2024.09.27

劇団四季『ゴースト&レディ』(その二) もう一人のフロー「たち」と、生きている人間の凄み

 藤田和日郎の『黒博物館 ゴーストアンドレディ』をミュージカル化した、劇団四季『ゴースト&レディ』の、主に原作ファンの視点からの感想の後編です。原作の怪奇と熱血という要素が薄められたこの舞台には、しかし本作ならではの解釈がありました。それは――

 その一つが、デオンのキャラクターです。劇中でフローとグレイに立ちはだかる強敵であるデオンは、実在の人物――作中でも軽く触れられていましたが、フランスの騎士であり外交官、そして異性装を好んだ人物でもありました。
 この舞台においては、それに対してデオンはっきりと女性――それも親によって女性であることを禁じられ、男性として生きることを強いられた存在として描きます。

 図らずもゴーストとなったことで今は女性であることを隠さなくなったデオンですが、しかしその心中にあるのは、女性であることの強烈な屈託――自分が女性でありながら女性という存在を呪い、蔑むという屈折した感情なのです。
 そんな彼女が、女性のまま、己の道を貫き、戦場に立つフローを見た時どう感じるか――原作では一種性的な視線だったそれは、むしろ本作では、自分自身の人生を否定する存在に対する敵意であったと感じられるのです。

 ここにおいてデオンは、グレイだけでなくフローと対置される存在として描かれているといえるでしょう。そしてもう一人、フローと対置される舞台オリジナルのキャラクターがいます。それは大臣の姪であり、クリミアの看護団に加わるエイミーです。
 フローのようになりたいと憧れを抱き、彼女と共にクリミアに向かったエイミー。しかし彼女にとって現地はあまりに過酷な環境であり、フローの励ましを受けつつも、次第に彼女は追い詰められていくことになります。

 その結果、彼女はある選択をするのですが――それはフローにはできなかったもの、フローが捨ててきた道を選ぶことだった、という構図は、極めて象徴的に感じられます。
 デオンとエイミーの二人は、フローのようには生きられなかった、自分自身の望むように生きられなかった女性。いわば「もう一人のフロー」たちを描くことで、本作はフローという人物を、原作とは別の形で掘り下げることに成功したと感じます。
 (そしてこの二人が、共に劇中でフローを殺しかけたというのは、決して偶然ではないのでしょう)


 さらに感心させられたのは、本作が舞台劇であることに極めて自覚的であったことです。そもそも原作は、前回冒頭で触れた黒博物館の学芸員とグレイの会話という形で展開していく物語なのですが、舞台ではその部分をカット。しかしその代わりに、冒頭でグレイは我々観客がゴーストを見ることができる者として語りかけてきます。

 この辺り、なるほど自分たちが学芸員さんなのか!? と感心したのはさておき、考えてみればグレイはシアター・ゴースト。舞台に登場するのにこれ以上適任はないわけですが――しかしその意味付けは、ラストに至り、こちらの想像以上に大きなものとなっていきます。
 詳しい内容には触れませんが、結末でグレイがフローに見せようとしたもの――彼が現世に留まってまで我々に見せようとしたものがなんであったか。それは誰もが知るナイチンゲールの、誰も知らない秘密の物語であり、それはグレイとフローの愛の物語でもあった――それは劇場を愛し、劇場で死に、劇場に憑いた彼にとって、これ以上はない形の告白であったといえるでしょう。


 そんなわけで、本作は原作とはまた異なる形で、己の道を貫き、互いを想いあったゴーストとレディの姿を描いてみせました。それだけでももう十分に魅力的なのですが、しかし魅力はまだ尽きません。クライマックスであるフローと軍医長官との対決において、舞台に上がるのはいつだって生きてる人間――この言葉を我々は痛感させられるのです。
 この場面では、グレイとデオンが戦っている間、フローが身一つで、武器を持った軍医長官と対峙するのですが――ここでのフロー役の谷原志音さんの歌の凄まじさときたら! まさしく全身全霊を叩きつけるようなその凄みは、生きている人間が歌い演じる姿をその場で観るという、観劇でしか味わえないものであったと断言できます。

 実は原作ではここで件の生霊要素が大きくクローズアップされるのですが、もし我々に生霊を見る力があったら、原作で描かれたようなものが見れたのではないか――というのは冗談としても、舞台では薄れていると感じた熱血要素を、全て補って余りある名場面だったというほかありません。


 厳しいことをいえば、フローが死を望む理由が弱いという印象は冒頭からつきまといました。また、ラストで見せた舞台ならではの展開のために、その前の「贈り物」の印象が薄れた感もあります。
 しかしその一方で、舞台上の演出や歌など、劇団四季ならではのレベルの高さを感じさせられる部分も多く(特に亡くなった人間の魂が抜ける場面は、遠目に見るとどうやって演じているのかさっぱりわからない凄さ)、ああいい舞台を見た、と満足できる内容であったのは間違いありません。

 原作の内容を踏まえつつも舞台としての特性を生かし、新たなミュージカルとして描いてみせた本作――終わってみれば原作ファンとしても納得の舞台でした。


関連記事
藤田和日郎『黒博物館 ゴーストアンドレディ』(その一) 灰色の幽霊と白衣の天使と
藤田和日郎『黒博物館 ゴーストアンドレディ』(その二) 二人のその先に生まれたもの

|

2024.09.26

劇団四季『ゴースト&レディ』(その一) 熱血と怪奇を薄れさせた物語!?

 劇団四季のミュージカル『ゴースト&レディ』を観劇しました。藤田和日郎の伝奇漫画『黒博物館 ゴーストアンドレディ』を原作としつつも、巧みな取捨選択によって新たな味わいを生み出したこの作品について、主に原作ファンの視点から感じた点を中心に紹介いたします。

 19世紀のロンドン、ドルリー・レーン劇場に長く住み着いている幽霊・グレイの前に現れた一人の令嬢。フローと名乗る彼女は、生前、決闘代理人だったというグレイに、自分を殺してほしいと願います。
 看護の道を志しながらも、家族の強い偏見と反対にあって生きる意味を失っていたフロー。彼女に興味を持ったグレイは、絶望の底まで落ちた時に殺すと約束するのでした。

 一度は死を覚悟したことで決意を固め、婚約者とも決別して、クリミア戦争の野戦病院に派遣される看護婦団の団長となったフローと、彼女について(憑いて)いくグレイ。
 しかし、現地で彼女を待っていたのは、軍人たちの非協力的な態度と、あまりに劣悪な環境に次々と命を落としていく負傷者たちの姿でした。それでもグレイの存在に支えられながら、フローは一歩一歩状況を改善していきます。

 そんな彼女の存在疎ましく感じた軍医長官ジョン・ホールは、次々と妨害を仕掛けてきます。それどころか、彼にもまた、ゴーストが憑いていたのです。その名はデオン・ド・ボーモン――名高い騎士にして、決闘で生前のグレイを殺した相手であります。
 ジョンとデオンに苦しめられながらも、フロー――フローレンス・ナイチンゲールは、次第にグレイとの間に絆と愛情を育んでいくのですが……


 クリミア戦争で「クリミアの天使」「ランプを持ったレディ」と呼ばれ、その後の看護教育の礎を築いたフローレンス・ナイチンゲール。そんあ彼女と、劇場に現れる灰色の幽霊の間の不思議なラブストーリーである本作は、冒頭に触れた通り、漫画が原作の作品です。
 原作は、ロンドンに実在する犯罪資料館「黒博物館」に秘蔵される品にまつわる奇譚を語る趣向のシリーズの一つですが、今回の舞台化に当たり、黒博物館の部分はスッパリとカット。もちろん物語の流れは原作を踏まえているのですが、特にクリミアに向かう以前のエピソードを中心に、枝葉をかなり整理した内容になっています。
(個人的には、原作には史実に忠実なあまり少々盛り上がりに欠ける部分や、逆に違和感を感じるアクションシーンもあったと感じていたので、この整理自体は大歓迎です)

 しかしそれ以上に原作と大きく異なるのは「生霊」の要素です。人間の強い負の感情が形になったこの生霊は、奇怪な姿でその人物の背後に立ち、時に周囲にまで与える存在なのですが――舞台ではキャラクターの影を変化させることでこれを表現しつつも、原作よりもその比重は大きく減らされています。
 そもそも、原作ではナイチンゲールもこの生霊を、それも相当に強力なものを背負っており、それが冒頭で彼女に死を願わせる理由となっていたのですが、この点から大きく異なることになります。

 もう一つ、原作ファンから見て大きく印象が異なるのは、物語全体を貫く熱血ものとしての空気感でしょう。元々、原作者は怪奇と熱血を最大の特徴かつ魅力とする作品を一貫して発表してきました。この原作もまた(他の作品よりは度合いは少なめではあるものの)、困難に全身全霊で立ち向かうフローと、軽口を叩きながらも彼女と己の誇りのために死闘に臨むグレイの姿を通じて、読んでいるこちらの体温が上がるような物語が描かれていました。
 その一方でこの舞台は、むしろフローとグレイのロマンスに焦点を当てることにより、大きくその印象を変える形となっています。

 いわば怪奇と熱血を、つまりは先に述べたように原作の特色を薄れさせた舞台。そんな印象を受けた第一幕を観た時点では、原作ファンとして戸惑いがなかったかといえば嘘になります。


 しかし、満を持して、と言いたくなるような姿でデオンが登場して第一幕が終わり、いよいよ物語が盛り上がっていく第二幕を観るうちに、なるほどこの舞台はこういう形で物語を解釈しているのか、と理解できました。

 それは――この続きは長くなりますので次回をご覧下さい。


関連記事
藤田和日郎『黒博物館 ゴーストアンドレディ』(その一) 灰色の幽霊と白衣の天使と
藤田和日郎『黒博物館 ゴーストアンドレディ』(その二) 二人のその先に生まれたもの

|

2024.09.03

劇団☆新感線『バサラオ』(その二) 裏返しの新感線ヒーローの危険な魅力

 劇団☆新感線44周年興行『バサラオ』の紹介、後編です。婆娑羅が横行する世界に登場するキャラクターたちの姿とは――

 このような物語世界に登場するキャラクターが普通であるはずもなく、ほとんど皆が皆、自分の信念――というよりもエゴで動き、それが混乱をさらに加速させていくのもまた、実にこの時代らしいといえるでしょう。
 こうしたキャラクターの大半は、『ジャパッシュ』モチーフのヒュウガとカイリを除いて、実在の人物をモデルにしており、それは名前を見れば察することができます。
 ゴノミカド(後醍醐天皇)、キタタカ(北条高時)、サキド(佐々木道誉)、クスマ(楠木正成)、アキノ(北畠顕家)――いずれも歴史に名を残した強烈な個性を持つ面々がモチーフですが、彼らを演じるキャストもまた、はまり役揃いなのが嬉しいところです。

 特に印象に残るのはゴノミカドです。普段は関西弁のとぼけたおっさんながら、裏では髑髏本尊を崇めて幕府を呪詛し、時に平然と配下を切り捨て、そして途方もなく暴力的な行動に出る――そんな主人公の最大の壁というべき存在を古田新太が演じた時点で、キャスティング的に大勝利というほかありません。


 しかしそれでもなお、そんな面々を押しのけて、常に物語の中心にいたのは、ヒュウガとカイリの二人――天下を取るという確かな目的で結ばれているようでいて、互いを含めた他者への裏切りや謀略を繰り返す、一瞬たりとも油断できないキャラクターです。
 己の美を輝かせることを行動原理とするヒュウガはもちろんのこと、その影のようでいて、それ以上に策謀を働かせるカイリも一歩も引かない――これまでの新感線作品にもバディ的な二人は様々登場してきましたが、この二人はその関係性を裏返しにしたようにも感じられます。

 いや、裏返しといえばヒュウガの存在は、これまでの新感線作品に登場したヒーローたちの裏返しという印象が強くあります。
 もちろん全てではないものの、たとえば『髑髏城の七人』の捨之介や『五右衛門ロック』の五右衛門がそうであったように――人々を苦しめる悪党を叩きのめして平和を取り戻し、人々の前から風のように去っていく。確かに、そんな痛快なヒーローたちと同様に、ヒュウガもまた、人々を抑えつける者たちを容赦なく叩きのめしていきます。

 しかしその先にヒュウガが求めるものは平和や人々の救いではなく、混沌の中で己の美が咲き誇る世界――そのために倒すべき幕府や帝もまた、強大かつ悪辣な存在として描かれているものの、それ以上に容赦なく敵を追い詰めるヒュウガの姿は、やがて痛快さを通り越し、本当に彼に喝采を送ってよいのか、考えさせる存在となっていきます。

 この辺りは、やはり『ジャパッシュ』の日向に通じるものがあります。しかし、あちらが明確に独裁者の座を求める邪悪な存在であったのに対し、「己の美」という価値観が間に挟まることで、ヒュウガは、まだマイルドな印象を与えますし、舞台が混沌とした南北朝時代モチーフであるのも、印象を大きく変えています。
 さらに、日向に対してほとんど無力だった石狩と異なり、カイリはヒュウガと対等に近い存在である点も大きいでしょう。

 その一方で、終盤のあるシーン――ヒュウガに喝采を送る「自由な」群衆が、自分たちよりも弱い存在には容赦なく暴力を振るい、奪い取る姿を見れば、「今」だからこそのヒュウガの危険性について、作り手側も自覚しているとも感じられます。
(もっとも、あのオチ的なラストシーンには、それでも一種の迷いというか衒いも感じてしまうのですが)


 しかしそうした危険性は感じさせつつも、それでもなお、ヒュウガというキャラクターも『バサラオ』という物語自体も、非常に魅力的であることは間違いありません。

 特にクライマックスの両軍の決戦――舞台上で帝二人が連続して××されるという展開には、本当に良いのか!? と仰天――から、バサラの王となったヒュウガが群衆を従えて舞い踊る、高揚感に満ちたシーンに続く流れには、「自分は今、何かとんでもないものを目撃している!」という得体の知れない感動を覚えました。

 この生観劇の醍醐味というべき強烈な感覚は、正直なところ新感線の舞台でも久しぶりに味わったものでしたが――それだけ本作が衝撃的な作品であるというべきなのでしょう。
 新感線でも屈指の殺伐としたシーンの多さ(これだけ多くの生首が出てきたのも珍しいのでは)にも、そして大きな危険性を孕んでいるにもかかわらず――それでも不思議な爽快感すら感じさせる、まさに主人公のキャラクターそのものを体現するような作品です。


関連サイト
公式サイト

|

2024.09.02

劇団☆新感線『バサラオ』(その一) 新感線と婆娑羅の驚くべき親和性

 劇団☆新感線44周年興行『バサラオ』を観劇しました。鎌倉時代末期から南北朝時代の日本をモチーフにした世界を舞台に、凄まじいまでの美を持つ男が、幕府と朝廷を向こうに回してのし上がっていく姿を描く物語――異常なまでにパワフルで暴力的でありながらも、当時に途方もなく蠱惑的な物語です。

 幕府と帝が争う島国「ヒノモト」。その頂点に立つ鎌倉の執権キタタカの密偵として働いてきた青年カイリは、密偵を辞めたいと望むものの、逆心を疑われ逃げる羽目になります。
 その途中、狂い桜の下で女たちを従えて派手に歌い踊る美貌の男――同じ里の出身であるヒュウガと出会ったカイリは、そのバサラぶりに惚れ込み、自ら軍師役を買って出るのでした。

 そして自分たちを討ちに現れた女大名サキドを丸め込み、幕府と対立して沖の島に流されたゴノミカドの首を取ると言い放ったヒュウガ。
 彼が沖の島でゴノミカドと対面、半ば挑発によってその本心を引き出したところに、ゴノミカドの皇子を奉じて山に籠もっていたクスマ一党を動かしたカイリが登場――二人はついにゴノミカドを動かすことに成功します。

 京で再会したサキドを味方に引き入れ、ゴノミカドを奉じた倒幕の軍を起こしたヒュウガ。しかしその陰で、彼は京に来ていたキタタカを密かに逃がすという不可解な動きを見せます。
 一方で、ヒュウガの危険性を見抜いていたゴノミカドは、自身の腹心である戦女・アキノにヒュウガの暗殺を命じます。そしてアキノはカイリがヒュウガに対して密かに殺意を抱いていることを見抜くのでした。

 様々な思惑が交錯する中、バサラの王として君臨せんと暗躍するヒュウガ。彼の野望の行方は……


 鎌倉時代末期から南北朝時代という、ある意味タイムリーな時代をモチーフにしつつ、もう一つ、望月三起也の漫画『ジャパッシュ』を本作。
 現代の日本を舞台に、その美貌とカリスマ性によって力を手にし、独裁者としてのし上がっていく日向と、その危険性を見抜き抗う石狩の戦いを描いた『ジャパッシュ』――望月三起也の作品の中でも異色作・問題作であり、それだけにファンの心に焼き付いた作品――それをモチーフにしたと聞けば、わかる人間には一発で「なるほど、そういう話なのね」と理解できるはずです。

 そんなわけで実際に観る前には「南北朝を舞台にした『ジャパッシュ』か――生々しい話になりそうだなあ」とか「己のカリスマでのし上がって支配者になる男だと、この後に歌舞伎で再演される『朧の森に棲む鬼』とかぶるのでは?」などと思っていたのですが――しかしそれはもちろんこちらの浅はかさというもの。実際に眼の前で繰り広げられたのは、そんな思いを遥かに超える世界だったのですから。

 まず驚かされたのは、劇団☆新感線と南北朝――というよりこの時代の「バサラ」との親和性の高さです。

 バサラ(婆娑羅)とは、「南北朝内乱期にみられる顕著な風潮で、華美な服装で飾りたてた伊達な風体や、はでで勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい、またはそのようす」(日本大百科全書)。
 本作のサキドのモデルである佐々木道誉がその代表的な担い手として有名ですが、本作のヒュウガは、彼女以上に、その言葉に相応しい存在として描かれます。冒頭、舞台の上から吊りで「降臨」する時点で心を掴まれましたが、その後も物語の要所要所で歌い、踊る姿は、まさにバサラの王に相応しいというほかありません。

 そもそも、劇団☆新感線の、いのうえ歌舞伎の魅力の一つは派手な歌と踊り。ヒュウガを中心に、躍動感たっぷりに人々が歌い、踊る姿は、大袈裟にいえば、まさにバサラのイメージを具現化したものと感じられます。

 劇団☆新感線で南北朝といえば、過去に『シレンとラギ』がありますが、ギリシア悲劇をベースとしたあちらと比べると、この「バサラ」という存在を中心に据えた本作は、全く異なるイメージの作品であり――そしてよりこちらの心に響くものとして感じられました。


 さて、そんな世界に登場するキャラクターたちですが――それについては、長くなりましたので稿を改めて述べたいと思います。


関連サイト
公式サイト

|

2024.08.17

八月納涼歌舞伎『狐花 葉不見冥府路行』 京極作品の歌舞伎化という点では満点の一作

 京極夏彦が描き下ろした新作歌舞伎、そして何より中禅寺秋彦の曽祖父にして、『了巷説百物語』でも活躍した中禅寺洲齋が登場するということでファンとしては見逃せない『狐花 葉不見冥府路行』を観劇して参りました。「この世に居るはずのない男」の起こす事件に、憑き物落としの男が挑みます。

 作事奉行・上月監物の一人娘・雪乃が垣間見て以来心を奪われた美青年・萩之介。しかし雪乃付きの女中・お葉は、萩之介を見かけて以来寝付いてしまうのでした。
 そして材木問屋の近江屋の娘・登紀、口入屋の辰巳屋の娘・実袮と会うことを望むお葉。それを知った監物と用人の的場、近江屋と辰巳屋は、二十五年前の自分たちのある所業に関わるのではないかと考えるのでした。

 そしてやってきた登紀と実袮に、萩之介が現れたと語るお葉ですが、二人は一笑に付します。それもそのはず、三人は愛欲の縺れから、協力して萩之介を殺したのですから。
 しかしその後、お葉は何処かへ姿を消し、それぞれ萩之介を目撃して狂乱した二人は、自分たちの父親を殺してしまうのでした。

 事ここに至り、萩之介の幽霊に対するため、的場は憑き物落としを得意とする武蔵晴明神社の宮守・中禅寺洲齋を招くことに……


 という筋立てで、美しき復讐鬼と黒衣の陰陽師の対決を描く――というのが正確かどうかはさておき、序幕の二十五年前の惨劇に続き、死人花が咲き乱れる中に立つ朽ちかけた鳥居の下で、萩之介と洲齋が対峙するという、実に絵になる場面から始まる本作は、やはりこの二人の物語というべきでしょう。

 といっても洲齋の出番は存外に少なく、一幕目はここと中盤のだんまりのみ、二幕目でようやく登場するも、探偵役というより一種の見届け役的な位置づけで、メインとなるのは萩之介という印象が強くあります。
 この萩之介、演じるのは中村七之助ということで、これは素晴らしいに違いないと期待していた通りの存在感――生者とも死者ともつかぬ、関わる人間を破滅させていく正体不明の美青年という強烈なキャラクターに実態を与え、そしてそこに隠された哀切な素顔を描いてみせるのにはただ、感嘆させられました。(七之助は、二役目のお葉の病み疲れた姿もお見事)

 一方の洲齋は、松本幸四郎が演じるということで、これも安定していましたが、ところどころでコミカルな顔を見せるのは、原作の生真面目な姿からするとちょっと違和感があるかもしれません。もちろんこれも幸四郎の持ち味(の一つ)とすればそれも納得ですが、この洲齋の真骨頂は、後述するラストの会話劇にこそあると感じます。
(ちなみに冒頭のくだりで、七之助に比べると声が出ていなかったように感じられたのは、これは音響の関係でもあるでしょうか)

 その他、諸悪の根源というべき監物は、京極時代劇に時折登場する、もう信じられないくらいの極悪人を中村勘九郎がサラリと、そして監物の懐刀の的場は市川染五郎が手堅く演じていましたが、特に染五郎は若い頃の幸四郎を思わせる存在感で感心しました。


 さて、物語的にはミステリではありつつも、結構肝心なところがぼかされているのが少々残念(私は小説版はまだ未読ですが、この辺りはさすがに描かれているのでしょう)ではありましたが――複雑な因と果が絡み合った末にカタストロフを迎えるという京極作品らしさが、歌舞伎に想像以上にマッチするのは、嬉しい驚きでした。

 その一方で、歌舞伎としてみると物理的な動きが小さく、台詞主体であるために、どうしても場面場面のカタルシスが小さめな印象は否めません。
 特にラストは、洲齋と監物がただ二人、最小限の動きのみでひたすら語り合うというもので、純粋な歌舞伎ファンの方からは、おそらく厳しい目で見られるのではと感じます。

 この辺り、いかに京極作品(というか中禅寺秋彦の登場作品)ではこの長台詞が定番とはいえ、他のメディアであればちょっと――と思ってしまうかもしれませんが、しかし本作の場合、これはこれできっちりと成立しているのは、これは台詞回しや間合いといった役者の技が、すなわち歌舞伎ならではというべきでしょう。

 ――そして、京極ファンの立場からいうと、中禅寺の憑き物落とし(正確にはちょっと違うのですが)を生で、リアルタイムで見せられるというのは、これはもう得も言われぬ不思議な感覚で、こればかりはこの場でなければ味わえぬ体験であったと断言できます。

 歌舞伎という点では異色作にして、そして京極作品の歌舞伎化という点では満点だったというべきでしょうか。いずれにせよ、生で観劇すべき作品と感じた次第です。

|

2022.05.16

劇団☆新感線『神州無頼街』 幕末伝奇! 痛快バディvs最凶カップル、大激突!

 一昨年、新型コロナの影響で公演延期となった『神州無頼街』が、帰ってきました。富士の裾野に築かれた無頼の街を舞台に、クールな腕利きの医者と口八丁手八丁の口出し屋が、正体不明の侠客一家が目論む大陰謀に立ち向かう、幕末伝奇大活劇であります。

 時は幕末、所は清水湊――清水次郎長親分の快気祝いに名だたる親分衆が集まる中、突如現れた男・身堂蛇蝎。妻の麗波、息子の凶介、娘の揚羽を引き連れ、傍若無人に振る舞う蛇蝎に激昂する親分衆は、突如もがき苦しみだし、倒れていくのでした。。
 そこに駆けつけた町医者・秋津永流の手当で次郎長は助かったものの、親分衆は全滅。これ事態を引き起こしたのが、この国にいるはずのない毒蟲・蠍だと見抜いた永流は、蛇蝎に対してある疑いを抱くのでした。

 一方、清水湊をうろついては他人の事情に勝手に口を出し金をせびる「口出し屋」の草臥は、蛇蝎一家の凶介が自分の幼なじみ・甚五と瓜二つだったのに驚くのですが――向こうは草臥のことなど知らず、それどころか逆に刃を向けてくるではありませんか。
 蛇蝎一家を中心に次々と起こる奇怪な事件と不穏な動き――これに対して、永流と草臥は、蛇蝎を探るため、彼が築いたという富士山麓の無頼の街に向かうことを決意します。しかしそこで待ち受けていたものは、彼ら二人の隠された過去に繋がる謎と秘密の数々だったのであります。やがて二人は、この国を揺るがす蛇蝎一家の大陰謀と対峙することに……


 というわけで、42周年興行として上演の運びとなった『神州無頼街』。私も二年待ちましたが、無事観劇することができました。
 物語的には、「無茶苦茶強い正体不明の流れ者が、さらに強くて悪い奴の陰謀を叩き潰すために大暴れする」という、皆大好きなスタイルの本作。しかも今回は、その主人公が二人――つまりバディものなのが最大の魅力でしょう。

 一見クールながら心優しく、医者ながら武芸の腕も立つ永流(福士蒼汰)。そして口から先に生まれたようなお調子者ながら、やはりバカ強い草臥(宮野真守)。そんな二人が、それぞれ実に気持ちよさそうに、物語の中を飛び回ることになります。
 特に歌手としても活躍している宮野真守は、劇中歌の多くを実に気持ちよさそうに歌いまくり。元々歌も踊りもふんだんに投入されているのが劇団☆新感線ですが、今回は特にその度合いが大きかったように感じるのは、このムードメイカーの大活躍があってのことでしょう。

 そして忘れてはいけないのは、本作が時代伝奇ものであること。そもそもタイトルからして古き良き時代伝奇小説の証である(?)「神州」というワードを掲げているわけですが、幕末伝奇とくれば――という二大ネタがどちらも投入されているのがまず嬉しい。
 しかしそれはあくまでもいわば前フリであって、メインはさらにスケールの大きな、とんでもない展開が用意されていたのには、正直に申し上げて唖然としました。
(ちなみに「神州」らしくというべきか、ニヤリとさせられるような用語や場面も幾つか登場するのにも注目)

 しかし本作で最大のインパクトを感じさせるのは、主人公たちが挑む強敵――身堂蛇蝎と妻・麗波であることは間違いありません。
 死と暴力が人間の形をしているような、しかしどこか茶目っ気のある蛇蝎、そして彼を支える妖艶華麗な美女――では終わらない麗波と、強烈極まりないこの二人。そんなカップル好演/怪演/熱演する二人――新感線初登場の高嶋政宏と常連の松雪泰子に目を奪われました。

 特にこの二人こそが、上で触れたとんでもない展開の仕掛人なのですが――いやはや、これまで色々と時代伝奇ものを見てきましたが、ここまで凄まじいことを企んだ奴は見たことがありません。間違いなくいのうえ歌舞伎、いや新感線の舞台史上でも最凶最悪のカップルであることは間違いないでしょう。


 しかし正直なところ、この強烈すぎるカップルの前に、主人公たちの存在感がいささか薄れがちに感じられたのも事実。
 また――この辺りは内容の詳細に触れかねないためにぼかしますが――作中に登場した二つの「家族」の存在が、物語展開や主人公たち(というか草臥)とあまり有機的に結びついていないという印象もありました。

 そんな勿体無い部分はあったものの、本作が新感線の二年遅れのアニバーサリーイヤーに相応しい、ド派手でケレン味たっぷりの時代伝奇活劇であったことは間違いありません。
 特に主人公コンビはこの一作で終わるのはもったいない――彼らの痛快なバディぶりを、是非また見てみたいと心から思います。


関連サイト
公式サイト

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2021.12.27

宝塚歌劇『宝塚剣豪秘録 柳生忍法帖』(後編) 十兵衛とおゆらの関係、おゆらの変化の意味

 宝塚歌劇団によって舞台化された山田風太郎『柳生忍法帖』の(ライブビューイング)の紹介の後編であります。限られた時間の中で、原作のエッセンスを活かしつつ見事に舞台化してみせた本作。その中で最も印象に残るのは……

 本作において最も印象に残るのは、そして物語の中心にあったのは、礼真琴演じる柳生十兵衛と、舞空瞳演じるおゆらであったことは間違いないでしょう。

 柳生十兵衛は、豪快にして稚気溢れる、そしてどこか紳士的な心意気を忘れない剣侠児を見事に再現――登場時はちょっと若いかなという印象でしたが、鶴ヶ城でのあの大啖呵を気持ちよく見せてくれました。
 そしておゆら――ある意味作中で最も変貌を遂げる彼女を、この舞台では台詞はもちろんのこと、しかし何よりも特に目に現れる微妙な表情で示してみせたのが素晴らしい。(この演技を観ることができたのは、ライブビューイングならではの利点といえたかもしれません)

 そもそも本作のおゆらは、原作の彼女とは異なる点も多いキャラクターであります。その立ち位置こそ、銅伯の娘で明成の愛妾の妖艶な美女、と変わりませんが――前回紹介したあらすじで述べたように、江戸の時点で一種の銅伯の名代として登場するという変更点もありますが――むしろその内面において大きく異なると感じます。

 本作においては実は虹七郎と慕い合い、父によって明成の側に遣られる際に、連れて逃げてくれと願いながらも彼に裏切られていたおゆら。この点を踏まえれば、本作での彼女は、父と恋人に裏切られ、芦名家復興の道具として使われた存在なのであります
(おゆらを挟んで、十兵衛と虹七郎の対称性が強まっているのもなかなか面白い。そこまで強調はされませんでしたが……)

 それが奔放不羈な十兵衛と出会って、彼女がどう変わったか――それは悪女の深情けというものに留まらず、道具であった彼女が、十兵衛の自由な魂に触れて自分自身を取り戻した、自分自身を解放したというべきものだったのではないでしょうか(この辺りは本作オリジナルの末期の台詞に明確であります)。
 原作では自ら魔香に酔ってという描写もありましたが、本作においては彼女には魔香は効かないという設定であり、あくまで己の意思のみでもって十兵衛に恋した点に注目すべきでしょう。

 そんな原作とは少々、しかし明確に異なる彼女の設定と物語の中に、本作をいま、そして女性のみで構成された劇団で演じる意味がある――というのは、これはさすがに深読みが過ぎるかもしれません。
 しかし天海との対面のくだりで、これも原作にはない、千姫に自分がお家の道具として使われた過去を語らせる点も鑑みれば、これはこれで当たらずとも遠からずなのではないでしょうか。

 実は本作のラストの十兵衛の台詞は、原作のそれとほとんど同じであるようで――こちらの聞き間違えでなければ――微妙に異なるものであります。
 そして原作での台詞の根底にあるのが一種の義務感であったとすれば、本作のそれの根底にあったのは共感ではないでしょうか。

 実は十兵衛もまた、かつては縛られた境遇にあった者(本作においていかにも堅物そうな父の描写からわかるように、十兵衛は将軍家指南役という、ある意味非常にお固い役目につく宿命にあった人物であります)
 そんな彼だからこそ、おゆらの境遇を理解し、共感できたのではないか――そう感じた次第です。


 などとあれこれ妄想混じりに申し上げましたが、本作が一時間半強という時間内で、長大な原作を巧みに換骨奪胎し、豪華な衣装と歌と踊りで再生してみせた、ストレートに楽しい作品であったことは間違いありません。
 十兵衛と虹七郎の決着は原作の方がよかったな、とか、十兵衛のラス台詞前の実に格好良い台詞は残して欲しかったな、などと、厭な原作ファンとしては細かいところで色々と思う点はありますが、このような形で舞台化してくれただけでもう感謝感激というほかありません。

 ありがたいことにソフト化もされており、ぜひ原作読者はその内容を確かめていただきたいと思いますし、また舞台をご覧になった方には、ぜひ原作の方も手に取っていただきたい――そう強く願うところであります。


関連サイト
公式サイト

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2021.12.26

宝塚歌劇『宝塚剣豪秘録 柳生忍法帖』(前編) 驚きの、しかし納得の舞台化!

 本日東京公演千秋楽の宝塚歌劇『柳生忍法帖』をライブビューイングで観劇しました。原作は言わずと知れた山田風太郎の大長編、私のオールタイム・ベスト時代伝奇小説だったものが宝塚で!? と大いに気になっていたのですが、ようやく観ることができました。(以後、原作ファンの視点からの文章になるのをお許し下さい)

 会津四十万石の藩主でありながらも荒淫無道な加藤明成に見切りをつけ、一族で退転した堀主水。しかし彼らは明成子飼いの会津七本槍に捕らえられ、一族で生き延びたのは鎌倉東慶寺に逃れ、千姫に庇護された七人の女性のみという無惨な結末になるのでした。
 一族を辱め、なぶり殺しにした明成と七本槍に復讐を誓った七人の女性。その願いに応えるべく招請された沢庵和尚の依頼で、指南役を買って出た者こそ、柳生十兵衛であります。

 しかしそんな中、江戸で婚礼を上げる男女が何者かに拐われ、千姫の屋敷前に花婿のみが晒されるという事件が頻発することになります。加藤家の陰謀と見て、自ら花婿に扮する十兵衛ですが、はたして七本槍に拐われることに。
 そしてその前におゆらと名乗る美女が現れ、窮地に陥るのでした。

 辛くも堀の女性たちの機転で救われ、明成に痛打を与えた十兵衛。会津に逃げ帰る明成を沢庵とともに追う十兵衛と女性たちは、領内で女狩りを繰り返す七本槍を阻もうとするも、明成の腹心にして七本槍を束ねる魔人・芦名銅伯は、これに苛烈な反撃を加えることになります。
 やむなくただ一人鶴ヶ城に向かう十兵衛。その前に現れた銅伯と刃を交える十兵衛ですが、しかし……


 原作は分厚い文庫上下巻、せがわまさきによる漫画版『Y十M 柳生忍法帖』は全11巻と、まず大長編といってよい『柳生忍法帖』。
 そんな作品を舞台化するというだけでも驚きですが、上演時間はなんと一時間半強。歌や踊りもふんだんに入る舞台で、それはさすがに無理があるのでは――と思いきや、原作の要点要点を抑えることで舞台版の『柳生忍法帖』を作り上げているのには、感心かつ納得させられました。

 しかし原作ではっきりとカットされたのは、吉原での攻防と、会津から江戸へのお千絵らの脱出行のくだりくらいではないかという印象。後はエッセンスのみの部分も少なくないとはいえ、ほぼ全て取り入れられているのには驚かされます。
(ちなみにキャラクターたちも、ほとんど出番はないものの沢庵の七人の弟子や、ラストの柳門十哲まで、きっちり揃っているのも驚き)

 もちろんかなり慌ただしい点は否めず、また天海が死ぬわけにはいかない理由も、台詞を聞いているだけでは分かりづらい部分があったと感じます。
 しかし冒頭と柳生十兵衛見参のくだり、そして銅伯との最後の対決からラストまでは原作にほぼ忠実で、あの場面が、この台詞がこのような形で観られるとは! と原作ファンとしてはただただ感無量なのであります。


 尤も、原作で大きな割合を占めていた、会津七人衆と堀の女たちの一種のゲーム性溢れるバトルの要素がほとんど削られているのは、これは実にもったいないところでしょう。
 というよりも七人衆の技がほとんど再現されておらず、正直なところ誰が誰かわかりにくく――香炉銀四郎は顔に傷があるのでわかるのですが、司馬一眼房は隻眼ではないし、漆戸虹七郎は両腕ある――倒されたシチュエーションとタイミングで、ようやく誰かわかるというのは、ちょっと残念に感じた次第ではあります。
(それにしても原作では三匹の犬使いだった具足丈之進が、本作では同名の三人の少年を使役しているのは、これはこれでちょっとスゴい)

 とはいえ、七本槍の派手なビジュアルは実に鮮やかで――何よりもコスチュームにはそれぞれ原作でのキャラクターや使う技の意匠が込められているのが嬉しい。例えば銀四郎は霞網を思わせる襟巻きが、虹七郎の着物には花柄が、というのはニヤリとさせられるところであります。
 またビジュアルといえば、芦名銅伯も、長髪痩躯、年齢不詳の美丈夫――不老不死という点では共通の『バジリスク 甲賀忍法帖』での薬師寺天膳を彷彿とさせる――というアレンジが施されていたのには、なるほどこういう手があったか、と感じ入った次第です。


 さて、そんな本作において、しかし最も印象に残るのは――と、随分長くなってしまったため、大変恐縮ですが、続きはまた明日とさせていただきます。(本日分に全て書きたくはあったのですが……)


関連サイト
公式サイト

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2021.09.21

劇団☆新感線『狐晴明九尾狩』 安倍晴明vs九尾の妖狐! フルスペックのいのうえ歌舞伎復活!

 久々の劇団☆新感線であります。平安のヒーロー・安倍晴明と平安の大妖怪・九尾の妖狐の激突を、中村倫也と向井理という豪華キャストで描く、知恵比べあり大立ち回りありの大活劇――中島かずき脚本・いのうえひでのり演出のいのうえ歌舞伎、堂々の新作『狐晴明九尾狩』を観劇して参りました。

 平安の夜の闇を切り裂く流星――それをこの世に災いをもたらす凶兆と見て、帝に奏上せんとする安倍晴明(中村倫也)。ところが宮中で疎まれている晴明の言は容れられず、代わって重きを為すようになったのは、大陸留学から帰ったばかりの陰陽道宗家・賀茂利風(向井理)でありました。

 しかし自分にとっては親友だった利風こそが、大陸でその身を乗っ取り、日本にやって来た九尾の妖狐の化身であることを見破った晴明。その事実を伝えに来日した狐霊のタオフーリン(吉岡里帆)らと共に、その正体を暴き、京を救おうと奔走する晴明ですが、逆に利風の策にはまり、窮地に陥ることになります。

 その間にも宮中に取り入り、新たな貨幣鋳造を進める利風。果たしてそこに秘められた利風=九尾の妖狐の恐るべき思惑とは何か。そして晴明は九尾の妖狐を倒し、親友の仇を討つことができるのか――丁々発止の知恵比べが始まります。


 個人的なお話で恐縮ですが、昨年の『偽義経冥界歌』は(観劇しようと思っていた回が)中止となり、『神州無頼街』は延期となり――本当に久々の新感線観劇となった今回。

 このご時世ゆえでしょう、いつもの新感線の舞台よりも明らかに短い二幕で三時間弱という構成ですが、その分、かなりテンポ良く進んでいく印象があります。
 出演陣のメインは外部の俳優中心、脇をベテラン劇団員が固めるというパターンですが、メインどころは吉岡里帆以外、全員新感線経験者ということもあり、まったく違和感ない内容でした。

 物語に目を向ければ、晴明と蘆屋道満以外は全て架空の登場人物となっており、ファンタジー要素が強い内容の本作。その分、史実に縛られずに、自由に人と妖の物語が展開されていた印象があります。
 細かいことをいえば、九尾狐が日本に現れるのは晴明の時代から約二百年後ですが(といってもこういうお話もあるのですが)、作中で語られる設定は全くのオリジナル、性別も男ということで……

 ちなみにいのうえ歌舞伎で晴明というと『野獣郎見参』を思い出して、思わず身構えそうになりてしまますが、本作の晴明は比較的シンプルな、色々な意味で心正しき陰陽師。
 飄々として物柔らかな、しかしどこか油断ならないキャラクターは、演じる中村倫也という役者のイメージ通りですが――その一方で、時に驚くほど喜怒哀楽の激しい側面を見せてくれるのが印象的で、それが物語の諸所で効果的に描かれています。

 それにしてもいのうえ歌舞伎というか新感線の主人公は「好漢」と言いたくなるキャラが多いのですが、今回の晴明は「イケメン」それも「やだ、イケメン……」と言いたくなるような反則的な造形。
 一方、彼とは人間時代には肝胆相照らす親友、妖狐に乗っ取られてからは不倶戴天の敵となる行風役の向井理は、絵に書いたようlなクールな美形悪役ぶりに感心であります。

 物語のメインとなるのは、この二人が騙し騙されの知恵比べなのですが――内容的にアタック&カウンター・アタックの連続という印象ではあるのですが、しかし終盤の畳み掛けるようなどんでん返しの連続(ここからまだ来るか!? と本当に何度も思わされるほど)が実に強烈。
 何よりもクライマックスに至り、その知恵比べの構図の意味が、晴明と行風の二人の想いのぶつかり合いと共に浮かび上がる様は、ただただ圧巻というほかありません。

 そしてその先に、一種のパブリックイメージとしての超人晴明像をフォローしていくのも、心憎いところであります。


 正直なところ、時間が短いわりには(特に味方側の)キャラクターがバラエティに富みすぎていて、個々の出番が少なめに感じる部分はあります。
 しかし得体の知れない強キャラ感と変態ぶりを兼ね備えた千葉哲也演じる道満や、普段のイメージとは全く異なる武人キャラだった浅利陽介演じる検非違使など、いつもながらに個性的なキャラの乱舞に惹きつけられたのもまた事実であります。
(しかし、私もたいがい色々な道満を見てきましたが、こんな性癖のは初めて見た……)

 キャラ・物語・演出――フルスペックで復活した劇団☆新感線、復活したいのうえ歌舞伎を堪能させていただきました。


関連サイト
公式サイト

関連記事
『野獣郎見参』 晴明と室町と石川賢と

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

2020.11.30

正子公也『水滸 一百零八将』 日本一の水滸伝画集、中国で刊行!

 このブログでは基本的に一般に手に入るもの、入れられたものを対象にしていますが、今回紹介するのは微妙にそこから外れるかもしれません。絵巻作家・正子公也の水滸伝画集『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』の中国版『水滸 一百零八将』の紹介であります。

 三國志や戦国もの(特に最近は後者が多いでしょうか)を中心に、美麗かつ迫力満点、そして何よりも対象のことを深く理解していて初めて成立する、物語性を深く感じさせるイラストを描く正子公也。
 しかし水滸伝ファンにとっては、言うまでもなく日本で描かれた水滸伝において、その原典の理解度と面白さで頂点にある(断言)『絵巻水滸伝』のビジュアル担当であり――言い替えれば日本一の水滸伝絵師であります。

 その正子公也が水滸伝のイラストが初めて(少なくとも一定数以上まとめて)掲載されたのは1997年の『水滸伝 天導一〇八星 好漢FILE』かと思いますが、私はその時からの大ファン。そしてその作者が梁山泊の好漢百八人全員を描いた画集が、1999年にグラフィック社から刊行された『絵巻水滸伝 梁山豪傑壱百零八』であります。
 一部の好漢のみだった『好漢FILE』掲載作品だけでも素晴らしかったものが、百八人全て勢揃いした時のインパクトたるや――冗談や誇張抜きで呆然とさせられたほどだったのを今でも思い出します。

 その後、この画集は2006年に『絵巻水滸伝』の書籍化と合わせて魁星出版から(収録作品にはほとんど変更はないものの、好漢の渾名の英語名など修正を加えて)復刊されましたが、以来残念ながら絶版となっております。

 それが今年になって、水滸伝の母国である中国の人民文学出版社から、全4巻の正子公也画集『正子公也の宇宙』の第1巻として発売される――というニュースを知った時は、ある意味凱旋帰国という点は喜んだものの、正直なところ、日本版両方とも持っていることもあり、そこかで感心をそそられませんでした。
 しかしその内容が決定版とも言うべきもの――これまでの版では好漢の並びが作中の登場順であったものが席次順に変更され、さらに『絵巻水滸伝』の第一部の中で印象的な装画、さらに第二部の遼国篇と田虎王慶篇の表紙も収録されていると公式ブログで見れば、むむっとこないはずがありません。

 しかしさすがに中国国内のみでの発売のものだからこればかりは仕方ない――と思っていたところに、少数ながら国内でも通販されると知り、慌てて飛びついた次第であります(と言っても本当にギリギリのところだったのですが……)


Img_20201129_213946_1 さて、実際に届いた画集はといえば、これが写真で見れば判るように、縦横でいえば一回り、厚みでいえば倍近く違う外観。縦横はともかく厚みがここまで異なるのは、実は日本版は一ページに好漢一人、すなわち見開きで好漢二人だったものが、この中国版の百八星のパートは、見開きで好漢一人に変更になっているためであります。
 左側のページに好漢名が大きく迫力ある字体で記され、その他に日本版の巻末に収録された森下翠による好漢列伝の中国語訳や好漢の英語名等を掲載。そして右側に正子公也のイラストが掲載される形となっています。

 ちなみに本書は四章構成、「三十六天コウ星」「七十二地サツ星」は百八人のページですが、作中の名場面は「流星幻影」、第二部の表紙は「万里征途」――と、実にシビれる章題となっています。
(その他細かい仕様は、公式ブログの記事を参照)

 それにしてもこの中国版の百八星のページは、正子公也の画集としては言うまでもなく、水滸伝の百八星図鑑としても優れたものとなっている――としか言いようがなく、水滸伝ファンとしては、良いものを手に入れた! というほかありません。
 もっとも、日本版では、原典でペア扱いだった好漢たちは見開きで並ぶことを想定したような構図(例えば見開きで対峙する形の呂方と郭盛、阿吽の形で大見得を切っている杜遷と宋万など)になっていたものが、切り離されてみると――これはこれでもちろん成立しているものの――また違って見えるのは、ちょっと不思議な印象がありました。


 何はともあれ、少し早い自分へのクリスマスプレゼントとなったこの画集(作者のサイン入りの上、おまけで素敵なクリスマスカード(写真左)が!)。
 来年は『絵巻水滸伝』がついに完結することになりますが、最後の最後まで、いやその先まで応援していこう! と誓いを新たにした次第であります。


 しかし、見落としかもしれませんが、大事な人が一人抜けているような……(いや、作中の絵はあるのですが)


『水滸 一百零八将』(正子公也 人民文学出版社)


関連記事
 「絵巻水滸伝」第1巻 日本水滸伝一方の極、刊行開始
 「絵巻水滸伝」第2巻 正しきオレ水滸伝ここにあり
 「絵巻水滸伝」第3巻 彷徨える求道者・武松が往く
 「絵巻水滸伝」第四巻 宋江、群星を呼ぶ
 「絵巻水滸伝」第五巻 三覇大いに江州を騒がす
 「絵巻水滸伝」第六巻 海棠の華、翔る
 「絵巻水滸伝」第七巻 軍神独り行く
 「絵巻水滸伝」第八巻 巨星遂に墜つ
 「絵巻水滸伝」第九巻 武神、出陣す
 「絵巻水滸伝」第十巻 百八星、ここに集う!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇1 帰ってきた最も面白い水滸伝!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇2 強敵襲来、宋国十節度使!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇3 絶体絶命、分断された梁山泊!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇4 立て好漢!! 明日なき総力戦!!
 正子公也&森下翠『絵巻水滸伝 第二部』招安篇5 集え! 「梁山泊」の下に!

このエントリーをはてなブックマークに追加
 

|

より以前の記事一覧