこの二人。そんなカップル好演/怪演/熱演する二人――新感線初登場の高嶋政宏と常連の松雪泰子に目を奪われました。

 特にこの二人こそが、上で触れたとんでもない展開の仕掛人なのですが――いやはや、これまで色々と時代伝奇ものを見てきましたが、ここまで凄まじいことを企んだ奴は見たことがありません。間違いなくいのうえ歌舞伎、いや新感線の舞台史上でも最凶最悪のカップルであることは間違いないでしょう。


 しかし正直なところ、この強烈すぎるカップルの前に、主人公たちの存在感がいささか薄れがちに感じられたのも事実。
 また――この辺りは内容の詳細に触れかねないためにぼかしますが――作中に登場した二つの「家族」の存在が、物語展開や主人公たち(というか草臥)とあまり有機的に結びついていないという印象もありました。

 そんな勿体無い部分はあったものの、本作が新感線の二年遅れのアニバーサリーイヤーに相応しい、ド派手でケレン味たっぷりの時代伝奇活劇であったことは間違いありません。
 特に主人公コンビはこの一作で終わるのはもったいない――彼らの痛快なバディぶりを、是非また見てみたいと心から思います。


関連サイト
公式サイト

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2021.12.27

宝塚歌劇『宝塚剣豪秘録 柳生忍法帖』(後編) 十兵衛とおゆらの関係、おゆらの変化の意味

 宝塚歌劇団によって舞台化された山田風太郎『柳生忍法帖』の(ライブビューイング)の紹介の後編であります。限られた時間の中で、原作のエッセンスを活かしつつ見事に舞台化してみせた本作。その中で最も印象に残るのは……

 本作において最も印象に残るのは、そして物語の中心にあったのは、礼真琴演じる柳生十兵衛と、舞空瞳演じるおゆらであったことは間違いないでしょう。

 柳生十兵衛は、豪快にして稚気溢れる、そしてどこか紳士的な心意気を忘れない剣侠児を見事に再現――登場時はちょっと若いかなという印象でしたが、鶴ヶ城でのあの大啖呵を気持ちよく見せてくれました。
 そしておゆら――ある意味作中で最も変貌を遂げる彼女を、この舞台では台詞はもちろんのこと、しかし何よりも特に目に現れる微妙な表情で示してみせたのが素晴らしい。(この演技を観ることができたのは、ライブビューイングならではの利点といえたかもしれません)

 そもそも本作のおゆらは、原作の彼女とは異なる点も多いキャラクターであります。その立ち位置こそ、銅伯の娘で明成の愛妾の妖艶な美女、と変わりませんが――前回紹介したあらすじで述べたように、江戸の時点で一種の銅伯の名代として登場するという変更点もありますが――むしろその内面において大きく異なると感じます。

 本作においては実は虹七郎と慕い合い、父によって明成の側に遣られる際に、連れて逃げてくれと願いながらも彼に裏切られていたおゆら。この点を踏まえれば、本作での彼女は、父と恋人に裏切られ、芦名家復興の道具として使われた存在なのであります
(おゆらを挟んで、十兵衛と虹七郎の対称性が強まっているのもなかなか面白い。そこまで強調はされませんでしたが……)

 それが奔放不羈な十兵衛と出会って、彼女がどう変わったか――それは悪女の深情けというものに留まらず、道具であった彼女が、十兵衛の自由な魂に触れて自分自身を取り戻した、自分自身を解放したというべきものだったのではないでしょうか(この辺りは本作オリジナルの末期の台詞に明確であります)。
 原作では自ら魔香に酔ってという描写もありましたが、本作においては彼女には魔香は効かないという設定であり、あくまで己の意思のみでもって十兵衛に恋した点に注目すべきでしょう。

 そんな原作とは少々、しかし明確に異なる彼女の設定と物語の中に、本作をいま、そして女性のみで構成された劇団で演じる意味がある――というのは、これはさすがに深読みが過ぎるかもしれません。
 しかし天海との対面のくだりで、これも原作にはない、千姫に自分がお家の道具として使われた過去を語らせる点も鑑みれば、これはこれで当たらずとも遠からずなのではないでしょうか。

 実は本作のラストの十兵衛の台詞は、原作のそれとほとんど同じであるようで――こちらの聞き間違えでなければ――微妙に異なるものであります。
 そして原作での台詞の根底にあるのが一種の義務感であったとすれば、本作のそれの根底にあったのは共感ではないでしょうか。

 実は十兵衛もまた、かつては縛られた境遇にあった者(本作においていかにも堅物そうな父の描写からわかるように、十兵衛は将軍家指南役という、ある意味非常にお固い役目につく宿命にあった人物であります)
 そんな彼だからこそ、おゆらの境遇を理解し、共感できたのではないか――そう感じた次第です。


 などとあれこれ妄想混じりに申し上げましたが、本作が一時間半強という時間内で、長大な原作を巧みに換骨奪胎し、豪華な衣装と歌と踊りで再生してみせた、ストレートに楽しい作品であったことは間違いありません。
 十兵衛と虹七郎の決着は原作の方がよかったな、とか、十兵衛のラス台詞前の実に格好良い台詞は残して欲しかったな、などと、厭な原作ファンとしては細かいところで色々と思う点はありますが、このような形で舞台化してくれただけでもう感謝感激というほかありません。

 ありがたいことにソフト化もされており、ぜひ原作読者はその内容を確かめていただきたいと思いますし、また舞台をご覧になった方には、ぜひ原作の方も手に取っていただきたい――そう強く願うところであります。


関連サイト
公式サイト

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2021.12.26

宝塚歌劇『宝塚剣豪秘録 柳生忍法帖』(前編) 驚きの、しかし納得の舞台化!

 本日東京公演千秋楽の宝塚歌劇『柳生忍法帖』をライブビューイングで観劇しました。原作は言わずと知れた山田風太郎の大長編、私のオールタイム・ベスト時代伝奇小説だったものが宝塚で!? と大いに気になっていたのですが、ようやく観ることができました。(以後、原作ファンの視点からの文章になるのをお許し下さい)

 会津四十万石の藩主でありながらも荒淫無道な加藤明成に見切りをつけ、一族で退転した堀主水。しかし彼らは明成子飼いの会津七本槍に捕らえられ、一族で生き延びたのは鎌倉東慶寺に逃れ、千姫に庇護された七人の女性のみという無惨な結末になるのでした。
 一族を辱め、なぶり殺しにした明成と七本槍に復讐を誓った七人の女性。その願いに応えるべく招請された沢庵和尚の依頼で、指南役を買って出た者こそ、柳生十兵衛であります。

 しかしそんな中、江戸で婚礼を上げる男女が何者かに拐われ、千姫の屋敷前に花婿のみが晒されるという事件が頻発することになります。加藤家の陰謀と見て、自ら花婿に扮する十兵衛ですが、はたして七本槍に拐われることに。
 そしてその前におゆらと名乗る美女が現れ、窮地に陥るのでした。

 辛くも堀の女性たちの機転で救われ、明成に痛打を与えた十兵衛。会津に逃げ帰る明成を沢庵とともに追う十兵衛と女性たちは、領内で女狩りを繰り返す七本槍を阻もうとするも、明成の腹心にして七本槍を束ねる魔人・芦名銅伯は、これに苛烈な反撃を加えることになります。
 やむなくただ一人鶴ヶ城に向かう十兵衛。その前に現れた銅伯と刃を交える十兵衛ですが、しかし……


 原作は分厚い文庫上下巻、せがわまさきによる漫画版『Y十M 柳生忍法帖』は全11巻と、まず大長編といってよい『柳生忍法帖』。
 そんな作品を舞台化するというだけでも驚きですが、上演時間はなんと一時間半強。歌や踊りもふんだんに入る舞台で、それはさすがに無理があるのでは――と思いきや、原作の要点要点を抑えることで舞台版の『柳生忍法帖』を作り上げているのには、感心かつ納得させられました。

 しかし原作ではっきりとカットされたのは、吉原での攻防と、会津から江戸へのお千絵らの脱出行のくだりくらいではないかという印象。後はエッセンスのみの部分も少なくないとはいえ、ほぼ全て取り入れられているのには驚かされます。
(ちなみにキャラクターたちも、ほとんど出番はないものの沢庵の七人の弟子や、ラストの柳門十哲まで、きっちり揃っているのも驚き)

 もちろんかなり慌ただしい点は否めず、また天海が死ぬわけにはいかない理由も、台詞を聞いているだけでは分かりづらい部分があったと感じます。
 しかし冒頭と柳生十兵衛見参のくだり、そして銅伯との最後の対決からラストまでは原作にほぼ忠実で、あの場面が、この台詞がこのような形で観られるとは! と原作ファンとしてはただただ感無量なのであります。


 尤も、原作で大きな割合を占めていた、会津七人衆と堀の女たちの一種のゲーム性溢れるバトルの要素がほとんど削られているのは、これは実にもったいないところでしょう。
 というよりも七人衆の技がほとんど再現されておらず、正直なところ誰が誰かわかりにくく――香炉銀四郎は顔に傷があるのでわかるのですが、司馬一眼房は隻眼ではないし、漆戸虹七郎は両腕ある――倒されたシチュエーションとタイミングで、ようやく誰かわかるというのは、ちょっと残念に感じた次第ではあります。
(それにしても原作では三匹の犬使いだった具足丈之進が、本作では同名の三人の少年を使役しているのは、これはこれでちょっとスゴい)

 とはいえ、七本槍の派手なビジュアルは実に鮮やかで――何よりもコスチュームにはそれぞれ原作でのキャラクターや使う技の意匠が込められているのが嬉しい。例えば銀四郎は霞網を思わせる襟巻きが、虹七郎の着物には花柄が、というのはニヤリとさせられるところであります。
 またビジュアルといえば、芦名銅伯も、長髪痩躯、年齢不詳の美丈夫――不老不死という点では共通の『バジリスク 甲賀忍法帖』での薬師寺天膳を彷彿とさせる――というアレンジが施されていたのには、なるほどこういう手があったか、と感じ入った次第です。


 さて、そんな本作において、しかし最も印象に残るのは――と、随分長くなってしまったため、大変恐縮ですが、続きはまた明日とさせていただきます。(本日分に全て書きたくはあったのですが……)


関連サイト
公式サイト

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2021.09.21

劇団☆新感線『狐晴明九尾狩』 安倍晴明vs九尾の妖狐! フルスペックのいのうえ歌舞伎復活!

 久々の劇団☆新感線であります。平安のヒーロー・安倍晴明と平安の大妖怪・九尾の妖狐の激突を、中村倫也と向井理という豪華キャストで描く、知恵比べあり大立ち回りありの大活劇――中島かずき脚本・いのうえひでのり演出のいのうえ歌舞伎、堂々の新作『狐晴明九尾狩』を観劇して参りました。

 平安の夜の闇を切り裂く流星――それをこの世に災いをもたらす凶兆と見て、帝に奏上せんとする安倍晴明(中村倫也)。ところが宮中で疎まれている晴明の言は容れられず、代わって重きを為すようになったのは、大陸留学から帰ったばかりの陰陽道宗家・賀茂利風(向井理)でありました。

 しかし自分にとっては親友だった利風こそが、大陸でその身を乗っ取り、日本にやって来た九尾の妖狐の化身であることを見破った晴明。その事実を伝えに来日した狐霊のタオフーリン(吉岡里帆)らと共に、その正体を暴き、京を救おうと奔走する晴明ですが、逆に利風の策にはまり、窮地に陥ることになります。

 その間にも宮中に取り入り、新たな貨幣鋳造を進める利風。果たしてそこに秘められた利風=九尾の妖狐の恐るべき思惑とは何か。そして晴明は九尾の妖狐を倒し、親友の仇を討つことができるのか――丁々発止の知恵比べが始まります。


 個人的なお話で恐縮ですが、昨年の『偽義経冥界歌』は(観劇しようと思っていた回が)中止となり、『神州無頼街』は延期となり――本当に久々の新感線観劇となった今回。

 このご時世ゆえでしょう、いつもの新感線の舞台よりも明らかに短い二幕で三時間弱という構成ですが、その分、かなりテンポ良く進んでいく印象があります。
 出演陣のメインは外部の俳優中心、脇をベテラン劇団員が固めるというパターンですが、メインどころは吉岡里帆以外、全員新感線経験者ということもあり、まったく違和感ない内容でした。

 物語に目を向ければ、晴明と蘆屋道満以外は全て架空の登場人物となっており、ファンタジー要素が強い内容の本作。その分、史実に縛られずに、自由に人と妖の物語が展開されていた印象があります。
 細かいことをいえば、九尾狐が日本に現れるのは晴明の時代から約二百年後ですが(といってもこういうお話もあるのですが)、作中で語られる設定は全くのオリジナル、性別も男ということで……

 ちなみにいのうえ歌舞伎で晴明というと『野獣郎見参』を思い出して、思わず身構えそうになりてしまますが、本作の晴明は比較的シンプルな、色々な意味で心正しき陰陽師。
 飄々として物柔らかな、しかしどこか油断ならないキャラクターは、演じる中村倫也という役者のイメージ通りですが――その一方で、時に驚くほど喜怒哀楽の激しい側面を見せてくれるのが印象的で、それが物語の諸所で効果的に描かれています。

 それにしてもいのうえ歌舞伎というか新感線の主人公は「好漢」と言いたくなるキャラが多いのですが、今回の晴明は「イケメン」それも「やだ、イケメン……」と言いたくなるような反則的な造形。
 一方、彼とは人間時代には肝胆相照らす親友、妖狐に乗っ取られてからは不倶戴天の敵となる行風役の向井理は、絵に書いたようlなクールな美形悪役ぶりに感心であります。

 物語のメインとなるのは、この二人が騙し騙されの知恵比べなのですが――内容的にアタック&カウンター・アタックの連続という印象ではあるのですが、しかし終盤の畳み掛けるようなどんでん返しの連続(ここからまだ来るか!? と本当に何度も思わされるほど)が実に強烈。
 何よりもクライマックスに至り、その知恵比べの構図の意味が、晴明と行風の二人の想いのぶつかり合いと共に浮かび上がる様は、ただただ圧巻というほかありません。

 そしてその先に、一種のパブリックイメージとしての超人晴明像をフォローしていくのも、心憎いところであります。


 正直なところ、時間が短いわりには(特に味方側の)キャラクターがバラエティに富みすぎていて、個々の出番が少なめに感じる部分はあります。
 しかし得体の知れない強キャラ感と変態ぶりを兼ね備えた千葉哲也演じる道満や、普段のイメージとは全く異なる武人キャラだった浅利陽介演じる検非違使など、いつもながらに個性的なキャラの乱舞に惹きつけられたのもまた事実であります。
(しかし、私もたいがい色々な道満を見てきましたが、こんな性癖のは初めて見た……)

 キャラ・物語・演出――フルスペックで復活した劇団☆新感線、復活したいのうえ歌舞伎を堪能させていただきました。


関連サイト
公式サイト

関連記事
『野獣郎見参』 晴明と室町と石川賢と

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2020.11.30

正子公也『水滸 一百零八将』 日本一の水滸伝画集、中国で刊行!

 このブログでは基本的に一般に手に入るもの、入れられたものを対象にしていますが、今回紹介するのは微妙にそこから外れるかもしれません。絵巻作家・正子公也の水滸伝画集『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』の中国版『水滸 一百零八将』の紹介であります。

 三國志や戦国もの(特に最近は後者が多いでしょうか)を中心に、美麗かつ迫力満点、そして何よりも対象のことを深く理解していて初めて成立する、物語性を深く感じさせるイラストを描く正子公也。
 しかし水滸伝ファンにとっては、言うまでもなく日本で描かれた水滸伝において、その原典の理解度と面白さで頂点にある(断言)『絵巻水滸伝』のビジュアル担当であり――言い替えれば日本一の水滸伝絵師であります。

 その正子公也が水滸伝のイラストが初めて(少なくとも一定数以上まとめて)掲載されたのは1997年の『水滸伝 天導一〇八星 好漢FILE』かと思いますが、私はその時からの大ファン。そしてその作者が梁山泊の好漢百八人全員を描いた画集が、1999年にグラフィック社から刊行された『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』であります。
 一部の好漢のみだった『好漢FILE』掲載作品だけでも素晴らしかったものが、百八人全て勢揃いした時のインパクトたるや――冗談や誇張抜きで呆然とさせられたほどだったのを今でも思い出します。

 その後、この画集は2006年に『絵巻水滸伝』の書籍化と合わせて魁星出版から(収録作品にはほとんど変更はないものの、好漢の渾名の英語名など修正を加えて)復刊されましたが、以来残念ながら絶版となっております。

 それが今年になって、水滸伝の母国である中国の人民文学出版社から、全4巻の正子公也画集『正子公也の宇宙』の第1巻として発売される――というニュースを知った時は、ある意味凱旋帰国という点は喜んだものの、正直なところ、日本版両方とも持っていることもあり、そこかで感心をそそられませんでした。
 しかしその内容が決定版とも言うべきもの――これまでの版では好漢の並びが作中の登場順であったものが席次順に変更され、さらに『絵巻水滸伝』の第一部の中で印象的な装画、さらに第二部の遼国篇と田虎王慶篇の表紙も収録されていると公式ブログで見れば、むむっとこないはずがありません。

 しかしさすがに中国国内のみでの発売のものだからこればかりは仕方ない――と思っていたところに、少数ながら国内でも通販されると知り、慌てて飛びついた次第であります(と言っても本当にギリギリのところだったのですが……)


Img_20201129_213946_1 さて、実際に届いた画集はといえば、これが写真で見れば判るように、縦横でいえば一回り、厚みでいえば倍近く違う外観。縦横はともかく厚みがここまで異なるのは、実は日本版は一ページに好漢一人、すなわち見開きで好漢二人だったものが、この中国版の百八星のパートは、見開きで好漢一人に変更になっているためであります。
 左側のページに好漢名が大きく迫力ある字体で記され、その他に日本版の巻末に収録された森下翠による好漢列伝の中国語訳や好漢の英語名等を掲載。そして右側に正子公也のイラストが掲載される形となっています。

 ちなみに本書は四章構成、「三十六天コウ星」「七十二地サツ星」は百八人のページですが、作中の名場面は「流星幻影」、第二部の表紙は「万里征途」――と、実にシビれる章題となっています。
(その他細かい仕様は、公式ブログの記事を参照)

 それにしてもこの中国版の百八星のページは、正子公也の画集としては言うまでもなく、水滸伝の百八星図鑑としても優れたものとなっている――としか言いようがなく、水滸伝ファンとしては、良いものを手に入れた! というほかありません。
 もっとも、日本版では、原典でペア扱いだった好漢たちは見開きで並ぶことを想定したような構図(例えば見開きで対峙する形の呂方と郭盛、阿吽の形で大見得を切っている杜遷と宋万など)になっていたものが、切り離されてみると――これはこれでもちろん成立しているものの――また違って見えるのは、ちょっと不思議な印象がありました。


 何はともあれ、少し早い自分へのクリスマスプレゼントとなったこの画集(作者のサイン入りの上、おまけで素敵なクリスマスカード(写真左)が!)。
 来年は『絵巻水滸伝』がついに完結することになりますが、最後の最後まで、いやその先まで応援していこう! と誓いを新たにした次第であります。


 しかし、見落としかもしれませんが、大事な人が一人抜けているような……(いや、作中の絵はあるのですが)


『水滸 一百零八将』(正子公也 人民文学出版社)


関連記事
 「絵巻水滸伝」第1巻 日本水滸伝一方の極、刊行開始
 「絵巻水滸伝」第2巻 正しきオレ水滸伝ここにあり
 「絵巻水滸伝」第3巻 彷徨える求道者・武松が往く
 「絵巻水滸伝」第四巻 宋江、群星を呼ぶ
 「絵巻水滸伝」第五巻 三覇大いに江州を騒がす
 「絵巻水滸伝」第六巻 海棠の華、翔る
 「絵巻水滸伝」第七巻 軍神独り行く
 「絵巻水滸伝」第八巻 巨星遂に墜つ
 「絵巻水滸伝」第九巻 武神、出陣す
 「絵巻水滸伝」第十巻 百八星、ここに集う!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇1 帰ってきた最も面白い水滸伝!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇2 強敵襲来、宋国十節度使!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇3 絶体絶命、分断された梁山泊!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇4 立て好漢!! 明日なき総力戦!!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇5 集え! 「梁山泊」の下に!

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2020.10.30

『まんが訳 酒呑童子絵巻』 絵巻から漫画への再生、漫画の技法の力

 古くからよく知られた伝奇物語を描いた『酒天童子絵巻』『道成寺縁起』「土蜘蛛草子」の三つの絵巻。その絵巻を「まんが」として作り替えるという、極めてユニークかつ意義深い試みに挑んだ一冊であります。

 絵巻、あるいは絵巻物――つまり絵とそれを説明する詞書を交互に並べ、横方向に繋ぐことで、一つの物語を描いた絵画については、ほとんどの方が教科書や、あるいは博物館で御覧になったことがあるのではないでしょうか。
 この絵巻は、連続した流れ・動きをつけられるという点で、印刷技術が発達して冊子本が普及するまで、物語を描く「メディア」として大きな意味を持つものであったと想像します。

 本書は、そんな物語を描いた三つの絵巻を題材としています。
 伊吹山千丈ヶ岳に潜み、都の姫君たちを次々と攫う鬼・酒呑童子とその眷属に対し、神仏の加護を受けた源頼光と四天王が血みどろの死闘を繰り広げる『酒天童子絵巻』
 美僧・安珍の戯れが清姫を蛇体の魔物に変え、道成寺に惨劇を起こす『道成寺縁起』
 宙を行く髑髏に導かれて怪しの館に踏み込んだ源頼光と渡辺綱が、次々現れる妖怪変化、そして巨大な蜘蛛の妖と対決する『土蜘蛛草子』

 いずれも現代に至るまで、謡曲や歌舞伎をはじめ、現代の小説や漫画、ゲームに至るまで、様々な形で描かれてきた(伝奇)物語の古典中の古典ですが、本作はその源流――とはいえないまでもそれに近い内容を描いており、それを辿るだけでも、大いに楽しめるものであります。


 しかしもちろん、本書の最大の特徴であり、かつ優れた点は、その絵巻を、漫画として再生していることにほかなりません。

 共に絵と言葉によって物語を描くメディアとして、一つの繋がりを持ったものとして――有り体に言えば絵巻が漫画の先祖であるとして――語られることが少なくない両者ですが、しかし単純に同列に扱って良いものかどうかは、実際に絵巻を見てみれば瞭然でしょう。

 例えば個々の絵の配置や大小の縮尺、あるいは絵と台詞の(一対一の)対応によって、一定の流れ、動きを能動的に作り出す――そんな技法は、漫画にあって、絵巻にはないものといえるでしょう。
 我々素人にとっては、絵巻を一連の物語として感じるのが難しいことがままありますが――もちろん、詞書が読めないという点はあるとしても――それは、あるいはこの点が理由ではないかとも感じます。

 しかし本書は、まさにこの漫画の技法を施すことによって、絵巻に描かれた内容を、誰にとってもわかりやすい形に、「翻訳」しているのであります。
 これによって、本書は三つの物語を、現代人の我々にとって味わいやすい形として提示することに成功しているのですが――同時に本書は、我々が普段何の気なしに読んでいる漫画が、様々な技法を駆使して成立していることを再確認させてくれるものでもあります。

 この辺り――全く失礼な言い方で恐縮なのですが――現代人の目からすれば、他の二作と比べても明らかにプリミティブな絵柄の『道成寺縁起』が、本書においてまんが訳されることで、息を呑むようなサスペンスとして再生している点に、はっきりと表れているように感じられます。
 個々の絵だけみればユーモラスですらあるものが、しかし漫画となってみれば――たとえば清姫が安珍を追いながら異形に変化していく姿や、あるいは蛇体の清姫が道成寺に乗り込んで僧侶たちを蹴散らす場面など――大きな迫力を生み出しているのは、これはまさに漫画の技法のなせる技でしょう。

 絵がそれほど緻密ではないのに動きを感じさせてくれる漫画や、逆に絵は上手いのに妙に読みにくい漫画があるのは、この技法の巧拙によるものなのか――などと、思わぬところで再確認させられた次第です。


 絵巻にまんが訳を施すことによって、絵巻が描く物語そのものの面白さを再生させるとともに、絵の中から動きを生み出す漫画の技法の存在を――さらに言えば、絵巻と漫画の関係性・距離感を――明らかにする本書。古典好き・伝奇物語好きはもちろんのこと、普段漫画に親しんでいる方こそ手にとってもらいたい一冊であります。


『まんが訳 酒呑童子絵巻』(大塚英志監修/山本忠宏編 ちくま新書) Amazon

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2020.06.22

『五右衛門vs轟天』 二大ヒーロー夢の対決、そして大混戦のオールスター戦

 悪の組織ブラックゴーモン壊滅のため、彼らの先祖である五右衛門を倒さんとするインターポールによって400年前に送り込まれた剣轟天。その頃、五右衛門は絵図に示された風魔忍軍の秘術を探し出そうとしていた。五右衛門と轟天、二人の対決は秘術の力によって思わぬ展開を見せることに……

 『偽義経冥界歌』が東京公演途中で中止、40周年記念の『神州無頼街』も中止と、劇団☆新感線ファンにとっては、辛いことが続く昨今。そんな中、ニコニコ動画で「SSP動画祭り」と銘打って、未ソフト化の公演が動画配信されることとなりました。
 その第4弾が、劇団☆新感線35周年オールスターチャンピオン祭りと題して五年前に公開された『五右衛門vs轟天』であります。

 五右衛門とは言うまでもなくあの石川五右衛門――『五右衛門ロック』シリーズで大活躍する、近年の古田新太の当たり役。釜茹でにされたはずの彼が海の向こうに脱出、世界を股にかけて大暴れ――という大活劇シリーズの主役を務める好漢であります。
 一方の轟天は、新感線の一方の柱であるネタものの雄『直撃! ドラゴンロック』の主人公である、異常にワイルドな風貌の武術達人にして、異常なまでの女性(の下着)好きという変態。橋本じゅんといえばこれ、と言うべきあまりにも濃すぎるキャラクターです。

 奇しくもこれまでに新感線での主役作品が三本ずつのこの両雄が、ダイナミックな感じでvsする本作、何故か(?)ソフト化もされていなかったのですが、今回このような形で配信されたのは望外の喜びです。


 さて本作は、悪の組織の手に落ちかかっている現在を救うため、五右衛門の○○を叩き潰す指名を帯びた轟天がタイムスリップ、五右衛門と対決するのが縦糸。そして五右衛門と女盗賊・真砂のお竜、からくり戯衛門(その実は……)と、風魔忍群、五右衛門の宿敵・マローネ侯爵夫人一味が繰り広げる三つ巴の争いが横糸の物語であります。
 設定的には、『五右衛門ロック』シリーズ三部作の後の時系列に轟天が乱入した形になるのですが――さらにそこにその他の新感線作品のキャラクターたちがスターシステムで次々と顔を出すという、実に豪華かつ混沌とした内容の作品です。

 そんな俺が俺がの状態の本作で、主役二人以外に強烈な印象を残すのは、何といってもある意味この混戦の元凶である、謎のビジュアル系忍者・ばってん不知火。
 『レッツゴー! 忍法帖』で池田成志が演じて大暴れした怪キャラクターですが、本作でも自分自身で何をやっているのかわからない、というノリで場を引っかき回し、こちらを大いに抱腹絶倒させてくれました。

 また同じ『レッツゴー! 忍法帖』からは、中谷さとみ演じる風谷のウマシカが登場。マローネに支配されたぬらくら森に住む青き衣をまといし少女で、実は本作のヒロイン枠の一人なのですが――名前からわかる通り、実にマズいキャラ。
 初登場作品の頃からマズかったのですが、今回はそれにさらに拍車がかかり、ラストバトルに森の仲間たちと参戦した時の姿は完全にアウト。本作がソフト化されないのはもしかして――という疑惑も浮かびます。


 その他、陰険メガネと長髪美形と一粒で二度美味しい粟根まことの熱演や「ふんどしと呼ばれる男」の客演など、実に賑やかな本作なのですが、しかし一番感心させられたのは、マローネ役の高田聖子でした。

 マローネ自身は、これまでシリーズ二作品に登場したお馴染みのキャラクターなのですが、本作では中盤にとんでもない大異変が起こり、大きくその立ち位置が変わることに。
 そしてそこからの展開はほとんど古田新太との演技合戦――長年新感線を引っ張ってきた二人ならではの応酬には、ただ感心させられるばかりであります(この辺り、この展開を用意した脚本も流石です)。

 もっとも、そのおかげでというべきか、中盤は轟天の影がちょっと薄い印象もあるのですが――まあ存在しているだけで濃いの轟天というキャラで、もちろんクライマックスではお馴染みの(?)最低過ぎる格好で大暴れ。
 これまでのシリーズであれば五右衛門が務めていた役割を見事果たして、両雄の大暴れに繋がっていく展開には、ただ笑顔で拍手するしかありません(しかしこうして見ると、五右衛門は新感線作品の主人公の中ではかなり常識人だったのだな――と再確認)。


 そしてラストには、五右衛門といえばこれ! という展開からの最高の見得切りで幕――と、大満足の本作。五右衛門シリーズとしてもきちんと(?)成立しているだけに、やはりソフト化されていないのは残念ですが、ここしばらくの鬱憤を吹き飛ばすことが出来た快作であることは間違いありません。


関連サイト
 新感線・シンパシー・プロジェクト

関連記事
 「五右衛門ロック」 豪快で大バカで痛快で
 「薔薇とサムライ GoemonRock OverDrive」(その一) 痛快無比、古田五右衛門再登場!
 「薔薇とサムライ GoemonRock OverDrive」(その二) 新たなる五右衛門物の誕生
 「ZIPANG PUNK 五右衛門ロックⅢ」(その一) 三度登場、古田五右衛門の安定感
 「ZIPANG PUNK 五右衛門ロックⅢ」(その二) 悩める名探偵の行方は

|

2019.10.06

劇団ヘロヘロQカムパニー『冒険秘録 菊花大作戦』 驚きの原作再現率の大活劇

 というわけで、昨日ご紹介した『冒険秘録 菊花大作戦』の、劇団ヘロヘロQカムパニー(以下「ヘロQ」)による舞台版であります。何者かによって明治天皇が誘拐されるという大事件に押川春浪と天狗倶楽部が挑む物語を、ほぼ原作そのままに舞台で再現してみせた快作であります。

 明治45年、赤坂の料亭から何者かによって連れ去られた明治天皇。7日後に日本とロシアとの秘密条約調印を控えた中、事が公になれば、いまだに不安定なロシアとの関係がさらに悪化しかねない――いやそもそも、一国の元首が誘拐されるとは、国家の恥以外のなにものでもありません。
 軍も警察も表だって動かす事ができない中、東京市長・尾崎行雄は、最後の希望を押川春浪と天狗倶楽部に託すのでした。

 かくてこの密命を受けた春浪は、天狗倶楽部の精鋭7名を選出、そこに旧知の警視庁の黒岩刑事と妹の時子嬢、憲兵隊の織田少尉を加えた面々で、日本の命運を賭けた任務に挑むことになります。
 しかし犯人からの要求もない中、事態は五里霧中の状況。果たして犯人は何者なのか、そしてその狙いは何なのか。そして何よりも天皇陛下はどこにおわすのか――刻一刻迫るタイムリミットが迫る中、春浪と天狗倶楽部の活躍や如何に!? 


 と、昨日書いたのと同じあらすじ紹介で恐縮ですが、驚くほどの原作再現率であったこの舞台。
 二段組み300ページの単行本を2時間半程度で舞台化しているため、もちろん物語のディテールやチョイ役など、省略している部分は多々あるものの、それでもメインどころだけで20名近いキャラクターと、舞台となる7日間の出来事をほとんど全て拾い上げているのには、感心するほかありません。

 原作との大きな相違点も、『いだてん』効果か三島彌彦の出番が大きく増えていたこと(短距離選手にあまり長距離奔らせては――という気もしますが)、キャラクターの一人の性別が変わっていること、原作のエピローグの後にもう1シーン加わっていることくらい。
 逆にこれは再現が難しいのではないかな、と思った終盤のアクションシーンの数々は、冷静に考えるとギャグになりかねないような形でありつつも、出演者の熱演でカバー。さらにラストで重要な役割を果たすあるキャラクターもきっちり再現しているのには驚きました。(舞台挨拶の最後の最後、このキャラクターが一気に持っていくので、DVD化の暁にはぜひご覧を)


 私はヘロQの舞台はこれまで『魔界転生』と『犬神家の一族』しか観ていないのですが、どちらも映画など他のバージョンの要素も取り入れつつ、原作をきっちりと踏まえた舞台であったという印象があります。
 今回は他のバージョンというものがないわけで、それはそれで非常に難しかったのではないかと思うのですが――しかしそれでも今回も、ヘロQはしっかりとやり遂げてみせた、と感じます。

 何よりも本作は原作もさることながら(というのは非常に申し訳ないのですが)、登場人物の大半は実在ながらほとんどの観客にとっては馴染みの薄い人物。それだけに難しい部分は多々あったのではないかと思いますが――しかしその部分を自由に膨らませていたのも楽しめました。
 正直なところ、原作は登場人物のキャラクター描写の掘り下げをあまり行わない作風なのですが、役者が目の前で演じる舞台という形式は、その点はむしろキャラクターを血の通ったものにするという点で良かったのかもしれません。

 ちなみに押川春浪役は当然(?)座長の関智一が演じていましたが、今の目から見ると微妙に難しい部分もあるこの人物を、明るいバージョンの関智一として気持ち良く演じていたのは流石でした。

 しかしこの舞台のMVPは、開演前の前説から幕が下りた後までほとんど出ずっぱりで、小説でいえば地の文、映像作品でいえばナレーションにあたる役割を果たしていた講談師役の長沢美樹ではないでしょうか。
 もちろんオリジナルキャラクターですが、冷静に考えると異常にシーン数(場面転換)の多いこの舞台を一本のものとしてまとめたのは、この方の語りあってのことと、心から思います。


 というわけで今回も大変楽しませていただいたヘロQの舞台。これだけ楽しいのだから、ぜひ他の天狗倶楽部ものも――というのはもちろんファンの無茶ぶりではありますが、そう思いたくなるほどの舞台でありました。


関連サイト
 公式ブログ

関連記事
 舞台「魔界転生」 おいしいとこ取りの魔界転生
 劇団ヘロヘロQカムパニー『犬神家の一族』 関智一の金田一だからこそできたもの

|

2018.06.24

ことだま屋本舗EXステージ『戦国新撰組 結』 新たな魂を吹き込まれた物語

 舞台上で声優が舞台上に映し出される漫画の台詞をアフレコするという、LIVEリーディングイベントを観劇(聴劇?)して参りました。ほぼ一年前に上演されたことだま屋本舗EXステージ『戦国新撰組』の続編・完結編であります。

 朝日曼耀 作画、富沢義彦 原作の原作漫画についてはこれまでこのブログでも紹介して参りましたが、タイトルのとおりと言うべきか、戦国時代にタイムスリップしてしまった新撰組の活躍を描く物語であります。
 突然桶狭間の戦直前の時代に放り出され、全く勝手の異なる戦いの中で幾多の犠牲を出しつつも、徐々に頭角を現していく土方らの姿を、佐久間象山の息子・三浦啓之助の目を通じて描く作品です。

 乱戦のどさくさに紛れて啓之助に信長が射殺され(!)、その後釜に濃姫が座るという場面まで――全3巻の原作のうち、第2巻の中盤までが上演された前回。
 今回はこれを受けて残る後半部分――清洲城に来襲した今川義元との決戦、さらに竹中半兵衛が守る斎藤家との死闘が、敵味方同士に分かれた新撰組隊士たち同士の戦いを交えて描かれることになります。

 LIVEリーディングというイベントは、冒頭に述べたとおり漫画の画を(吹き出しは消して)そのままスクリーンに映し出し、それに声を当てていくというものだけに、内容は必然的に原作に忠実にならざるを得ません。
 それだけに内容的には原作既読者には(当たり前ですが)目新しさはない――はずなのですが、しかし声優の声が付いてみると、物語がまた全く異なったものとなって見えてくるのが面白いところであります。

 漫画を読んでいる時に何となく脳内で再生しているのとは異なり、生きている人間一人一人がそれぞれのキャラクターとして喋る――本作のようなキャラクター数がかなり多い作品では、それがある意味物語の輪郭を明確にしていくものだと、再確認させられました。
 実は原作の方は、正直に申し上げて後半はかなり駆け足になった印象があるのですが、それがこのLIVEリーディングでは、違和感や不足感を感じさせず、むしろ状況が刻一刻と変わっていく緊迫感を醸し出していたのも、この声の力に依るところが大きいのでしょう。

 ちなみに主人公の三浦啓之助役は、前回と異なり酒井広大が演じていたのですが、前回にも勝るとも劣らぬ啓之助っぷり――特にラストにこれまでの自分を捨て、新たな道を撰ぼうと踏み出す場面はなかなかに良かったと思います。

(しかし前回もそうだったと思いますが、RDJをモデルにした今川義元の声を、「あの声優」チックに演じるのはズルくも楽しかったです)


 なお、今回は本編の前に同じ原作者の作品(作画 たみ)『さんばか』を同形式で上演。こちらは寛政年間の江戸を舞台に、戯作者を夢見る少年・菊池久徳と、戯作ファンの三人娘が風呂屋を(主な)舞台に繰り広げるお色気多めの時代コメディであります。

 原作漫画を読んだのはかなり前でしたが、男臭い『戦国新撰組』に比べると、グッと華やかな内容で、女の子たちがわちゃわちゃと騒がしい展開は、これはこれでこの媒体にかなり似合う――という印象。
 映画で言えば本編前の併映の短編といった趣きですが、ちょうど良い塩梅の作品であったと思います。


 何はともあれ、『戦国新撰組』と『さんばか』――漫画で楽しんだ物語をこうして新たな魂を吹き込んだ形で追体験するというのは、なかなか楽しい経験でありました。機会があれば、またぜひ。



関連記事
 ことだま屋本舗EXステージ『戦国新撰組』

 朝日曼耀『戦国新撰組』第1巻 歴史は奴らになにをさせようとしているのか
 朝日曼耀『戦国新撰組』第2巻 新撰組、いよいよ本領発揮!?
 朝日曼耀『戦国新撰組』第3巻 彼らが選び、撰んだ道の先に

 「さんばか」1 江戸の風呂屋に自由と交流の世界を見る

| | トラックバック (0)

2018.05.16

『修羅天魔 髑髏城の七人 Season極』 新たなる髑髏城――これぞ極みの髑髏城!?

 天魔王率いる関東髑髏党が覇を唱える関東に現れた渡り遊女・極楽太夫。色里・無界の里に腰を落ち着けた彼女には、凄腕の狙撃手というもう一つの顔があった。無界で徳川家康に天魔王暗殺を依頼された極楽。しかしその前に現れた天魔王の素顔は、かつて深い絆で結ばれた信長と瓜二つだった……

 実に1年3ヶ月にわたり、5つのバージョンで公演された劇団☆新感線の『髑髏城の七人』、その最後を飾るSeason極『修羅天魔』を観劇して参りました。
 それまでにも5回上演され、その度に様々な変更が加えられてきた『髑髏城』ですが、しかし今回の『修羅天魔』はその中でも最も大きく変わった――ほとんど新作とも言うべき物語。何しろ、これまで一環して主人公であった捨之介が登場しないのですから!

 上のあらすじにあるように、本作の主人公は、渡り遊女にして凄腕の狙撃手である極楽太夫こと雑賀のお蘭――かつては信長に協力し、その天下獲りを支えてきた人物です。
 これまでの髑髏城において登場してきた極楽太夫は、雑賀出身の銃の達人という裏の顔は同じながら、初めから無界の里の太夫という設定。そしてお蘭の名を持ち、信長と縁を持つ登場人物としては、その無界の里の主・蘭兵衛が別に存在していました。

 そう、本作の極楽太夫(お蘭)は、これまでの捨之介と極楽太夫と蘭兵衛、三人の要素を備え、それを再整理したかのようなキャラクターなのであります。

 それを踏まえて、彼女を取り巻く登場人物たちの人物関係も、これまでとはまた変わった形となります。
 もう一人のヒロインである沙霧や、豪快な傾き者・兵庫といった面々は変わらないものの、蘭兵衛に代わる無界の里の主として若衆太夫の夢三郎が登場。狸穴次郎右衛門こと徳川家康の存在もこれまで以上に大きくなりますし、何よりも新たな七人目が……

 この変更が何をもたらしたか? その最たるものは、本作における重要な背景である織田信長の存在――信長とメインキャラたちの関係性の変化があるでしょう。
 これまで信長を中心に、捨之介・天魔王・蘭兵衛が複雑な関係性を示していた『髑髏城』。それが本作では極楽太夫・天魔王の関係性に絞られることにより、ドラマの軸がより明確になった――そんな印象があります。

 これは個人的な印象ですが、これまでの『髑髏城』では蘭兵衛の存在――というか第二幕での蘭兵衛の変貌が今一つ腑に落ちないところがありました(色々と理由はあったとはいえ、あそこまでやるかなあ、と)。
 今回、その辺りがバッサリとクリアされた――正確には異なるのですがその変更も含めて――のは、大いに好印象であります。

 閑話休題、その信長を頂点とした「三角関係」の明確化は、これまで(私が見たバージョンでは)背景に留まっていた信長の存在が、回想の形とはいえはっきりと前面に登場したことと無関係ではないでしょう。
 かつては雑賀の狙撃手として信長を狙ったお蘭が、信長の「同志」にして最も愛すべき者となったか――それを描く物語は、古田新太の好演もあって素晴らしい説得力であり、そしてそれだけに登場人物たちの因縁の根深さを感じさせてくれるのには感嘆するほかありません。

 さらにこの過去の物語が、第二幕早々で炸裂する意外な「真実」――これまでの物語を根底から覆すようなどんでん返しに繋がっていくのが、またたまらない。
 実はここまで、如何にこれまでの『髑髏城』と異なるかを述べるのに費やしてきましたが、同時に意外なほどに変わらない部分も多い本作。特に物語展開自体はこれまでとほぼ同じなのですが――だからこそ、この展開には、とてつもない衝撃を受けました。

 そしてその「真実」を踏まえて、極楽太夫が如何に行動するのか、どちら側の道を歩むのかという展開も、本作の人物配置――端的に言ってしまえば男と女――だからこそより重く、そして説得力を持って感じられるのであります。
 ……そしてそれがもう一回クルリと裏返るクライマックスの見事さときたら!。


 もちろん本作の魅力はこれだけではありません。また、生歌が存外に少なかったことや、過剰にエキセントリックな演技(それも演出のうちではありますが)で興ざめのキャラがいたことなど、不満点もあります。
 しかしそれでもなお、本作はこれまで30年近くにわたって培われてきたものを踏まえつつ、それを見直すことでまた新しい魅力を与えた新しい『髑髏城の七人』であり――そして、この1年3ヶ月の最後を飾るに相応しい、まさしく「極」であったということは、はっきり言うことができます。

 実に素晴らしい舞台でした。



関連記事
 髑髏城の七人
 髑髏城の七人 アオドクロ
 「髑髏城の七人」(2011) 再生から継承の髑髏城
 『髑髏城の七人 花』(その一) 四つの髑髏城の一番手!
 『髑髏城の七人 花』(その二) 髑髏城という舞台の完成形?

| | トラックバック (0)

より以前の記事一覧